第216回 勺禰子『月に射されたままのからだで』

刻々と報道される事実より吾は信じる線路の勾配
勺禰子『月に射されたままのからだで』 

 「刻々と報道される事実」とは、新聞・TV・ラジオ・ニュースサイトなどのメディアが私たちに伝える「遠景」で、その多くは私の住んでいる町から離れた場所、遠い国で起きた出来事である。一方、「線路の勾配」とは、電車に乗っている〈私〉が今感じている体感であり「近景」である。作者は前者ではなく後者を信じると述べている。この歌の近くには「はつきりとわかる河内へ帰るとき生駒トンネル下り坂なり」という歌がある。「線路の勾配」は抽象的に捉えた観念ではなく、近鉄奈良線に乗って奈良から大阪に向かう時に通る生駒トンネルの強い下り勾配のことなのだ。この歌を見ても作者が観念やスローガンではなく、近景を生きる自分の体感に重きを置いていることが見てとれる。事実この歌集は近頃珍しく街の匂いや人の体臭が感じられる歌集なのである。
 プロフィールによれば、勺禰子しゃく ねこは1971年大阪の堺生まれ。後でも触れるが勺にとって出身地は大きな意味を持つ。関西学院大学を出ているので佐藤弓生と同窓になる。2007年短歌人会に入会。『月に射されたままのからだで』は今年 (2017年)5月に六花書林から上梓された第一歌集である。栞文は江戸雪と藤原龍一郎。
 栞文の中で藤原は勺の短歌の特徴として、土地への愛、言葉へのこだわり、時代の危機への申立ての三つを挙げている。そして例歌として「紛う方なき依代としてホテルLOVE生國魂いくたま神社の脇に佇む」などを引いているが、いかにも藤原好みの歌だと妙に感心する。確かに藤原の言うように、この歌集には土地、言葉、時代への拘りが感じられるのだが、もう少し深度を下げた歌の手触りというレベルで顕著なのは、やはり体感と体臭である。たとえば次のような歌だ。

嘆き死んだ遊女の墓のあるあたりから湧き出づる温泉ぬるし
落ちたての花びらを轢く感触のなまなまと車輪伝ひ登り来
小さければ小さくにほふ往き過ぎの植ゑ込みにきつと仔猫のむくろ
君帰り河内にひとり眠る夜の君の匂ひのすれば、泣かぬよ
鶴橋は焼肉のみがにほふにはあらで鮮魚のあかき身にほふ

 一首目、遊女の墓があるのだから遊郭に近い寺だろう。そのあたりから湧く温泉がぬるいというのが体感的ではつかエロティックである。二首目、ついさきほど散った桜の花びらを踏むのはきっと自転車にちがいない。自動車では身体が環境から遮断され、感触を感じることはできまい。もちろん花びらを踏みつけた感触を実際に感じることはない。あくまで作者の「体感」である。三首目は植え込みで死んだ仔猫の臭いがするという街の匂いの歌。四首目は恋の歌で妙に古風でまるで源氏だ。五首目に登場する鶴橋は焼き肉で名高い街だが、それだけではなく市場には鮮魚もあるよと言っている。
 街の風景とその移り変わりもまた作者にとっては「近景」であり、体感の届く範囲内にあるものである。土地を感じさせる歌が多く、それらもまた本歌集の基底をなしている。

猥雑にくりかへしては生れ消ゆる町に街道あまた交差す
雨の降る上本町に毀たれてゆかむと近鉄劇場は立つ
近鉄大阪線高架から見おろせば瓦なみうつ愛染小路
平城の宮よみがへりその脇にボウリング場の廃墟かなしも
カーネル・サンダース引き上げられてのちもなほ道頓堀に沈む累々

 NHKの人気番組「ブラタモリ」でタモリが何度も言っているように、建物は次々と建て替えられても道路は昔のまま残っていることが多い。一首目では猥雑な建物の消長と永続する道路の対比がある。二首目、上本町うえほんまちは大阪有数のターミナルで繁華街である。そこにあった近鉄劇場も2004年に閉館した。三首目、愛染小路はよく知らないがたぶん昭和レトロ感溢れる飲み屋街だろう。四首目、作者は現在奈良に住んでいる。奈良では平城京の建物の復元が進行中で、昔のものが今に甦る反面、現代のボーリング場は廃墟となっているのが皮肉である。五首目、1985年に阪神タイガースが優勝したとき、熱狂したファンがカーネル・サンダース像を道頓堀川に投げ込んだ。タイガースがその後長く優勝から遠ざかったのはサンダース像の呪いだというのが都市伝説である。その後、サッカーの試合の後などに川に飛び込む若者が続出した。大阪らしい風景である。
 作者は堺生まれの関西人である。関西といえばオモロイ歌だ。

