第25回 中島裕介『Starving Stargazer』

真白の光を作るため青きセロファンを挿す この視界にも
         中島裕介『Starving Stargazer』
 「時計仕掛けの抒情 Clockwork lyrics ─ 中島裕介の世界」

 2008年11月に刊行された中島裕介の第一歌集『Starving Stargazer』はいろいろな意味で異色の歌集と言っていいだろう。まず外箱には人気漫画家・浅田弘幸の描く少女のイラストが配されている。箱から取り出した歌集本体は横長変形版で、歌はすべて横書きである。また歌の多くは日本語と外国語(ほぼ英語と少しのフランス語とイタリア語)の対で構成されていて、外国語の歌が本文で日本語がルビだという。並んでいるのは日々の折々の歌ではなく、意識的に構成された構築的な詩だと考えたほうがいいようだ。
 中島は1995年に作歌を始め、京大短歌会を経て現在は「未来」所属。加藤治郎の選歌欄「彗星集」の有力メンバーである。栞文は栗木京子、加藤治郎と、2008年に角川短歌賞を受賞した同じく京大短歌会OBの光森裕樹が寄稿している。栗木は「手ごわい歌集だ」と言い、加藤治郎は「私は混乱し、当惑し、そして興奮している」と告白し、光森は「中島らしい仕掛けに、にやりとしてしまう」と述べているが、いずれも破格の形式を持つ中島の短歌を前にして、どこを取り上げて評してよいのか言葉を模索している印象が漂う。この歌集については万来舎のホームページで江田浩司が二回にわたって文学的知識を駆使した見事な評論を展開しているので、私などがあまり付け加えることはないのだが、なかなか楽しい中島の短歌世界を少し探索してみたい。
 歌集冒頭から引く。
 ベツレヘムに導かれても東方で妻らは餓える天動説者
Staring at the star of Bethlehem, she’s a starving stargazer!

