第225回 杉谷麻衣『青を泳ぐ。』

花の名を封じ込めたるアドレスの@のみずたまり越ゆ
杉谷麻衣『青を泳ぐ。』

 誰しもメールアドレスを選ぶときには、@より前の文字列に工夫を凝らす。この歌の作者のメールアドレスには、jasminとかhortansiaなどの花の名前が使われているのだろう。琥珀の内部に昆虫が封じ込められていることがあるように、花の名前がアドレスの中にある。その名とプロバイダを示す文字列を@が隔てている。@は円の中にaが封じ込められていて、水溜まりの水紋のようにも見える。それを「みずたまり越ゆ」と表現している。文字に機知を懲らした美しい歌である。ちなみに@を「アットマーク」と呼ぶのは日本だけの習慣で、英語ではat signと呼び、フランス語ではarrobaseという。
 杉谷麻衣は1980年生まれ。『青を泳ぐ。』は2016年9月に書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの一巻として上梓された第一歌集である。監修は光森裕樹が担当している。プロフィールには「京都市出身、大阪市在住」とだけ簡潔に記されている。結社には所属せず、インターネットや同人誌で作品を発表しているものと思われる。
 歌集を一読した印象はずばり「色彩」である。まず歌集タイトルに「青」があり、章のタイトルに「色彩の散弾」があり、また集中に次のような歌がある。

爪に残る木炭ばかり気になって完成しない風の横顔
イーゼルには描きはじめの夏がいる空はまだ無地テレピンの香が 

 作者はかなり専門的に絵を描く人なのだと思われる。高校生のときはたぶん美術部に所属していただろう。
 時系列にはこだわらず編集したとあとがきにあるが、第一章「空の絵を」は明らかに高校時代を回想して詠んだ歌群である。

教室に向かう廊下は今日もまた私が歩くときだけ螺旋
理科室に火を放つ夢 ちりぢりにお逃げ友情ごっこはやめて
制服の下に君との夏かくし地理の時間は潮風を聴く
晩秋のプールの水の色をした廊下に浮いている下足のあと
さよならはシンメトリーな水彩画せいいっぱいの卒業をする

 あとがきには、小学生の頃、たまたますれ違った人の物語を勝手に作る遊びをしていたとあるが、杉谷の作る歌にもまた物語が感じられる。おおむね学校生活に馴染めなさを抱えつつも、青春の光と影とが交錯する若さを感じさせる歌である。一首目、私が歩くときだけ廊下が直線ではなく螺旋になるという鬱屈。二首目、理科室に火を放つという内面の感情の激しさ。三首目は一転して淡い恋心を抱く「君」との青春の思い出。四首目はまた色彩がありなかなか美しい。ちなみに「下足」は旅館や銭湯などの人が集まる場所で履き物を脱ぐことなので、ここではふさわしくないだろう。五首目、「シンメトリーな水彩画」はありふれていて味わいに乏しい。これは連作の最後に置かれた歌で、きちんと卒業までの起承転結がついている。
 次に置かれた「夏の鋭角」は時間的にはもっと後に作られた歌を収めており、「白衣の君」が登場する。

まなうらを流れる星の鋭角よ たしかにすきなひとがいた夏
あたらしい蛍光灯のまばゆさで白衣が君のことばを照らす
深海の珊瑚のことをおもいつつ指は探せり君の背骨を
ワイパーがぬぐい残した雨つよく光るね駅へ近づくほどに
冬のひとでしたあなたは 背景の余白をうみの色に染めても

 この連作にもはっきりと出会いと別れの物語がある。連作冒頭の一首目、「たしかにすきなひとがいた夏」は過去形であり、過去の恋であることが明かされる。君は白衣を着ている。白衣を着る職業は、理科系の大学院生か研究者か、理科の高校教師か、医者のいずれかである。
 監修に当たった光森は巻末の解説で、杉谷の歌における「背景」の重要性に触れている。短歌では限られた音数に中に何を取り上げるかが重要だが、それと並んで重要なのは取り上げたものをどのような背景に置くかだと光森は言う。確かにそのとおりである。
 四首目、白衣の彼の運転する車の助手席に乗って駅まで送られてゆくデートの終わりである。運転している彼は前方の道路を見ている。一方、作中の〈私〉はフロントグラスに光る雨粒を見ている。彼は遠景を、〈私〉は近景を見ており、クローズアップされた雨粒が駅という背景に置かれることで、すでに別れが予感されている。五首目にはもっとはっきりと背景が登場する。彼は冬の人であり、その背景には鈍色の冬の海が配されてなお余白が残る。余白は埋めることがかなわなかった二人の間のすれちがいだろう。
 次の「ロド」と題された章にはもっと物語がある。時間的には高校時代に戻っている。

