第248回 白石瑞紀『みづのゆくへと緩慢な火』

氷砂糖日ごとに溶けてゆきたるを梅のかをりのそのさきに夏

白石瑞紀『みづのゆくへと緩慢な火』

 氷砂糖が溶けているのは梅酒を作っているガラス瓶の中である。甲種焼酎と青梅で梅酒を作る人は多い。映画『海町ダイアリー』でも4人姉妹が庭の梅の木から青梅を取って梅酒を作る場面が印象的に描かれていた。梅を取るのは6月の梅雨の季節である。梅を漬け込んだ瓶の中で、ゆっくりと氷砂糖が溶けてゆく。すると梅のエキスがアルコールによって抽出されて香りを放つようになる。梅酒が出来上がった頃にはすっかり暑い夏になっている。時間の経過が氷砂糖の溶解によって示されて、その先に新たな季節が待っているという心地よい歌である。

 白石瑞紀は1968年生まれで、塔短歌会所属。藤田千鶴、永田愛とともに短歌ユニット「ととと」を作っている。『みづのゆくへと緩慢な火』は昨年(2018年)も押し詰まった12月23日に刊行された第一歌集である。なんでも平成最後の誕生日に歌集のダブル出版をしたいと思いつき、青磁社の永田淳さんに頼み込んだらしい。永田愛の『アイのオト』と同日刊行である。『みづのゆくへと緩慢な火』という歌集題名が美しい。最近ゆるい題名の歌集が多い中で出色のタイトルだ。白を基調とした濱崎実幸の装幀も素晴らしい。「水」と「火」が歌人に好まれる語だが、題名に両方入っているのは珍しいのではなかろうか。

 さて中身の短歌だが、所属結社の歌風に準じて写実と日々の想いを基盤とする、口語に文語の混じった定型短歌である。構成も編年体となっている。主題は日々の想いに加えて、自身と家族の病気に仕事の歌が加わる。

本当に疲れたるとき買い置きのリポビタンD思わざるなり

初雪を手に受けながら種としての滅びの側にわれがたたずむ

暗がりにみづは見えねどほうたるのひかりが揺らぎ水面とわかる

暮らしてはゆけない土地のうつくしく望遠鏡に見たる月面

さざんくわの咲きゐる枝の両腕を空にさしあげ雪だるまをり

 日々の想いの歌から引いた。一首目、本当に疲れたときには買い置きしてあるビタミンドリンクを飲もうという気力すらないという歌。多くの現在の歌人と同様に白石の歌も文語口語混じりなのだが、「疲れたる」や「思わざるなり」という文語色の強い表現と「本当に」のような口語の混在にはやや違和感を感じる。二首目、本歌集には自身の病や父親の死をきっかけに死を想う歌が多く収録されており、この歌もそのひとつだ。しかし個人の枠を越えて種としてのヒトの滅びにまで想いを馳せている。三首目は夏の蛍狩の光景。蛍のほのかな光で水面がわかるという歌である。近くに「ルシフェラーゼ、と言へば笑へる君のゐてひとつの歌をともに抱きぬ」という歌があるので恋人と見た蛍だろうか。ルシフェラーゼとは蛍の発光に働く酵素のこと。四首目は月面の歌。確かに月は美しいが、人はそこに暮らすことはできない。いや、暮らすことができないからこそ美しいのか。五首目、山茶花が咲いている枝を差し上げてというから何のことかと思えば、結句で「雪だるまをり」と着地しているのが秀逸。

今回は縦に切らせてもらうねと内診しつつ担当医が言う

全摘の手術をすると電話すればなぜだか母はごめんねと言う

臓器ひとつどうってことないわれはなだひかる時間の真ん中にいる

灯る火のあらざる洞にわが卵はいまもひかりを運びいるらむ

ニンゲンとならずにらんは東京に降る雪のごと消えゆくならむ

 自身の病の歌である。おそらくは子宮癌の疑いがあり、子宮の全摘手術を受けたのだろう。「今回は縦に切らせてもらうね」という具体性が生々しい。手術を告げた母親が謝ったのは、もっと健康な体に産んであげられなかったことを悔やんでいるからだ。子宮と卵巣は女性のみが持つ臓器であり、出産にかかわることから女性の想いも強いのだろう。四首目と五首目は嬰児となって誕生することのなかった卵を想う歌である。卵を想う歌はさすがに女性にしか作ることはできない。