 共生のための矯正の、嬌声のクレゾールに包まれている
The more I dose the dog with a drug, the less my drive to dive is … Really?
 一首目は歌集題名となった歌で、starving stargazerは直訳すれば「星を見つめる餓えた人」だが、意味よりもstar-の頭韻が印象に残る。さて、英語の歌に日本語のルビを添えたこの形式を、中島は「多声のコンポジション」Composition of plural voicesと名付けているのだが、問題はその言を額面通りに受け取ってよいかである。一首目の英語は訳せば「ベツレヘムの星に出演して、彼女は星を見つめる餓えた人だ」(注1)となり、日本語の歌と直訳の関係にはない。というかほとんど別ものである。意味ではなく4回登場する star-の頭韻が全体を導いていることは確かだ。二首目も訳せば「私が犬に薬を投与すればするほど、私の飛び込みへのドライブはますます… 本当に?」となり、ほとんど意味をなさない。ここでも全体が d-の頭韻から紡ぎ出されている。つまり英語の歌はほとんどが語呂合わせと言葉遊びなのだ。日本語の歌でも二首目の「共生」「矯正」「嬌声」の語呂合わせがあるが、全体として英語ほどではない。
 読者の側から言えば、英語を本歌とし日本語をそのルビとして読むことはほとんど不可能で、実際そのように読んだ人はいないだろう。栗木は「辞書を片手に読んでゆくうちに頭がクラクラしてきた」と正直に漏らしているが無理もない。私も日本語の歌を主として読み、英語は後から目を走らせる程度に留めた。だから「英語が本歌、日本語はルビ」というのが本気だとしたら、作者の意図は失敗していることになる。しかし中島ほどの周到な人がそんなことをするはずがない。「英語が本歌、日本語はルビ」というのは作者一流の韜晦と見なすのがよい。ここで考えなくてはならない問題は、なぜ語呂合わせを主調とする英語の歌を添えたのか、歌集全体の構成の中で中島が「多声のコンポジション」と呼ぶ構成がどのような機能を果たしているのかである。
 もう少し見てみよう。
 覗き込む僕を模様にする君は悪夢のような万華鏡以て
Please keep me keen to kiss a knight of knowledge in a Kafkaesque Kaleidoscope.
 手のひらに汲みし清水の内に吾の金魚を育ていつしかいつか
In the soup,
I soaked myself through potage soup in the manner of a sour sovereign.
 共犯の想いに凪いだ海水をただ奪われる二十代である
Nevertheless I was exiled from third dimension by the third degree.
 ここに引いたような歌は、旧来の短歌の読みのコードで読むことも可能だろう。たとえば一首目の「覗き込む僕を模様にする君」は想いの届かない恋人で、彼女は「悪夢のような万華鏡」で私を翻弄する。二首目の手のひらに汲んだ清水で金魚を育てる〈私〉は、広大な世界に疎外された孤独な青年像を美しく描いている。三首目もまた青年期特有の喪失感をテーマにした歌と読める。いずれもよい歌だ。もし英語の歌が間に挿入されておらず、日本語の歌だけが並んでいたら、どこぞのキラキラした青春歌集と見まがうばかりである。
 しかし騙されてはいけない。中島はあとがきで、「〈私性に拠らない短歌〉〈他者と共にある短歌〉を私は求め続ける」と自分の立場をはっきり宣言している。だから上に引いたような歌から浮上する少し孤独な現代の青年像は、決して作者の〈私〉へと収斂することはない。旧来の読みのコードを阻止するために、作者は周到にさまざまな仕掛けを施している。間に挟まれた語呂合わせの英語の歌の機能はここにこそあると見るべきなのだ。語呂合わせの英語の歌は、意味性を拒む頭韻と記号の連なりとして、今では恥ずかしいポストモダン的用語を用いれば「純粋な表層」として、日本語の歌から滲み出る意味を乱反射し、意味が私性へと収斂することを阻止しているのである。
 では私性へと収斂しない歌の抒情はどこへ行くのか。〈私〉への係留から解き放たれた純粋な詩空間へと放たれて行くのである。それはどこかモーリス・ブランショの「非人称的な文学空間」と似通っている。中島は大学で現象学を研究していたというから、あながち突飛な連想でもあるまい。それはまたマラルメが『骰子一擲』Un coup de dé で夢想した詩の純粋空間にも似ているのである。「自ら骰子として一擲す 目をイカサマなくらいに開けて」という歌がそれを明かしている。stargazerが見つめる星空の空間は、ひょっとしたらその比喩かもしれない。
 最近の現代短歌のひとつの傾向として「しぶとい〈私〉」というのがあるかもしれない。『渡辺のわたし』の斉藤斎藤はその筆頭格だろう。韜晦の煙幕を張ってなかなか尻尾を掴ませず、〈私〉をさまざまな仕掛けの奥に押し込める。それは近代短歌がややもすれば安直な私性に寄りかかって成立してきたという認識に立脚したひとつの戦略的態度なのだろう。斉藤が決して正面から撮影した写真を出さないのはその象徴である。中島もまた近代短歌の私性に対して戦略的態度を取った結果がこの歌集として結実したと見るべきだろう。
 この歌集に収録された歌が一筋縄で行かないのは、あちこちに他の作品やサブカルへの言及が織り込まれていることからも来る。
デュラハンは首を抱える作業してレゾンデートルに今日も涙す
「悪魔さえ聖書を引ける、身勝手に…」A・エスコバルに手紙を出した
船内からの静かの海という闇を眺めて、猛スピードで寡婦は
星型のピアスを失くした僕たちの喧嘩の最中、逆襲の「「じゃあ…」」
かつてトゥーランドットだったけど、誰も目覚めてはならぬ朝が来る
デジカメのような目をした電気羊が見ている夢は優しいだろう
 デュラハンは西欧伝説の首なし騎士。レゾンデートル raison d’être はフランス語で存在理由。この辺は序の口だ。A・エスコバルはコロンビアのサッカー選手で、ワールドカップでオウンゴールをやってしまったため、帰国してからレストランで食事中に射殺された。「猛スピードで寡婦は」は長嶋宥の芥川賞受賞作「猛スピードで母は」のもじり。「逆襲の「「じゃあ…」」」は、TVアニメ機動戦士ガンダムの「逆襲のシャア」のもじり。トゥーランドットは本当は「誰も寝てはならぬ」で、「電気羊」はフィリップ・K・ディックの名作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』から。これ以外にもまだまだ私が気づいていないアイテムがあるだろう。どこかに回文が隠してあるのではないかと目を凝らしたが、さすがにそれはないようだ。歌集題名のStargazerからして、2006年に放映された機動戦士ガンダムSEED C.E.73 STARGAZERにあり、時系列的な齟齬がなければここから取ったのかと思うほどである。
 歌に散りばめられたこれらのアイテムもまた、時空の穴のように他の作品への通路として私性を乱反射し、機械仕掛けの詩空間を構成するのである。バフチンに端を発し、フランスの批評家J.クリステヴァによって世に広まった「間テクスト性」intertextualitéの概念を中島が知らないはずはない。
 ほぼ編年体という歌集の後半には、「多声のコンポジション」でなく日本語の歌だけが並んでいる。少し引いてみよう。
あの夏を乱反射する銀紙の上からチョコを一口だけ割る
suica持て自動改札を進むとき触れてはならぬ心のあらめ
屋上の錆びた手摺に縋るとき朱きペンキの欠片だけが手に
こめかみに熱は宿れる 跳弾のような指を当てられるたび
気がつけば飛び去っていた飛行船の卓上カレンダーはまだ夏
 青春期の微熱と透明感への憧憬を内蔵したなかなか抒情的な歌群だが、「多声のコンポジション」を通過した読者が既にこれらの歌を旧来のコードで読むことができなくなっているとしたら、作者に座布団一枚なのである。私はどうかというと、私は旧弊な人間なので、効果のほどはいささかビミョーというところだろうか。オジさんにはかんたんに術は効かないのである。
 歌集には正誤表が挟まれていた。これだけ技法を駆使すると避けがたい事だろう。教師根性のなせる業で、いくつかフランス語のまちがいに気がついた。mêmement (p.25)は「同じく」を意味するが古語で今では使わない。Il y a deux médicament (p.39)ではmedicamentの語尾に複数の-sが必要。révolutions per minute (p.45)のperはparのまちがい。
 この歌集に対する評価がどのようなものであれ、現代短歌の多様性をまざまざと感じさせてくれる意欲的な歌集であることはまちがいない。

 (注1)この読みにたいして松村正直さんから、staringはstar「出演する」ではなくstare「見つめる」の分詞形ではないかとのご指摘があった。確かに構文的には starならば続く前置詞はatではなくonの方が適切で、stareと考えるとatと接続がよい。しかし staring, star, starving, stargazerと並ぶと、最初の語は「ステァーリング」ではなく「スターリング」と発音した方が頭韻がきれいに並ぶ。いずれを取るか悩ましいところだ。