第202回 菊池裕『ユリイカ』

ドナーから移植患者レシピエントへうつり棲む臓器をぢかに触れるゆびさき
                                                                   菊池裕『ユリイカ』
 臓器の生体移植を詠んだ歌である。提供者はドナー、移植対象はレシピエントとカタカナ語で呼ばれる。乾いた感触のカタカナ語は日本語に付きまとう情緒を剥奪し、対象を突き放して見る効果を伴う。とはいえ執刀する医師が相手にしているのは生きた人間であり、生きた臓器である。そこには体温があり、触れるとぬらりとした感触がある。医師の指先はそれを感じているはずだ。この歌のポイントは「うつり棲む」で、まるで引っ越しのように臓器に意志があり、臓器が主体的に移動しているかのようだ。まさに「分断された身体」であり、古典的な統一された身体と人格という考え方が通用しなくなった現代を象徴する場面と言えよう。とても現代的 (contemporary) な歌で、同時代的 (con-temporary) であることは菊池によって重要なことなのだ。
 第一歌集『アンダーグラウンド』から11年ぶりの第二歌集である。2015年9月に刊行されたので、もう刊行から1年半くらい経過している。取り上げる機会を逸していたので今回論評してみたい。
 生活実感と短歌の〈私〉を重視する歌人は多く編年体を採用する。作られた順に歌を並べることで、歌集は日々の記録となり〈私〉の歴史となるからである。しかし生活実感よりも短歌に美もしくはそれ以外のものを求める人は、歌集を構成的に編もうとする。菊池は明らかに後者である。『アンダーグラウンド』では「都市譚」「禁忌譚」「冥界譚」の三部構成を取っていたが、本歌集では「即身」「早贄」「夜見」の三部構成となっている。あとがきの解説によれば、「即身」は成仏できない肉体の嘆き、「早贄」は社会の不条理を暗示し、「夜見」は文字通り夜を見ることであると同時に黄泉を黙示しているという。
副都心線のホームへなだれゆく群集心理さへも誤作動
空蝉の赤の他人にまぎれこむ指紋認証されドアが開く
あしひきの摩天楼から眼のまへのビルへとむかふランチタイムに
タクシーを拾ひ「黄泉へ」と告ぐる日の行く末どこにもなく迷ひたり
くびられるまへの動画を窃視せりオレンジ色の屍衣なびく見ゆ
 第一部「即身」から引いた。一首目、現代東京の通勤風景だが、「群集心理」と「誤作動」に主体性を剥奪された現代の私たちが描かれている。二首目、「空蝉の」は命、身、人に掛かる枕詞で、ここでは「他人」に掛かる。私たちのアイデンティティは指紋という皮膚模様になり果てている。「あしひきの」は山、峰に掛かる枕詞だが、ここでは都市の山である摩天楼に掛かる。四首目、古事記で黄泉へと降るのはイザナギだが、この歌ではタクシーが黄泉下りの乗り物となっている。「黄泉へ」と告げたはいいが、行く先がすでに失われているのである。五首目はおそらくイスラム国による人質の処刑場面だと思われる。処刑の場面がインターネットで配信され、世界中の誰もがそれを見るというものかつてない出来事である。
 これらの歌を見てもわかるように、菊池の作歌姿勢は〈私〉を詠うことにはなく、〈私〉が限りなく希薄化し浮遊する現代という時間と日本の社会を詠うことにある。『アンダーグラウンド』のあとがきに「現代の社会批評たり得ようと本書を編んだ」とあり、『ユリイカ』のあとがきには「今も同じ作歌姿勢である」と菊池ははっきりと書いている。したがって本歌集には、「同性婚」「アイドル総選挙」「カプセルホテル」「放射線量」「復興支援物資」「格差社会」などの時事的語彙が溢れている。
 では菊池の歌は「社会詠」に分類されるかというと、事はそうかんたんではない。というのも菊池の主眼は単に批判的な眼差しで社会を詠うことにはなく、現代社会の中でアイデンティティが希薄化し浮遊する〈私〉の位相を社会との関わりのなかで浮き彫りにすることにあるからである。短歌が抒情詩である限り〈私〉を去ることはできないのだから、それはある意味当然のことだろう。
