約束はひとつもなくて日傘をささず帽子をかぶらずに行く炎天下
黒﨑聡美『つららと雉』
大きな破調の歌である。三句以下を意味で区切ると「日傘をささず/帽子をかぶらずに/行く炎天下」と七・八・七になり、定型の五・七・七からはみ出している。それを承知の上で言葉を重ねたいという想いが溢れている。さて中身を見ると、約束もないのに夏の炎天下に他出するという。おまけに日傘をささず帽子も被らないのだから熱中症を起こす危険もある。だから誰が見ても筋が通っておらず、因果を無視している。そこにこの歌のおもしろさがあり、作者の個性が際立つ。あえて常識に背く行動に出るのは、心の裡に押さえがたい衝動を抱えているからにちがいない。本歌集を一読して強く感じるのはこの言葉にされない内的衝動の強さと、歌作における因果のずれの効果である。
黒﨑聡美は1977年生まれ。短歌人会に所属して小池光の選を受けている歌人である。2016年に結社内の高瀬賞を受賞。短歌研究新人賞にも応募していて、確認できた限りでは2011年、2012年、2016年に最終選考作品に残っている。『つららと雉』
は2018年に刊行された第一歌集。米川千嘉子、穂村弘、小池光が栞文を寄せている。
黒﨑の作風の一角をよく表す歌を歌集の最初の方から引いてみよう。
わたしたち何かがきっと足りなくて流されそうな草を見ている
目薬をうまくさせない平日はすべての窓にうつる青空
見るたびにてんとう虫は増えていて乾いたものもいる西の窓
水色のペディキュアを塗り出かければうつむくばかりの夏だと気づく
まさかさまに家々うつす町川のかなしいことはひとつもなくて
一首目、本歌集を読んでいればわかるが、「わたしたち」とは不特定の私たちではなく、作者と夫の二人を指す。「何かが足りない」ことのひとつは夫婦に子供がいないことなのだが、それだけではなく作者は心の裡に漠とした不全感を抱えているようだ。歌の多くがこの不全感を主題としている。それは二首目にも明白で、この歌では不全感に目薬をさせないという具体性が付与され、青空と対比されている。「平日」が上手い。三首目は不全感が天道虫に具象化されている。カフカの『変身』がちらっと頭を過ぎる。四首目では、せっかく塗った水色のペディキュアが夏の明るい陽光に輝くはずなのに、歌の〈私〉は下を向くばかりだ。五首目では上句と下句の修辞的断絶が効果的である。「まさかさまに家々うつす町川の」までは連体修飾句なので、読者はその次に体言を期待するが、その期待は裏切られ心内のつぶやきのような下句が後を引き受ける。この修辞的断絶によって「かなしいことはひとつもなくて」と言いながら、反語的に実は心の中に哀しみが宿っていることを感じさせる。このような歌を読んで頭に浮かぶキーワードは、「漠とした不全感」「閉塞感」「息苦しさ」といったものだろう。
どこまでも二人のままで沈むよう耳のかたちをくらべる夜は
言い付けを守るくるしさ思い出し蛇口は鈍く光をかえす
玄関に灯のともらないライターを集めていれば厚くなる雲
どこか、には行けないことを知っていてきみの耳には黒いイヤホン
窓のむこうはすべてがうるみ前世も来ていたような簡易郵便局
濃厚に不穏な気配が漂う歌を引いてみた。同時にこれらの歌には歌を作る言葉の斡旋が感じられる。子供の作文によくある「昨日お父さんとお母さんと動物園に行きました。公園でお弁当を食べました。楽しかったです」のような文章がポエジーからほど遠いのは修辞がないからである。ポエジーは修辞が作り出すものだ。なぜ修辞がないかというと、この文章は出来事を時系列に沿って述べており、因果関係が説明的だからだ。それが散文の特徴である。韻文の修辞はこれらの要素のベクトルを反転させる。ポエジーでは出来事を時系列に述べず、因果関係を説明しない。だからそこに詩的飛躍が生まれる。
一首目では、耳の形を較べることと二人で沈むことの因果関係が消されている。同時に「どこまでも二人のままで沈む」が心中を連想させて不穏である。二首目でも言い付けを守る苦しさと蛇口の光に因果の連鎖はない。どんな言い付けなのかも伏されていて意味の空白が残る。三首目ではなぜ火が付かないライターを集めるのかが謎である。ライターを集めるという行為自体が不穏だが、火が付かないライターというところが不毛である。四首目も不全感が濃厚で、黒いイヤホンがそれを助長している。イヤホンは私が話しかける言葉を遮るかのようだ。五首目は軽く離人症を感じさせる歌。窓の向こうがぼやけて見えるのは、現実には窓に結露ができていただけかもしれないが、それを前世と結びつけるととたんに別な意味を帯びてくる。
黒﨑の歌にはよくがらんとした空白の空間が登場するのも印象的である。
ここは昔ガソリンスタンドだった場所 今は立葵の咲いている場所
休日の工業団地にふりむけば野良犬二匹のやさしげな貌
からっぽをわけあうようにカレンダー通りに休むコンビニの前
ソーラーパネルの土台ばけかりが放置されあかるい方へ向かされたまま
米川は栞文の中で、作者にとってこのような空間が「切実な自身の内部と感じられていた」と的確に指摘している。まさにその通りで、明るいばかりのがらんとした何もない空間は、黒﨑が外部ではなく自分の内部に感じているものである。
ガソリンの投入口から立ちゆらぐ気化した影を見る真夏日
手紙から音をたてずにこぼれゆくもののようだねのうぜんかずら
水たまりはきれいに消えてこの道にとびこえるものは何ひとつ無い
炭酸のあかるさ満ちる街のなかたった一日で融けた大雪
逆光の強い日曜 白い車ばかり並んだ宗教施設
てのひらが瓜科植物のにおいしてはじめからただなかにいる夏
逃げ水にむかってアクセル踏むときの遠のくようなわたしの横顔
いくつもの不安は過り口中に存在感を増してゆく舌
ながいながい晩年のような路地をゆくふくらみ光る木洩れ日のなか
立葵咲かせる屋敷を過ぎたのちからだのなかに満ちる夕暮れ
集中で付箋の付いた歌を引いた。書き写していて気づいたのだが、黒﨑の歌は無音の世界を感じさせるものが多い。例えば一首目は真夏のガソリンスタンドでの給油の光景だが音が感じられない。二首目の凌霄花は夏の花で、民家の壁などからこぼれ出すように咲くが、これも静かな光景である。五首目の宗教施設の歌も完全に無音の光景だ。そのしんとした光景が安らぎを感じさせる暖かなものではなく、どこかに不安を孕む不穏なものであることが作者の強い個性となっている。
私が特に好きなのは最後の立葵の歌だが、おもしろいのは七首目の「逃げ水に」だろう。まず「逃げ水にむかってアクセル踏む」には無目的な暴力性があり、それは作者が内心に宿すものである。問題は下句の「遠のくようなわたしの横顔」で、私の横顔は私には見えないのだから、それを見ている人が別にいるはずだ。かといってそれは示されていないので、まるで私が車の運転席と助手席で二重の役を演じているようにも見える。近代短歌が許さない視点の分裂の例である。
どうやら作者は心の中の何かと日々戦っているようだ。注目すべき歌集である。