第203回 蒼井杏『瀬戸際レモン』

縦向きの見本見ながら横向きに落ちてくるのを待つ缶コーヒー
蒼井杏『瀬戸際レモン』』
 一読して「アッ!」と思った歌だ。なるほど言われてみれば確かに自販機の缶入り飲料の見本は縦向きにディスプレイされている。しかし金を投入しボタンを押して出て来る現物は横向きである。当たり前と言えばそうなのだが、「なるほど言われてみれば」感が強い。短歌はこのように日常の些細なことを取り上げて「アッ」と思わせるのに適した詩型だ。そして一首の明意 (explicite meaning)、語用論で言うところの「言われたこと」(what is said)の解釈が一応終了すると、一首は「短歌的喩」の作動によって暗意 (implicite meaning)のレベルへと跳躍する。掲出歌で言えばそれは、「外見と内実の相違」「理想の夢と現実とのくいちがい」ということになるのだろうが、たぶんこれは深読みのしすぎで作者の意図はそこにはあるまい。「作者の意図」をどうして私が推察できるのかは語用論の永遠の課題なのだが。
 蒼井杏『瀬戸際レモン』は昨年2016年6月に書肆侃侃房から新鋭短歌シリーズの一冊として刊行された。編とあとがきは加藤治郎。作者の蒼井杏については、2015年に「未来」に入会し加藤の選を受けるというプロフィールの記述以外不明。「空壜ながし」で2014年に中城ふみ子賞を受賞、同年「多肉少女と雨」で短歌研究新人賞次席に選ばれている。この年の新人賞は石井僚一の「父親のような雨に打たれて」である。
 「多肉少女と雨」は選考委員の米川千嘉子に高く評価された。曰く、「はかないもののニュアンスが面白く描き分けられている」、「雨と多肉植物のイメージをうまく使って自分の孤独や淡い悲しみをうまく出している。」
 たとえば次のような歌である。
百足の上履き駆けてゆく廊下 / おいてきぼりの / 目覚めれば、雨
ピーターの絵本のように函入りの記憶がありますひもとけば、雨
花びらをうまく散らせぬ木があってもう少しだけ見ています、雨
この世からいちばん小さくなる形選んで眠る猫とわたくし
生きているわけです死んでいないので目覚めたときの天井のしみ
 一方、穂村弘は「自己完結性が魅力ではあるけれども、ややマイナス方向に勝手に行ってしまうところがある」と指摘する。栗木も「結句を淡くまとめすぎているところがある」と述べ、結句に終止形と体言止めが多くヴァリエーションに乏しいと苦言を呈している。
 歌を読むときにはよい点を見つけるというのが私の方針なので、今回もそれに従うことにすると、いいなと思ったのは「口語のしらべの柔らかさ」と「リズムとオノマトペ」である。口語を使って短歌的しらべを作るのはかんたんそうで実はむずかしい。それが比較的うまくできているように思う。上の歌でいうと、一首目の上句「百足の上履き駆けてゆく廊下」で体言で切り、さらにスラッシュを使って区切りを強調し、下句は「おいてきぼりの」で切って意味を宙づりにして、結句も「目覚めれば」の五音で区切り、読点を隔てて「雨」で終わる。作者はおそらく音の感覚の鋭い人で、しらべとリズムの組み立て方に工夫がある。
 オノマトペを拾うと次のようなものがある。
マヨネーズのふしゅーという溜息を星の口から聞いてしまった
ひとりでに落ちてくる水 れん びん れん びん たぶんひとりでほろんでゆくの
とらんぽりん ぽりんとこおりをかむように月からふってくるのだこどくは
百までをとなえつつわたし猫になる なーに、なーさん、なーし、なーご
くしゅくしゅと洗濯ネットにブラウス入れて洗うのあわあわうふふ
やきとりの串をんんっとはずしつつこういうふうにしみてゆくんだ
 一首目、マヨネーズのチューブから空気が漏れるときの音を「ふしゅー」と表現しているが、確かにそういう音がする。二首目は雨だれのおとを「れん びん」としていて、これはもちろん「憐憫」の音を借りたもの。三首目では「とらんぽりん」は体操競技のトランポリンで、後半の「ぽりん」だけを取ってオノマトペにしている。四首目、数を数えるとき「ななじゅうに」ではなくぞんざいに「なーに」と発音しているのだが、「ななじゅうご」が「なーご」になって猫になる。五首目には「くしゅくしゅ」「あわあわ」「うふふ」と3つオノマトペがある。六首目、焼き鳥の串を外すとき箸に力を入れるがそれを「んんっ」と表現しているのだ。これらのオノマトペはなかなか効果的に使われて、やはり作者は音感の鋭い人かと思う。