吹き上がるさくらの白きひらひらに宙返りするきみ重ねおり
ロドリゲス・ロドリーゲスは愛そそぐため付けらりし車椅子の名
インターハイの夢ききおれば薄紙の空を破って蝉の声降る
車椅子ロドをこぐ摩擦の傷よてのひらはきっと憶えている大車輪
〝あのころ〟のフィルムにいないわれのごと千羽のなかのぎんいろ一羽

 作中の君は高校の体操部に所属してインターハイ出場をめざしていたのだが、練習中に大怪我を負って車椅子生活をしている。級友たちは千羽鶴を折って回復を願うのだが、おそらくもう競技には戻れないのだ。「宙返り」「大車輪」とあるので鉄棒の選手だろう。ちなみに車椅子の愛称に選んだロドリゲスとは、フランスのダニー・ロドリゲスの「前振り上がり上向き中水平」という吊り環の技だそうだ。五首目は、級友たちが送った千羽鶴に銀色の鶴が一羽混じっていて、それが彼と出会う前の彼を囲んだ集合写真に〈私〉が写っていないのと同じように感じられるという軽い嫉妬の歌である。この連作もまた「引越しの荷物崩れて行く春にしたたる虹となる千羽鶴」という別れで終わっている。作者は高校を卒業して、大学か専門学校進学のために地元を離れたのである。
 残りの「色彩の散弾」「44 minutes」「海の音色・雨の音いろ」には、描かれている時代も特定できず、それほど物語色の濃くない歌が集められているので、物語を追うにはここらで止めて、目に留まった歌を取り上げてみたい。

背の高きひとから秋になることをふいに言われぬ晩暉の橋に
かなしみの多き橋かないくえにも手のなる音を聴くゆうまぐれ
傘もまた骨のみ残すいきものか憶えていたき日はすべて雨
むらさきの花の名前を挙げてゆくあそびの果てのようにゆうぐれ
約束をほのめかしつつ開かれた少女のコンパクトの照り返し

 「はなと橋」と題された詞書き付きの京都連作から引いた。一首目には「送り火を見た松尾橋」の詞書きがあるので、この歌の橋は嵐山にある松尾橋である。「晩暉」は落日だから送り火が始まる前のことだ。「背の高い人から秋になる」とはずいぶん不思議な表現だ。山は気温の低い山頂付近から紅葉が始まるので、それを人に当てはめたものか。二首目には「一条戻り橋 鬼と魂がすれ違うような」という詞書きがある。一条戻り橋は堀川一条にかかる橋で、死者の魂が甦るという伝承がある。陰陽師の阿部清明がこの橋の下に式神を飼っていたとも言われる。三首目には「知恩院の忘れ傘」という詞書きが付されている。「傘もまた」とは人間と引き比べての物言いである。四首目、杉谷のいちばん好きな色は青で、次は紫らしい。「むらさきの花の名前を挙げてゆくあそびの果てのように」まで来て、ここまでが「ゆうぐれ」を導き出す序詞のような喩である。「ゆうぐれ」の実に出会うと、それまでが反転して一気に虚へと転ずる美しい歌である。五首目、約束をほのめかすだけではっきりと言わないところに、年齢にそぐわない女性の手管が見える。座り直すとちょっと横を向いて、化粧を直すためにポーチからコンパクトを取り出すのだが、その金属製の蓋に夕陽が照り返す。その照り返しは女性の驕慢の色のようでもある。下句の「少女のコンパ・クトの照り返し」が七・八音の結句増音と句割れ・句跨がりになっていて、まるで塚本邦雄ばりの前衛短歌風である。
 歌集のもう少し前の部分からも引いてみよう。

つんと蹴ればラムネの瓶はとじ込めし光をあおくして撒き散らす
言いかけてやめた言葉はストローの先にはじけて散るしゃぼん玉
傘をさす手を奪われて夕立のほのかにぬるい世界を泳ぐ
霧雨の点描せかいを埋めるまで触れておりたしの傷あとに
遠のいていくざわめきが一色の水絵の空のようです 四月

 どの歌にも色と光が溢れている。一首目の季節は夏だろう。ラムネの空き瓶が青い光を撒き散らしている。二首目もシャボン玉遊びをする夏がふさわしい。三首目は「ロド」の中の歌で、傘が差せなくて濡れているのは車椅子を押しているからである。四首目の手の傷も車椅子の車輪を押してついた傷。「ほのかにぬるい」「霧雨の点描」「一色の水絵」などの表現が、一首の中に鮮明に世界を立たせている。
 やわらかな感性が捉えた世界を色をうまく使いながら繊細に表現していて、とても好感の持てる歌集となっている。注目の歌集である。