第257回 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』

今日もまた前回までのあらすじを生きているみたい 雨がやまない

鈴木美紀子『風のアンダースタディ』

 

 プロフィールによれば、鈴木美紀子は2009年から新聞に短歌投稿を開始、同年未来短歌会に入会して加藤治郎に師事する。雑誌「ダ・ヴィンチ」の「短歌ください」にも投稿している。『風のアンダースタディ』は2017年に書肆侃侃房の「新鋭短歌シリーズ」の一巻として上梓された第一歌集。編集と解説は師の加藤治郎である。歌集題名の「アンダースタディ」(understudy)は、英語で「代役を務める」もしくは「代役」を意味する。本歌集を読み解くキーワードである。

 刊行から手に取って実際に読むまで少し時間がかかったが、私はこの歌集をとてもおもしろく読んだ。その理由は二つあって、一つは作者が「独自の世界を持っている」こと、いま一つは「口語短歌の文体と骨法を会得していること」である。この両方を兼ね備えている人は滅多にいるものではない。

 このうち「独自の世界を持っている」は、努力したり勉強したりして得られるものではない。その人の体格や容貌や体臭と同様に、本人の意思とは関わりなく得たものである。またそれを得たことが必ずしも本人にとって幸福とは限らないという点もまたやっかいだ。

 では鈴木の「独自の世界」とは何か。それは歌集題名の「アンダースタディ」によく現れている、「自分は誰かの代役としてこの世に生まれ生きているのではないか」という感覚である。

間違って降りてしまった駅だから改札できみが待ってる気がする

きみはまたわたしの角を折り曲げるそこまで読んだ物語として

わたしだけカーテンコールに呼ばれないやけにリアルなお芝居でした

「これはあなたの物語です」と帯にある本は今でも読みかけのまま

異国にてリメイクされた映画では失われているわたくしの役

親族を数えるときにいつだって自分自身をかぞえ損ねて

過るのは再現フィルムでわたくしを演じてくれたひとの眼差し

 一首目、電車の駅を間違って降りたという所に、すでに「ここは私が本来いるべき場所ではない」という不全感が現れている。この歌の「だから」という順接の接続詞には奇妙な捩れが加えられていて、間違って降りたら待ち合わせをしている君はいないはずなのに、「だから」いる気がするというのである。二首目を見てもわかるように、鈴木は自分を語るに際して、「物語」や「映画」「芝居」という喩を多用する。「人生は一幕の芝居にすぎない」と喝破したのはシェークスピアだが、現実を生きる私が物語であり芝居と感じられるのは一種の不全感である。毎日を精一杯暮らし、額に汗して働き、家族と団欒しているリア充の人は、「これは芝居だ」などと感じることはない。三首目は自分だけカーテンコールに呼ばれないという疎外感、四首目は「読みかけの物語」という不全感であり、それは五首目や六首目にもはっきりと現れている。七首目はさらに転倒していて、自分を再現フィルムで演じた人がいるという。

 このような感覚を一般化してみると、それは「多重世界」と「分岐的時間」となるだろう。多重世界とは、自分が生きているこの世界とは別に、それと並行的に存在する世界があり、そちらの方が本当の世界であって、この世界の私は影ではないのかという感覚である。SFに登場するパラレルワールドだ。また分岐的時間とは、時間は一直線に過去から未来に流れているものではなく、あちこちに分岐があり、現実に辿った分岐とはちがう分岐を選んでいたならば、今ある世界とは異なる世界になっていただろうということである。上皇后美智子の「かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいずこに行きけむ」がそれだ。「自分は本当の自分の影にすぎない」という感覚は、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』や『流れよ我が涙と警官は言った』の作者フィリップ・K・ディックが偏執的に作品に描いたものでもある。このような独自の感覚が鈴木の短歌世界の基底を成しており、その特徴となっていることは注目に値する。

