午後ずっと猫がふざけて引きずった魚のまなこが見上げる世界
ユキノ進『冒険者たち』
魚を食べずに戯れて引きずるとは、よっぽど猫も腹が減っていなかったのだろう。でなければすぐに食べてしまったはずだ。魚も猫の腹に収まってその血肉となれば成仏もできようが、おもちゃにされたのでは浮かばれない。しかしそんな魚にもその目に映っている世界がある。それは私たちが見ている世界とも、猫が見ている世界ともちがう世界だ。自分の視点を離れて異なる対象の視点に立って世界を眺めてみる。作者はそういうことができる人なのだろう。
ユキノ進は1967年生まれで、結社に所属していない歌人である。『冒険者たち』は書肆侃侃房の新鋭歌人シリーズの一巻として上梓された第一歌集である。解説と編集は東直子。ユキノは福岡県の出身だから侃侃房は地元の出版社だ。
東が選考委員を務めている歌壇賞と角川短歌賞の選考を終えて作者名が明かされると、候補作のリストにはいつもユキノの名があったと解説で東が書いている。2014年の第25回歌壇賞では惜しくも次点に選ばれている。ちなみに2017年の短歌研究新人賞では、「弔砲と敬礼」で候補作に(新人賞は小佐野弾)、2017年の角川短歌賞では「朝が来るまで」で予選通過(短歌賞は睦月都)、2018年の歌壇賞では「冒険者たち」で候補作に選ばれて東から二重丸をもらっている(歌壇賞は川野芽生)。本人ならずとも実に惜しいのである。
さてユキノの作風はというと、基本は口語定型短歌だが、掲歌を見てもわかるように日常の話し言葉を生かした口語というよりは、文語定型の代替として選択した口語であるようだ。だから口語定型というよりも現代語定型と言ったほうがふさわしいかもしれない。
葉の裏の暗いところにみっしりと蝶を眠らせ樹は覚めている
水鳥が嘴をみずに挿す刹那しずかに終わる一生がある
ぶちまけたビー玉が床を這うようにスクランブル交差点をおれは
誰かの手を離れる風船 世界から失われゆくひとつのかたち
複葉機の仕組みを話している人の白い手のひらにかかる揚力
第25回歌壇賞で次点に選ばれた「飛べない男」が本歌集では「複葉機の仕組み」と改題されて歌集冒頭に置かれている。ユキノとしても自信作なのだろう。その一連から引いた。
一首目、蝶が葉裏にびっしり留まっているというから、亜熱帯か熱帯地方の風景だろう。蝶の睡りと樹木の覚醒、葉裏の暗さと樹木が浴びる光のコントラストを思い浮かべるとよい。アンリ・ルソーの絵を思わせる風景である。もとより写実ではなく想像の産物だ。二首目、水鳥が嘴を水に入れるのは餌となる小魚や貝を食べるためである。水鳥にしてみればそれは日常的な捕食行為だが、食べられる小魚や貝の立場からすればそれは一生の終わりである。ここにも掲歌と同様の視点移動が見られる。三首目、「ビー玉が床を這う」という表現にはいささか抵抗があるが、下句の「スクランブル交差点を(這うように進む)おれは」との連接を意識したものだろう。ビー玉を床にこぼすとビー玉は四方八方にころがる。その様がスクランブル交差点を行く歩行者の歩みと似ている。「ぶちまけた」という強い表現に作者の心情が滲んでいる。四首目、公園や商店街で、幼い子供がもらったばかりの風船をうっかり離してしまう。すると風船は風にゆらゆらと上昇しもう手の届かない所に行ってしまう。よく見る光景である。ユキノはそれを「世界からひとつのかたちが失われる」と感じるのである。五首目、複葉機の飛ぶ仕組みの解説に身振り手振りが混じる。すると手のひらにわずかな揚力が生じるというのだ。揚力は飛行機を浮上させる主な力である。