 前回『アンダーグラウンド』を取り上げたとき、藤原龍一郎の短歌世界との類似と相違を指摘し、藤原と異なり菊池の歌にはあまり固有名が登場しないと書いた。しかし『ユリイカ』にはわりに固有名が出て来る。いくつか拾い出してみよう。
ごく稀に脳裏をよぎる恍惚はロバート・キャパの視たる肉塊
触れたのは柔らかなもの 蜜蜂の蜜を垂らしたレヴィ=ストロース
名にし負ふサルトル生誕百年の何も無ければ昼ゆるびたり
ウクライナ民族詩人シェフチェンコ独立広場に遺棄したるもの
巴里の午後トマ・ピケティの薄笑ひ経済学を数値でわらふ
ビジネスが少し遅れて痩せてゆくアルビン・トフラーふうにいふなら
幕末に生まれ昭和に暮れ泥む平沼騏一郎の暮色や
菜食をこのむ貴様のゆびさきにジョルジュ・ソレルの暴君がゐる
 固有名は共有知識に基づくコノテーション(共示的意味)が豊かので、歌に詠み込むだけで意味の広がりを得ることができる。一首目のキャパは最も有名な戦場カメラマンだから、その名前の向こう側に去来するのは戦争である。二首目は文化人類学者レヴィ=ストロース晩年の大著『神話論理』の第2巻『蜜から灰へ』。三首目のサルトルは1905年生まれだから生誕百年は2005年である。しかし特に記念行事も行われなかった。哲学・思想が社会をリードした時代は終わったのだ。四首目のシェフチェンコはロシア皇帝を批判する詩を書いて流刑になった詩人。キエフの独立広場は2004年のオレンジ革命の舞台となった場所である。五首目のピケティは大著『21世紀の資本』で話題になった経済学者で、暗示されているのは格差社会である。六首目のトフラーは『第三の波』で有名な未来学者。七首目の平沼騏一郎は戦前に総理大臣を務め、A級戦犯として巣鴨ブリズンで獄死した政治家。八首目のジョルジュ・ソレルは『暴力論』を表したマルクス主義者。
 固有名は豊かなコノテーションを持つのだが、共有知識に依存するので、知っている人にはわかるが、知らない人には何のコノテーションも伝えないという不利もある。上に引いた歌に登場する固有名を見ると、菊池がどのような現代社会の問題に関心を持っているかがわかる。藤原龍一郎の歌におびただしく登場する固有名は抒情の装置なので、両者の歌における固有名の機能はずいぶんちがうのである。微妙に異なりつつも相通じる作歌姿勢を持つ藤原は、通巻1100号を迎えた中部短歌会の『短歌』記念号に寄せた文章で、菊池の『ユリイカ』がその年の寺山修司短歌賞を受賞するだろうと予想していたが、案に相違して受賞しなかったので落胆したと書いている。
 さて、菊池のように「現代的」であることを重視する短歌の問題は、時が経過するにつれて古くなることである。「風営法改正」「格差社会」「ブラック企業」「過労死」などはニュースで報じられ新聞などで論じられている現代的問題だが、今から50年100年後にはその言葉の意味すらも忘れられているだろう。そのとき菊池の歌がどのように読まれるかはまったく想像できない。おそらく菊池自身は「いや、それでよい」と肯うことであろうが。
 最後に印象に残った歌を挙げよう。
たまかぎる夏至の日盛りはろばろと神の数式解くいとまあれ
日常の瑣事の坩堝にけぶり立つ けふ咲く花はけふを忘れる
眦の白い少女とすれ違ふわたしの影を踏んでゆくなり
墓碑銘を刻むことなき石塊の献花しをれて氷雨撃つのみ
不発弾処理にむかつたあのひとのゐないゆふひを見る会へ行く
何処までがこゑ何処までが身体か抒情ふるはせながら啼く百舌鳥
寒天のピアニッシモのふるへたりその観念の果てを視てゐつ
雛菊の首の折れたるところより腐るゆふべの言葉は無力
 特に心に沁みたのは二首目の箴言「けふ咲く花はけふを忘れる」だ。いくつの意味にも取れる。「今日咲く花も明日になれば今日を忘れる。それほど日常ははかないものだ」という意味にも取れるが、私は古東哲明の名著『瞬間を生きる哲学』にならって、「今日咲いている花は一心不乱に咲いているので、今という時間を忘れて咲くことに没頭している」という〈現在〉の滅却の意味に読んでみたい。そう読めば瑣事の坩堝もそう悪いものでもなかろう。
 現代では珍しい述志の男歌である。収録された500首を読むと心にずっしり重いものが残る。