第26回 野口あや子『くびすじの欠片』

せんせいのおくさんなんてあこがれない/紺ソックスで包むふくらはぎ
                野口あや子『くびすじの欠片』
 平成17年に「セロファンの鞄」で第48回短歌研究新人賞次席(新人賞は奥田亡羊)、翌18年に「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞を受賞した野口あや子の第一歌集『くびすじの欠片』が先頃出版された。野口は1987年(昭和62年)生まれなので、新人賞次席は18歳、新人賞受賞は19歳の出来事である。歌集あとがきによれば、15歳の頃独学で短歌を作り始めたらしい。「幻桃」に所属し、後に「未来」に入会。加藤治郎率いる「彗星集」でも活動している。
 短歌賞は選評を読むのがおもしろい。選者は選評を語って自分自身の短歌観を露呈するからである。「セロファンの鞄」の選評では、石川不二子はほぼ全否定、岡井隆は「甘ったれてる」と言いつつもまあ好意的、佐佐木幸綱は「うそっぽいところがおもしろい」と言い、穂村弘はかなり評価が高い。「カシスドロップ」の時は、高野公彦が「みずいろの風がまぶたを撫でるからゆっくり握る朝顔の種」を引いて、意外性のある下句に着地させるところがうまいと、高野らしい技術的な評価を述べている。
 『くびすじの欠片』の跋文で加藤治郎が、自分の王宮を言葉で築くタイプの歌人と、他者とどう関わってゆくかを問い続けるタイプの歌人がいて、野口は後者だと書いている。現代ならば前者の代表格は紀野恵か黒瀬珂瀾あたりだろう。しかし言葉の技巧を駆使するこのタイプの歌人は今では減少傾向にあるようだ。まして自我が不定形な若い時には、誰しも自分に関心が集中する。勢い自分を中心に据えた短歌になりがちである。しかし野口の短歌が全編そうかというと、必ずしもそうとも言えない。近代短歌の核心である対象に迫る視線にキラリと光るものがある。
つまるような想いで僕を乗せている助手席の窓ほそくほそくあけ
熱帯びたあかるい箱に閉ざされてどこへも行けないポカリの「みほん」
塵白く陽射しに浮かぶ理科室でわたしの細胞ゆっくりうごく
母親に結われしいびつなシニヨンのおくれ毛をみる合わせ鏡に
梅雨明けの自転車の輪が描いていく二本のほそいやわらかい線
 例えば一首目、テーマは青春ただ中の恋愛で、自分を「僕」と呼ぶ女性が男の運転する車の助手席に乗っているという場面設定はよくあるものだが、この歌のキモは下句の「助手席の窓ほそくほそくあけ」にある。二人の間に漂う緊張を逃がす窓を「ほそくほそく」と表現したところに、景物と心情を繋ぐ確かな糸がある。二首目、自動販売機を「熱帯びたあかるい箱」と表現することで、機械が放散する熱と光がまず前景化される。次に「見本」を「みほん」と平仮名書きでカッコにくくって、ニセモノ感と閉塞感が滲み出すようにしてある。閉じこめられた偽物の見本に自己を投影していることは言うまでもない。三首目のキモは下句で自己を細胞レベルで認識しているところにある。細胞はもちろん理科室と縁語関係にあり、青春を体内感覚で表現しているのだろう。四首目で作者の眼が注がれているのは「いびつな」というシニヨンの形と「おくれ毛」で、このふたつのポイントに着目したとき、もう既に歌は完成していたと言ってよい。それに加えて「合わせ鏡」である。鏡が青春の自意識の表象であることは言うまでもない。相当に技巧の入った歌なのだ。五首目は雨が上がったばかりのまだ柔らかい地面の上に、自転車の前輪と後輪が別々に描く軌跡を詠んだものだが、その軌跡を「二本のほそいやわらかい線」と表現するところに詩情がある。
 これらの歌を見ると、表面的な平明さの裏側に相当な工夫と技巧が隠されていることがわかる。そのポイントは何だろうか。それは歌に詠まれた現実がほんの少し歪んでいるという点である。上に引いた四首目では、いびつなシニヨンとおくれ毛がそれに当たる。逆説的に聞こえるかもしれないが、現実に付与された微少な歪みが、現実をよりリアルに感じさせる機能を果たしている。それは絵に描いたような新築マンションのモデルハウスに生活感がなく、無味無臭の非現実的な感じを受けるのと似ている。テーブルに傷を付け、絨毯に染みを付け、ドアの立て付けを少し悪くし、壁の色をくすませると、とたんに生活感が出てリアルになる。それと同じである。そして歌に詠まれた現実の特有の歪み方に、現実をそのように見た、もしくはそのようにしか見られなかった〈私〉が否応なしに刻印されるのである。そこに作者の手が感じられる。野口はこの現実の歪ませかたがうまい。例えば「片思いなど忘れなよ薄紅のすこし湿ったえびせんを噛む」の「すこし湿った」がうまいのである。
 若さにはしばしば大胆さと不安定さが同居する。この歌集にも爆弾の導火線のようなきな臭い匂いの漂う歌がところどころに見られる。
ふくらはぎオイルで濡らすけだものとけものとの差を確かめるため
ヴァンパイアの眼をした人と過ごす午後鉄観音茶きりきりと飲む
左手首に包帯巻きつつ思い出すここから生まれた折り鶴の数
やや重いピアスして逢う(外される)ずっと遠くで澄んでいく水
くびすじをすきといわれたその日からくびすじはそらしかたをおぼえる
檻を恋う小鳥の声で鳴きながら安定剤をはんぶんに割る
 一首目に漂うエロス、二首目の状況の危うさは大胆さと併走する。三首目の包帯はリストカットの跡だろう。四首目のカッコのくるまれた部分は内的独白である。六首目のように安定剤と眠剤も何度か登場する。一歩まちがえばという若さをどう手なずけて行くかが注目される。五首目では首筋を自分から切り離して、独自に動くものとして捉えたところがポイントだろう。
 短歌のような韻文においては文体が世界観である。野口にはもう自分の文体がある。これは注目されてよい点である。歌人はみな歌のどこでキメるかというポイントを持っているはずだ。野球の投手の持つ決め球のようなものである。野口の場合、どうやらそれは下句にあるようだ。
なにもかも決めかねている日々ののち ばしゅっとあける三ツ矢サイダー
恋人の悪口ばかり言いながら持て余している桃のジェラート
どのおとこも私をあいしませんように父の背中に塗るステロイド
みずいろの風がまぶたを撫でるからゆっくり握る朝顔の種
ええすきよ、なお軽々と口にして夏椿からこぼれる花粉
 これらの歌では上句と下句の意味的連接の粗密に差はあるものの、おおむね上句から意味的に飛躍のある下句を配し、下句は「〈動詞〉する〈名詞〉」の形式を取っている。野口は短歌の生理をよく知っているのである。永田和宏の「合わせ鏡」の比喩を持ち出すまでもなく、短歌や俳句のような短詩型文学においては、「切れ」が短い一首・一句の中に大きな空間を作り出し、ひいては詩を浮上させる役割を果たす。例えば上に引いた一首目では、上句は「逡巡と停滞」、下句は「決断と前進」と対を成しており、効果的に用いられた擬音とともに「三ツ矢サイダー」が喩となっている。
 最後に短歌研究新人賞の対象となった「カシスドロップ」から一首。
青春の心拍として一粒のカシスドロップ白地図に置く
カシスドロップは短歌の喩で、この歌は歌人としての野口の覚悟の表明と読みたい。『くびすじの欠片』はその覚悟を十分に表した歌集となっている。