湖の底に沈みし銀の匙魚知らざるや背に秋の光
井上孝太郎『サバンナを恋う』
今回取り上げるのは異色の歌集である。巻末の著者略歴によれば、井上は1940年生まれ。東京大学工学部を卒業し、日立製作所に入社。原子力開発などに関わり研究所長も務める。その後、科学技術振興機構に異動となり、国の研究開発戦略の画定などに携わる。2016年に退任。その間、東京農工大学大学院教授、日本学術会議委員などを歴任する。環境やエネルギーの専門家だという。要するにばりばりの理系なのである。それが還暦間近になって、上野駅構内の書店でふと子規の『歌詠みに与ふる書』を手に取ったのがきっかけで、短歌を作り始めたという。こういうことがあるから短歌はおもしろい。やがて短歌人会に入会し、小池光に師事。『サバンナを恋う』は2017年に上梓された第一歌集である。栞文は有馬朗人、梅内美華子、小池光。歌集題名は集中の「高原の町に晩夏の陽はあふれサバンナを恋うガラスのきりん」から取られている。
あとがきで著者は、「短歌では自分の記憶に残したいこと、他の人と共有したいことを詠む」と書いている。「自分の記憶に残したいこと」とは、自分の生活と人生の記録である。「他の人と共有したいこと」とは、「ほら、こんなことがあったよ」と人に伝えたいことである。本歌集に収められた歌は著者の言明に忠実に、生活と人生の記録となっている。ただし、前半は短歌を作り始める前の若い頃の出来事が回想され、後半は短歌を作り始めてからの記録という構成である。前半からいくつか引いてみよう。
水木の上幾春過ぎしかチボー家のジャックのごとく思いし日より
蜜蜂をちぎりひそかに蜜なめし少年おびえる空のむらさき
教室で夏を焦がれる少年にかすかに聞こえる遠き雷鳴
山好きの少年ひとりプールに死す水面に夏の雲を残して
「皆自明」のみ答案用紙に書き入れて数学試験の教室を出た
ミニヨンを読むため学びしドイツ語の遙かな記憶オレンジの香に
これらの歌を読むと若き日の井上青年は理系ばかりの人ではなかったことがわかる。ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』は、トルストイの『戦争と平和』やドストエフスキーの『罪と罰』などと並んで、ある年代の人たちには教養の一部となっている。二首目や三首目の青春の抒情に潜むのは師の小池光の影か。五首目は数学の試験で解答を書かずに、「皆自明」つまり「すべて当たり前である」とのみ書いて退出するという青春の自負である。
流麗な文体と言うよりは、どちらかと言えば無骨な文体なのだが、それが返って好ましく感じられる。それはこれらの歌が自らの生活と人生の飾らぬ記録であり、短歌は民衆の詩という性格を持つからである。俳句も共有するこの特性が、桑原武夫の『第二芸術論』で攻撃の的となったのは周知のことだ。
本歌集を特異なものとしている理由の一つは海外詠の多さである。それも私的な旅行ではなく、環境問題やエネルギー問題の解決のために世界を駆け巡る仕事上の出張旅行なのである。
炎曳き深く落ちゆく夏の蝶 風音絶えし太魯閣の谷に (台湾)
天と地の白く融けいるヒマラヤの町に転生祈る声満つ (ネパール)
下放の時代の生活とつとつと語る教授に定年近し (西安)
海原に刷毛で引かれし白き道ヘミングウェイを捉えし島へと (フロリダ)
再見と手を振る車上にふと思う再び会わざる人の多きを (桂林)
「天地とはかくなるものぞ」咆哮し大河を落とすイグアスの滝 (ブラジル)
ポリ袋アルミ缶に覆われて沈みゆくのかツバルの国は (ツバル)
コーランの唱和につつまれ馬車がゆくナイル・デルタの春の夕暮れ (エジプト)
ざっと見てわかるように、台湾・中国・ネパールから、アメリカ大陸や太平洋に浮かぶツバルやアフリカに到るまで、まさに地球を股に掛ける活躍ぶりだ。海外詠では特に異国の地で自分が受けた印象の記録という性格が強くなる。短歌人会には本多稜というすごい人がいて、海外を駆け巡って山に登り海に潜るという行動派なのだが、どうも短歌人会にはこのような野人が多い印象があるのだがどうだろう。
海外旅行詠では同行の人を詠んだ歌にクスリとするものがある。
「この土地は塩分過剰」と土なめし佐藤教授は下痢に倒れる
岸を這い丸木舟にて渡る河 山極教授は三度落ちしと
襞深き氷河に一歩かけしまま有馬先生しばし目を閉ず
二首目の山極教授はゴリラの研究者で、現在の京都大学総長その人である。また三首目の有馬先生は栞文を寄せた有馬朗人で、元東京大学学長にして文部大臣まで務めた俳人である。
作者は理系の人なので、理系に関係する歌にもまたおもしろいものがある。
「集合の集合すなわち複集合は……」若き教授にガロアの翳射す
「何故に神は乱流創りしか」ハイゼンベルグの今際の叫び
久慈川の岸辺に蝶のつがい舞うチェレンコフの青き光よ
自らの腐臭に耐えて横たわる「もんじゅ」に捧げん白百合の花
三万メートル気球は昇り破裂せりオゾンのデータを地上に届け
フクシマの対策案をメールする胃がん手術の麻酔より醒め
一首目は「ガロアの翳」と題された連作の一首。ガロアは群論を創始するも20歳で決闘に斃れた天才数学者である。二首目から四首目までは「チェレンコフ光」という連作から。チェレンコフ光とは陰電子や陽子などの電荷を持つ粒子が光速を超えて物質内を移動するときに出す光のことで、原子炉の核燃料プールで見られる青い光がそれである。著者は原子力発電所の開発にも関わっていたので、四首目の「もんじゅ」の歌や六首目の「フクシマ」の歌が生まれたのだろう。これらの歌には技術者としての悔恨も読み取れる。「乱流」、「集合」、「オゾンホール」、「チェレンコフ光」といった硬質の理系用語が短歌に読み込まれるとき、ふつうの短歌の言葉とはとはまた異なる詩的効果が生まれるように思う。
最後に印象に残った歌をいくつか挙げておこう。
手に触れる木陰の小さな黒百合の思いがけない生のたしかさ
うら若き住職の妻は香り立ち月下の庭に百合の花剪る
草を食みやがて伏せたる牛の背すでにこの世を見極めしごと
クリップの錆びし書類を破棄せんと繰れば激しきわがメモに会う
鯊釣りの客乗せ沼に浮かぶ間も小舟は朽ちる海焦がれつつ
籾を焼く火は穂をたてず深く澄む忘れしはずの悔恨に似て
胸を病む父の食事に玉子添えわれら見つめし母の眼悲しき
死に急ぐ人を思いぬやわらかくカサブランカをつつむ夕暮れ
睡蓮の葉は御仏の手にも似て水面にもがく虻の傍に