ベルリンもベンツもBで始まれどモンゴロイドのVの幻聴
この師走にクリスマス色に彩られほんまにうれしいんか?通天閣
台風のちかづくといふまひる間の日傘しなるわしなるでしかし
ズボン裾の長い男とよもや連れ添ふなと幼き吾にのたまひき
地下鉄を降りて地上へ向かふとき傘をななめに振る人はあほ

 一首目、BerlinもBenzもBで始まるのだが、日本人は l と r の区別と並んで b と v の聞き分けが苦手である。誤答率が最も高いのは b と v の聞き分けだという研究もある。二首目、ディープ大阪の新世界に立つ通天閣は大阪のシンボルでだ。しかし足元に串カツ屋が立ち並ぶ通天閣がこじゃれたクリスマス色にライトアップされるのは似合わない。三首目、大阪弁のおもしろい語法に文末で用いる「しかし」がある。「怒るで、しかし」のように使うのだが、どう見ても butのような逆接ではなく強調である。どこから来た用法なのだろう。四首目はアイビールックの信奉者であった作者の父親が作者に向かって言ったという言葉。五首目、傘を斜めに振ると危ないのはもちろん後ろの人に当たるからである。結句のあほが効いている。方言が体感と密接に関係することは言うまでもない。関西人は関西弁を方言というと怒るだろうが。
 作者は出版社に勤務して編集者をしていたので言葉にはとりわけ鋭敏である。

とりわさは何故にとりわさびといわぬ行方不明の「び」を思ひ食む
今津とはもはや「今」ではあり得ぬが津々浦々に今宮、今里
「税」一字足りないことが気にかかる「消費増税」踊る紙面に
キーボードに引き裂かれゐし子音母音なつかしみつつ君の名を呼ぶ

 一首目、確かにそうで、蕎麦屋で出て来る「板わさ」も「び」がどこかに消えている。なぜ「び」を省くのだろう。二首目の今津、三首目の消費増税も同じく言葉への疑問である。四首目は今風に言えばとりわけ「刺さる」歌である。私はパソコンで文章を書くとき、「ローマ字漢字変換」ではなく「かな漢字変換」をしている。キーボードで直接かなを打っているのだ。「病気」は「びょうき」であり決して「byouki」ではない。だから電子辞書で検索語をローマ字で打つとき強烈な違和感を感じる。国語の破壊ではないかとすら思う。日本人は子音と母音を分離して聞いているわけではない。日本語の基礎は「子音+母音」からなる音節である。
 最後にもう少し趣のちがう歌を挙げておこう。

うつそみのものとしてある夕焼けの川面が櫂を揺らしてをりぬ
三日月は中有ちゅううの中をさまよひて行方不明のやうなベランダ
くちびるできみをふふめばたちまちにふふみかへされる昼のしづけさ
人の波引いてしばらく思慮深くエスカレーター止まりゆくさま
大雪のなかで見し胞衣えな 片割れの鎖をつなぎわれら生きゆく

 夕焼けは現実の事象であるが、夕焼けの川面で岸に繋がれたボートの櫂が揺れているのをぼんやり見ていると、ふと現実ではない他界の風景のように見えてくる。そんな経験が誰にでもあるだろう。中有とは人が死んで次の生に転生するまでの期間で49日をいう。「行方不明のやうなベランダ」がおもしろい。三首目は平仮名を生かした相聞歌。四首目は発見の歌である。節電のために人が近づくと運転を始め、人がいなくなると自動的に停止するエスカレーターを詠んでいる。人の波が引いて少し時間が経過してから停止する様を見いだしたのが発見である。五首目、胞衣とは胎盤のこと。牛の出産だろうか。「片割れの鎖」はDNAのこと。DNAは二重螺旋構造をしていて、螺旋がほどけてそれが型となり遺伝情報を伝えてゆく。「片割れの鎖をつなぎ」は親から子へと遺伝子の連鎖が続く様を表している。
 ほんとうは「食ひ下がる接続詞さへ踏み潰す官房長官の眼が死んでゐる」「清やかに『珍々鈴』は鳴り渡る ろくでなし子捕へるこの国の丘に」といった社会派の歌も取り上げるべきなのだが、長くなりすぎるのでこのくらいにしよう。大阪という風土に根ざし、体感と体臭を感じさせる読み応えのある第一歌集である。