父の食む一口のためタッパーに梨をぎっちり母は詰めたり

左手の小指から死はひろがれり紫色のこゆびさすりつ

ぬばたまの黒き衣のうから来て代わる代わるに父の顔見き

父の背がラッシュに紛れ地下鉄のどこかにあらむ黄泉平坂

 作者の父親はまだ在職中の年齢で泉下の人となったようだ。病状が重くてもう一口しか食べることができないのに、タッパーに梨をぎっしり詰める母親の気持ちは痛いほどわかる。花鳥風月が古典和歌の主題であったが、近代短歌の主題は何と言っても生老病死であり、これに恋と労働を付け加えればほぼ網羅すると言ってもよい。人は生きていれば病に罹り、やがては誰もが死ぬ。古典和歌は共有された美の世界という共通コードに立脚していたのに対して、近代短歌の基盤となったのはこの逃れることのできない人間の宿命だろう。

 作者はどうやら大学図書館に勤務しているらしい。仕事の歌も多く作られている。

天金の昏きをぬぐいやりたれば人差し指の腹がくすみぬ

襟にゆぴ入るるがごとく花布はなきれのうたりに指をひっかけて取る

三分で自動消灯する書庫にスローファイヤーがてんてんと燃ゆ

〈緩慢なる炎〉をわれも持ちおらむ紙片のごとく毀るるなにか

 「天金」とは本の小口の上(これを天と呼ぶ)のみを金色に塗装したものを言う。「かもめ来よ天金の書をひらくたび」という三橋敏雄の句がある。図書館の仕事で苦労するのは本の重さと降り積もるホコリだ。ホコリは天に積もるので汚れているのである。二首目の花布はなきれとは、本の背の上下に貼り付けた布のこと。縞柄のものが多いが、現在の製本では省かれていることが多い。三首目のスローファイヤーとは、本の用紙の酸性劣化を言うと初めて知った。古い本は酸性紙のため経年劣化でボロボロになる。それを「緩慢な火」と表現したわけだ。そこから連想して四首目では自分の中にも時間をかけて自分を蝕むものがあるのではないかと想像している。

 塔短歌会は本部が京都なので、結社と地元に関係する歌もある。

なに色のコスモス咲いているだろう岩倉長谷町三〇〇-一

どの部屋の力士なるかを知らざれど高安という四股名のよろし

その響きロシアあたりにありさうな名だと思へりエドユキスキー

くちひげのあるうをのゐて真中さん、真中さあんと呼びをれば来ぬ

通販に買ひ来しことを言ひたれば三月書房の店主微笑む

誠光社の書棚の本の背表紙がページめくれと言ふので困る

 一首目は河野裕子の死を悼む歌。住所は河野の家のある場所である。二首目の高安は塔の創設者のドイツ文学者高安国世。三首目のエドユキスキーは塔の江戸雪で、四首目の真中さんは真中朋久。五首目の三月書房は歌集を多く置いている京都の書店で、歌人の間では有名だ。六首目の誠光社は、京都の伝説的書店けいぶん社の前の店主が開いた書店。

 コトバ派の歌人にありがちな奇を衒った表現や難解な表現はなく、平明な言葉を用いて日々の感情の揺らぎをていねいに掬い取った歌が多く、好感の持てる一巻となっている。最後に心に触れた歌を挙げておこう。

百合の花肩に担ぎて大股でゼブラゾーンを渡る青年

晩秋の午前のひかり溜めているスワンボートの整列が見ゆ

うすらいのようなとんぼの翅ひかるしくあらむとしてあらざるに

地下鉄に運ばるるわがうちがはに字母ならべむとするわれのをり

自転車の鍵をさぐればポケットのなかで最初に触るるクリップ

蝉しぐれその瞬間ゆ止みけむやその夏の日のことをぞ思ふ