 次に第二の点「口語短歌の文体と骨法を会得している」は、次のような歌を見ると感じられるだろう。

悪気などなかったのですセロファンの中でべとつくミントキャンディ

ちかちかと今宵もチックが鳴りなまぬレム睡眠のまぶたの端の

言いかけてやっぱりいいやと呟いたクルトンひとつ沈めるように

「何処まで」と訊かれて途方にくれるためそのためだけに停めるタクシー

 「き」「けり」「はも」など様々なニュアンスを持つ助動詞などの文末要素がある文語と異なり、口語短歌の結句は終止形「語る」や過去形「行った」など種類が少なく単調になりがちである。それを避けるために用いられるのが倒置法と体言止めだ。たとえば上の一首目、終止形の「悪気などなかったのです」を上句に置いて二句切れとし、三句以下は連体修飾語の付いた大きな体言としている。そして二句までと三句以下の意味関係を意図的に曖昧にすることで、三句以下を喩としている。二首目ではやはり「ちかちかと今宵もチックが鳴りなまぬ」を最初に配して三句切れとし、「チック」にかかる連体修飾語「レム睡眠のまぶたの端の」を倒置している。三首目も似ていて、「クルトンひとつ沈めるように」という直喩を倒置により文末に置いている。四首目は一首全体が大きな体言となっており、「途方にくれるため」「そのためだけに」という重複した畳みかけが切迫感を生んでいる。このような文体上の工夫が随所に施されていて、結句の単調さを避けて短歌の内的リズムを生み出しているのである。

 さらに注目されるのは喩の独自性と、感覚の鋭さである。

傘の中のふたりの会話はどこもでも定員割れのようなさびしさ

他人のものばかり欲しがる長い指火打ち石の匂いをさせて

埋められぬ空欄みたいに白かった絆創膏を剥がした膝は

ブランコの鎖の匂いの手のひらを咲かせてしまうわたしの花壇

しゃらしゃらと流水麺をすすいではFMで聴くウェザーリポート

 一首目で寂しさの喩として置かれている「定員割れ」や、二首目の「火打ち石の匂い」、三首目の「埋められぬ空欄みたい」という直喩は短歌ではあまり見かけない。私が感心したのは四首目の「ブランコの鎖の匂い」だ。確かに公園のブランコの鎖を握ると、その後に鉄とかすかな錆の匂いが混じったものが手に残る。忘れていた感覚である。また五首目の「流水麺」のように歌に織り込むアイテムもおもしろい。思わず笑ったのは、「同罪だ。魚肉ソーセージのビニールを咬み切るわたしと見ているあなた」という歌である。魚肉ソーセージの両端の金具の部分を歯で噛みちぎるというのはあるあるだ。他にも「冷凍庫のガリガリ君」、「ティファールの把手」、「うまい棒コーンポタージュ味」など、あまり短歌には登場しないアイテムを詠み込んでいるのも工夫である。

ほんとうはあなたは無呼吸症候群おしえないまま隣でねむる

日曜のファミレスくり返されるメニューお皿の砕ける音が聴きたい

車いす押して海辺を歩きたい記憶喪失のあなたを乗せて

部屋中の鏡にあなたを見張らせるわたしの夢から目覚めぬように

無意識に肩紐のよじれ直すだろうあなたが死んで号泣する夜も

片膝を立ててペディキュア塗っている喪服を脱いだばかりのわたしは

 怖い歌を集めてみた。怖い歌は歌の中の〈あなた〉との関係性を詠んだ歌に集中して見られる。無呼吸症候群であることをパートナーに教えないとか、記憶喪失になったあなたと海辺を歩きたいとかはぞっとするほど怖い。怖い歌は良い歌である。上にも書いたように、私が生きている生は一つの物語にすぎず、並行世界に別の物語があるという考えに憑かれている人には、パートナーとの関係もあの角を曲がった瞬間にがらっと変わってしまうかもしれないと感じられるのだろう。

 最後にいつものように特に心に残った歌を挙げておく。

この辺は海だったんだというように思いだしてねわたしのことを

くちびるに果肉の色をのせるとき啄みにくる片翼の鳥

完璧な口述筆記するときの沈黙にふるルビの星屑

あまやかに女性名詞で海を呼ぶあなたのために砕く錠剤

今のうち眠っておけよと声がする晩夏へ向かう青い護送車

振り向けば今まで出会った人たちとオクラホマミキサー踊るまぼろし

海までの道を誰かに訊かれたらあの非常口を指し示すだけ

自らのいのちをそっと手放して水を産みたりあわれ淡雪

 六首目「振り向けば」を読んだとき、思わず「またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく」という岡野弘彦の歌を想起した。私が特に好きなのは四首目で、女性名詞の海はフランス語の la merだろう。la merは la mere「母親」と同じ発音だ。「あまやかに」がそれを暗示しているとしたら男はマザコンだ。もしそうだとすると、砕いている錠剤は男に一服盛るための睡眠薬か毒薬かもしれない。そう考えるとぞくぞくして歌は一層美しさを増すのである。