上に引いた歌を見てもわかるように、ユキノは静かな口調で歌を詠む人で、その主な関心は「いのち」をめぐる「世界のかたち」にあるようだ。掲歌の魚への視点移動に見られるように、あくまで〈私〉を中心として世界を把握する「自我の歌」としてではなく、自在に移動する風となって「世界のかたち」を確かめているようにも感じられる。ユキノは集中でフランスの作家ル・クレジオの『地上の見知らぬ少年』一節を引用している。そこにある「大空にまで、彼方にまで、海にまで至るような言葉で」はおそらくユキノの信条だろう。
八階のコピー機の裏で客死するコガネムシその旅の終わりに
暁に鳴いただろうかつやつやとハーブチキンは輪廻の途中
光る刃をあてて林檎をこの星の自転の向きにゆっくり回す
静まりゆく森を歩めば思いがけず立ち上がる昏いいのちの匂い
闇に在る光を集め灯台が少しずつ濃くするのだ夜を
オフィスのコピー機の裏で果てるコガネムシ、ハーブチキンと化して輪廻転生する鶏、林檎の回転と地球の自転の呼応、森の下草から立ち上がる生命の匂い、光によって夜の闇を濃くする灯台、このようなものが作者によってていねいに掬い取られる。そのような表象が決して〈私〉の信条の投影としてではなく描かれている。ユキノの眼差しは〈私〉の側にではなく「世界」の側に傾いていると言えよう。
しかし本歌集に収録された歌にはこれとは別の側面がある。それは会社員として働く人間としての側面である。
男より働きます、と新人の池田が髪をうしろに結ぶ
ランチへゆくエレベーターで宙を見る七分の三は非正規雇用
おとこらはしばし世界へ背を向けて駅のホームで立って食うソバ
あしたからしばし無職となる人を囲んで同じ課の五、六人
ストラップの色で身分が分けられて中本さんは派遣のみどり
一首目は、男性よりも働かなくては認めてもらえない女性社員の立場を、二首目は正社員が減って非正規雇用が増えた現代の日本を詠んでいる。三首目は駅の立ち食い蕎麦の風景、四首目は契約終了となって職場を離れる契約社員、五首目は職場に厳然として存在する身分差別である。次のような歌もある。
搾取する一パーセントを敵として連帯していいのかおれも
五十円時給を上げる申請を手紙のように丁寧に書く
効率的な働き方を、ときれいごとを並べるおれに集まる視線
作者は勤務する会社で中間管理職に就いているのだ。だから非正規雇用の社員の置かれた境遇に同情しつつも、管理職として会社の方針を伝えなくてはならない。おまけに誰かが働き方改革などと言い出したものだから、残業を減らさなくてはならない。中間管理職としては板挟みに苦吟するのである。笑った歌と衝撃を受けた歌を一首ずつ引く。
禿げ、白髪、白髪、禿げ、禿げ 光りつつ役員会議に集うたましい
一階のロビーの隅のごみ箱に花束が深く突き刺してある
一首目は重役会議の風景で、重役になる頃にはみんな禿げか白髪になっているのだ。二首目は派遣契約が打ち切られてやめる人が送別の拍手とともにもらった花束である。「深く」突き刺してあるところに怒りの強さが滲み出ている。しばらく前から短歌の世界では「生きづらさ」を主題とする歌が増えているように感じるのだが、これら一連の歌もまたそのような系譜に連なるものと捉えることができるだろう。世界から目を転じて〈私〉へと向かうときにこのような歌になるのは辛いことである。もっとも集中には新潟に単身赴任している時に、離れて暮らす我が子に寄せる愛情深い歌もある。
最後に心に残った歌をいくつか挙げておこう。
地底湖のみず溢れ出すキッチンでまよなか梨にナイフあてれば
夜おそく井戸の水面を揺れながら静かにわたる小さな星座
春の陽を細かく空へ返しつつひとたびきりの川の流れに
しまわれた古いカメラの内にある現像を待ちつづける風景
地下室で宝箱開ける時のごと夜のコピー機に照らされる顔
夜おそく終着駅から車庫へゆく空の車両に満ちる明るさ