 印象に残った歌をもう少し拾ってみよう。
板チョコをぱきっぱきっと割りながらたましいの重さ考えている
空壜が笛になるまでくちびるをすぼめるこれはさびしいときのド
かなしみは縦に降るから日傘さすななめの影をじっと見つめる
ひとつずつだれかに見せたい夕焼けを閉じ込めている電信柱
シャンプーの入った耳をとんとんと世界中をうらがわにして
タラップをおりてゆくときてのひらをひらいた場所から雨になります
 一首目ではどこからポエジーが発生しているかというと、前半の「板チョコを割る」という日常的風景と、後半の「たましいの重さを考える」という非日常的な形而上的思索が一首の中に取り合わせられているところにある。魂にもし重さがあるとすれば、それは割った板チョコひとかけらくらいかと考えているのだ。不可視のものを形象化できるのが短歌の手柄である。二首目、作者はよほど空壜が好きなのかよく登場する。子供の頃によくやったように、空壜の口に唇を着けて息を吹き込むと、壜が「ボー」と霧笛のように鳴る。「笛になるまで」に表現上の工夫がある。三首目は特に好きな歌で、上句の「かなしみは縦に降るから」が秀逸。雨かと思うと日傘が出て来るところにも意外性もある。四首目、電信柱に夕焼けが閉じ込められているという空想がおもしろい。私の世代だと電柱と言うと別役実を思い浮かべる。五首目、髪を洗っていてシャンプーが耳に入ってしまった。片足で立ってとんとんと跳んで耳から出そうとする。そのとき意識は耳の内部に集中するため、耳の中が前景化され、逆に外の世界が反転して裏側になる。その感覚をうまく歌にしていて秀逸。六首目、どこかの地方飛行場で飛行機から降りているのだが、折しもボツリと雨が降り始める。誰しも確かめるために思わず手の平を上に向ける。そうして雨を感じた場所から雨が降り始めるという捉え方がおもしろい。世界の造りは私の感じ方に依存しているのだ。
 とはいえ気になるところもある。これは蒼井ひとりの問題ではなく、口語短歌全体の問題なのだが、ひとつは助詞の処理である。「百足の上履き駆けてゆく廊下」や「日傘さす」では、「上履きが駆けてゆく」「日傘をさす」の助詞ガやヲが省略されている。口語で助詞を省くとはしょった言い方という感じを拭えない。文語ではたとえば「丘ひとつ崩さるる日々まつぶさに驚くばかり空広くなる」(大島史洋)のように「丘が」や「空が」のガは省く方がふつうで、省いてもはしょった言い方にはならない。これはおそらく漢文の影響で、漢文では「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」のように、助詞の省略はふつうのことである。文語の背後には漢文脈が透けて見える。口語短歌では音数合わせのためにどうしても助詞を削らなくてはならないことがあり、それがはしょった感覚を残してしまうのだ。
 もうひとつは短歌研究新人賞の選考座談会で栗木が指摘したように、結句の単調さである。体言止めでなければ、「竹輪をかじる」「生まれたかったな」「ゆっくり潰す」のように終止形または終止形+感動助詞ばかりで、どうしても単調になってしまう。またこれは既に書いたことだが、終止形は辞書形であり、英語で言うと動詞の原形(活用していない形)に相当する。つまりは文を作る素材の段階に留まっているので、出来事感、つまり何か出来事が確かに起きたという感覚に乏しい。出来事感が希薄な結句は勢い結像力も弱い。このため全体として色彩が薄く、ふわふわした淡い印象を与えてしまうのである。
 しかしぐるりともう一周して考えてみると、このような文体は低体温でフラットな若手歌人たちの作歌姿勢に妙にフィットしていると見ることもできなくはない。もしそうだとしたらあまり言うことはなくなってしまい、かのウィットゲンシュタインが言ったように沈黙するしかないのだが。