第271回 五十子尚夏『The Moon Also Rises』

月までを数秒で行く君の名のひかりと呼べばはつ夏の空

五十子尚夏『The Moon Also Rises』

 光速はおよそ秒速30万kmで地球と月の距離は384,400kmだから、地球から月まで光が届くのには数秒どころか1秒ちょっとしかかからない。しかしそれはまあどうでもよく、掲出歌では「月までを数秒で行く君の名の」までが「ひかり」を導く序詞として置かれている。恋人の名が「ひかり」なのだ。恋人の名をおずおずと呼ぶと、そこには初夏の蒼天が広がっていて、溢れるような光に満ちているという青春歌である。近頃このように曇りのない青春歌は珍しい。この歌集はもう失ってしまった青春を哀惜するかのように編まれたものと思われる。

 作者の五十子尚夏いかごなおかについては、巻末に記載された「1989年滋賀県生まれ、2015年短歌を始める」という二行のみのプロフィール以外何もわからない。五十子尚夏というのも工夫してこしらえた筆名だろう。ちなみに作者は男性である。『The Moon Also Rises』は2018年12月に上梓された第一歌集で、書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの一巻。跋文と監修は加藤治郎。五十子は毎日新聞の短歌欄に投稿する常連だったようで、同欄の選者を務めていた加藤の目に止まったものと思われる。

 さてその作風だがこれがなかなかおもしろいのである。

枕詞のピロートークと訳されて夜のあわれを踊る流星

プレイエルに伏せたる君の背中へと月の光のとけゆく夕べ

憂鬱な春の陽射しに深さ増すカーネル・サンダースのほうれい線

音楽をするひとはみな美しき種族ひと ジャクリーヌ・デュ・プレも君も

ひとり、またひとり忘れてゆく夜のどこかで奏でているムーン・リヴァー

 一首目、翻訳ソフトは枕詞をうまく訳せない。pillow talkは男女の寝物語であり、その意味のずれがおもしろい。下句にはそれほど意味はなかろう。二首目、プレイエルはフランス製のピアノ。歌の〈私〉は男性なので、「君」は女性である。練習に倦んだか、女性はピアノに顔を伏せている。背中の開いたドレスを着ているのか、白い背中に月光が射しているという光景である。集中によくピアノと音楽が詠まれているのは作者の好みか。三首目、KFCの店先に立っているカーネル・サンダースの人形のほうれい線が春の陽射しに深さを増すという歌。憂鬱な春とカーネル・サンダースの取り合わせがおもしろいが、何より人形のほうれい線に着目したのが秀逸である。四首目のジャクリーヌ・デュ・プレ (Jacqueline du Pre)はフランスのチェロ奏者。幼少より楽才を発揮するも20代で多発性硬化症を発症した悲劇の天才である。この人を主人公にした『風のジャクリーヌ』という映画まで作られた。確かジャクリーヌ・デュ・プレ が使っていたストラディバリウスを、その後ヨーヨーマが弾いていたと記憶する。五首目は『ティファニーで朝食を』のオードリー・ヘプバーンへのオマージュだ。

 写実を旨とする流派に限らず短歌は〈私〉の歌であり、〈私〉の事実を詠めとよく言われる。TV番組「プレバト」の人気俳句コーナーの毒舌先生こと夏井いつきもよく、「事実より強いものはない」「そのまま詠めばいいのよ」と言っている。しかし事実を詠まない短歌や俳句もある。五十子の作風はまさにそれである。上に引いた歌の中に作者が見聞し体験した事実は一つもない。すべて頭の中で作り出した「コトバでできた歌」である。「私性」などという用語が裸足で逃げ出すほどの徹底ぶりだ。

 加藤は跋文の中で、私性が作歌と批評の軸となってきたことに照らせば本歌集は異端であると断じ、その源流として塚本邦雄らの前衛短歌や、荻原裕幸・西田政史らのニューウェーヴ短歌を挙げている。確かに前衛短歌やニューウェーヴ短歌を通過した現在だからこそ五十子の作風も成立するのだが、かといって五十子の歌に前衛短歌やニューウェーヴ短歌の影響がそれほど感じられるという訳でもない。五十子は自分の流儀で自由に作っているという印象を受ける。

 ではその着想の源泉はどこにあるかというと、その多くは書物や映画や芸術作品である。そのため過去の作品や作者への言及が増えることになり、夥しい数の固有名が登場する。

 

手のひらで雪を感じたあの冬の心もとないグレート・ギャツビー

フラニーもゾーイも大人になれなくて夜から剥がれた緑の付箋

モノクロームの帝都に消える天の詩を紡ぐ地上のピーター・フォーク

夭折のJulyに緋色の天蓋を アルノルフィーニ夫妻像

8 1/2はっかにぶんのいちオクターヴ彼方からマルチェロ・マストロヤンニの悲鳴

探査機の名前のような子を産んで 朝焼け スタニスラム・レムの死

 

