海鳥の羽先はさはさ拡げつつ果てなく海を抱かむとせり
春日真木子
短歌にはオノマトペが使われていることがある。掲歌では「はさはさ」というオノマトペが大型の鳥のゆったりした羽ばたきを表している。スズメのような小型の鳥や、ツバメのように高速で飛ぶ鳥に「はさはさ」はそぐわない。また「羽先」と「はさはさ」の「はさ」という音が同じで「はさきはさはさ」という反復によるリズムも効果的だ。
ちょっと歌集を開いてみれば、オノマトペを使った歌に出会うことは難しくない。
風は溶け風で梳かして風を解け蜻蛉ひりひり前ばかり見ている 盛田志保子
しんしんとみどりたたふる瞳を持ちて生まれ来るゆゑに人はかなしき
永井陽子
蜜を垂らしているのはきっとゆめですね/じゅうんと窓をやぶる洪水
加藤治郎
石 その寡黙を笑え カラカラと狂気含んだ風落ちる時
佐藤通雅
トンパラリと髪ほどきたり向かい合う鏡に青き一日の空
早川志織
『現代短歌事典』(三省堂)の「オノマトペ」の項に小池光が書いているように、慣用表現化したオノマトペはどのような対象に接続するかが決まっている。小川は「さらさら」流れ、雷は「ゴロゴロ」鳴り、風は「ひゅうひゅう」吹き、炎は「めらめら」と燃え上がる。余りに陳腐なオノマトペは、言語感覚の覚醒と革新をめざす短詩型文学では避けなくてはならないとされる。いきおい歌人は創造的なオノマトペを創作しようとする。
いずこより凍れる雷のラムララム だむだむララム ラムララムラム
岡井隆
オノマトペは短歌に音のリズムを作り出し、感覚性を高める働きがあるとされる。それは短歌を作る側の歌人から見たオノマトペの効果である。では短歌を読む側から見るとオノマトペはどのように受容されているのだろうか。
私たちは言葉を発したり理解したりするときには脳を使っている。脳は言語の座である。人間の大脳は左半球と右半球に別れており、両者を脳梁という橋のようなものが結んでいて情報を交換している。大脳には一側性という特徴があり、右半球は体の左半分を統御し、左半球は右半分を統御している。このため脳の右半球に脳出血を起こすと、体の左側に麻痺などの障碍が出る。
私たちが言葉を話したり理解したりするときに働いているのは大脳の言語中枢である。ブローカ野は言語の産出にかかわる運動性中枢で、ウェルニッケ野は言語の理解にかかわる感覚性中枢である。言語中枢もまた局在している。言語中枢は右利きの成人の95%で左半球にある。左利きの人の7割は言語中枢が左半球にあり、1割5分は右半球にあり、残りは優位差がないという。左利きの人は人口全体の7%程度なので、大部分の人は左半球優位ということになる。
右脳と左脳の機能差については俗説が多い。人に話すときは右耳に話しかけるほうがよく言葉が届くというのもそのひとつだ。先頃終了した野島伸司脚本、石原さとみ主演のTVドラマ『高嶺の花』でもこれが使われていた。右耳から入った音は脳梁を通って左脳に届く。一方、左耳から入った音は脳梁を通っていったん右脳に行き、もう一度脳梁を通って左脳で言語処理される。だから右耳から入った言葉のほうが伝わり方が早いというのである。この説を支持する研究もあるようだが、脳内のニューロンを伝わるのは電気信号である。脳の横幅20cm程度で伝達速度に大きな差が出るとは思えない。
一般に、左脳は言語中枢があるために、言語、論理的思考、演算などで働く優位半球であり、右脳は空間認識、図形認識、音楽などの優位半球であると言われている。優位半球を使うタスクを2つ同時に被験者にしてもらうとこれを確かめることができる。たとえば、ヘッドフォンから絶えず言葉を流しながら計算をしてもらうと、たいていの人は能率が落ちる。言語処理と計算はどちらも左脳を使うからである。一方、ヘッドフォンから歌詞のないクラシック音楽を流しながら計算をしても能率は落ちない。計算は左脳だが、音楽は右脳で処理されているため脳の負荷が増えることがないからである。最近は機能的核磁気共鳴装置(fMRI)という大がかりな装置で、非侵襲的に脳内の血流の増加を観察できるようになっている。
さてオノマトペである。慶応義塾大学の認知科学者の今井むつみが著書『ことばと思考』(岩波新書 2010年)で自身が行なった興味深い実験を紹介している。人が様々な動き方で動いている様子を撮影したビデオを被験者に見てもらう。同時に画面に「ずんずん」「はやく」「歩く」などの言葉がテロップとして提示される。被験者には動きのビデオとテロップの両方を見てもらう。そのとき脳のどの部分が活発に働くかをfMRIで測定した。
「はやく」という副詞や「あるく」という動詞を提示したときは、左半球の言語中枢のある部分が活性化したという。言葉として処理しているのだから当然だろう。ところが「ずんずん」という擬態語を提示したときに限り、左半球の言語野に加えて、右半球の運動を知覚したり、これから行なう運動をプランニングする場合に使われるMT野という部位も活性化したという。
これは何を意味するか。「ずんずん」は動きの様子を表す擬態語であり言語の一種である。しかし「勉強机」のような名詞や「ぶらさがる」のような動詞が持つ語彙的意味を持たず、私たちが何かの動きから受ける印象をそれ自体は無意味な音連続を用いて表現したものである。「大型冷蔵庫」のような概念的表象ではなく、動きを模したミメーシス的な「演技」に近い。そのために通常の語彙的・概念的意味を処理する左半球の言語野ではなく、運動を知覚するときに活動する右半球が活動したのである。乱暴にまとめてみれば、ふつうの言語は左脳で処理されるが、擬態語は右脳で処理されるということだ。
残念ながら今井はオノマトペ(擬音語)についての実験は行なっていない。しかしながら非言語音の音楽はふつう右半球で処理されることを考え合わせると、オノマトペも擬態語と同様に右脳を活性化させると推測することは許されるだろう。
さゐさゐと辛夷ゆすりて過ぐる風傷うけしあの春も薄れぬ
横山未来子
私たちはふだんの生活で右脳を使っているか左脳を使っているかを意識することはない。しかし上に引いた横山の歌を読むとき、初句の「さゐさゐ」を除く部分は左脳の言語中枢で意味を処理しているのにたいして、オノマトペの「さゐさゐ」を読むときだけは、通常の意味処理を行なう部位ではなく、図形や運動や空間を知覚する部位を活性化させて受容しているのである。つまり私たちが「さゐさゐ」と読むとき、脳内に作り出されているのは語彙的・概念的意味表象ではなく、風が辛夷の枝や花を揺する動きそのものなのだ。
このように考えるならば、擬音語・擬態語など非概念的な言語記号は、うまく織り交ぜて使うとき、短歌の世界を重層的にすると同時に、より感覚的・運動的な歌の受容を可能にすることがわかるだろう。