 一首目のグレート・ギャツビーはフィッツジェラルドの小説。ロバート・レッドフォード主演で映画化もされた。二首目のフラニーとゾーイはサリンジャーの小説。三首目はヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』で、ピーター・フォークは『刑事コロンボ』で名を馳せた俳優である。四首目のアルノルフィーニ夫妻像は、ファン・エイクが描いた油絵の傑作。五首目の『8 1/2』はフェリーニの映画で、マストロヤンニはその主演男優である。六首目の探査機のような名前とはタルコフスキーによって映画化された『惑星ソラリス』のこと。スタニスラム・レムは原作者である。

 プロフィールの1989年生まれという記述を信ずるならば作者は今年30歳のはずなのだが、それにしては歌に詠まれた固有名の時代が古い。私の世代が親しんだ芸術作品で、五十子の親に当たる世代の教養なのだ。それがとても不思議な気がする。私の邪推かも知れないが、五十子尚夏という凝った筆名にその鍵が隠されているように思えてならない。尚夏は「なお夏」つまりいまだに青春と読めるのだ。挿入された「パリ再訪」という散文を読んでも、30歳では年齢の計算が合わない。

レイモンド・チャンドラーの名を出して口説く女の煙草のけむり

夕景をあるいは夜景と呼ぶころに竹内まりやは身に染みてくる

「僕としたことが」に自信をのぞかせて駆けてゆくのが杉下右京

 固有名のオンバレードもここまで行くといささかやり過ぎの感なしとしない。二首目の「夜景」は「インウィのほのかに香るこの手紙を」という歌詞で始まる竹内まりやの歌で、「僕としたことが」は人気TVドラマ『相棒』の主人公杉下右京の口癖である。ニューウェーヴ短歌の遺産を感じさせるのは次のような歌だろう。

シャンメリーにあわくおぼれた金粉のすくいようもないぼくらだね

言いそびれたことがあったと告げるとき〈そびれ〉に抜けてゆく風があり

フローレス・トスカ夜ごとに落ちてゆくabcdef字孔

来ぬ人をまつしまななこの涙もて強がるきみもやまとなでしこ

バルセロナに振るアクセントの美しく未完のように呼ぶバルセロナ

 一首目では「シャンメリーにあわくおぼれた金粉の」までが「すくい」を導く序詞になっていて、加藤治郎の言う「修辞ルネサンス」の遺産と言える。二首目では「そびれ」で言葉遊びをしている。三首目の「f字孔」はヴァイオリンやチェロなどの胴にある筆記体のfの形をした穴のこと。四首目の「やまとなでしこ」は2000年に放映された松嶋菜々子主演のTVドラマ。五首目では初句と結句にバルセロナがくり返されていてとてもおもしろい。永井陽子に「ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまわり」という歌があり、これに触発された歌かもしれない。ちなみにバルセロナのアクセントは「ロ」にある。

銀の義指波打つごとく思い出す海底ピアノの眠れる音を

遠浅の海の渚にファルセット響きわたって暮れる八月

夏服の袖の白さを見つめ合い鋼のように飲み干すサイダー

ゆるゆかにわずか一秒弧を描く夏の夕日に照るグラブトス

遠い日をただ思い出と言う君が彼の墓前に置くサリンジャー

遠雷に微か震える聴覚のどこかにあわれバイオリン燃ゆ

美しき午睡のようなデスマスク浅く沈める春の湖

 特に印象に残った歌を挙げてみたが、改めて見ると作者の好みの季節は光溢れる夏であり、青春への挽歌の趣が濃厚である。現代の若い歌人の多くはハイテンションの歌や決めポーズが透けて見えるような短歌を好まず、等身大の低いテンションで日常を詠むことが多い。しかし五十子の短歌はその逆で、特に下句でカッコ良く決める歌が多いのは、現代の短歌シーンでは珍しいと言える。下句の着地が非常に上手いので、読んでいると五十子の仕掛けた罠にはまってしまいそうになる。印象深い歌集だが、問題作と言えるかもしれない。

【追記】
 この歌評を公開後、作者ご本人からいただいたメールによると、てっきり筆名だと思っていた五十子尚夏というお名前は本名だということだ。また生年もプロフィールにある1989年のとおりだという。私の誤解だったわけで、不明を恥じて内容を書き直そうとしたら、ご本人は「そのままでよい」と言う。私も思い直してそのままにすることにした。作者が意識したかどうかはわからないが、私は作者が仕掛けた美しい罠にはまったのだ。その事実を残すためにも書き換えない方がよいと思う。ミステリーがその極北だが、読者は作者が仕掛けた罠に美しくはまることを期待して作品に臨む。私が結果的に五十子の罠にはまったのは見事な結末と言えるかもしれない。(2019年12月29日記)