第274回 齋藤芳生『花の渦』

その枝のあおくやさしきしたたりよひとは水系に傘差して生く

齋藤芳生『花の渦』

 青くて優しい滴りだから春の雨だろう。作者の住む福島県では内陸部の冬は雪が深い。春の雪解けの雨は豊かに川を流れる。水は生命と豊かな稔りをもたらす。「ひとは水系に」という部分に先祖から自分へと続く血脈が感じられ、福島に生きる覚悟が表されている。

 『花の渦』は、齋藤の第一歌集『桃花水を待つ』(2010年)、第二歌集『湖水の南』(2014年)に続く第三歌集であり、2019年末に現代短歌社からかりん叢書の一巻として刊行された。装幀は間村俊一。歌集題名は集中の「みちのくの春とはひらく花の渦  そうだ、なりふりかまわずに咲け」という歌から採られている。四部構成の編年体で、第二歌集刊行後の2014年から2019年までの歌が収録された歌集である。

 第一歌集『桃花水を待つ』、第二歌集『湖水の南』の評でも書いたように、作者はしばらく中東のアブダビに日本語教師として赴任し、帰国後故郷の福島に戻ったところで東日本大震災と東京電力福島第一発電所の原子炉苛酷事故に遭遇した。この出来事は多くの人と同じく、齋藤の人生を根底から変えたと言ってよい。『湖水の南』の後半はその記録であり、『花の渦』にはその後を引き続き福島で生きる作者の日常と感慨が描かれている。

 同じ印象を持った人は多いと想像するが、東日本大震災と原発事故という未曾有の災害の報に接して強く感じたのは東北に生きる人々の強い郷土愛である。それは厳しい自然条件と、歴史上しばしば不遇な扱いを受けてきたという事実のなせる業かとも思う。現代短歌がややもすれば忘れそうになっている「郷土性」が色濃く表されていることが、本歌集の最大の特徴ではないだろうか。

林檎の花透けるひかりにすはだかのこころさらしてみちのくは泣く

堪えかねて西日に光りはじめたり川はみちのくの生活たつきを濯ぐ

橋ごとにちがう川風ちがうみず文知摺橋に青草におう

阿武隈川あおく貫く市街地に白鷺ふえて水の香をよぶ

雪解けの水にたっぷり濡れている街へ花桃を購いにゆくなり

会津の冬の白さは太き息を吐く会津のひとの生活たつきの白さ

 一首目は巻頭歌であり、この歌に作者の心情はすべて表されていると言っても過言ではあるまい。三首目の「文知摺」は「もじずり」と読む。古来からの染色技法で、「みちのくの忍ぶもちずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに」という古今和歌集の源融の歌に詠まれている。五首目にもあるように桃は福島県の名産品である。林檎の花が咲き桃がたわわに実り、阿武隈川の豊かな水に白鷺が遊ぶという豊かな風土である。しかしこの風土は齋藤の短歌に元からあったものではない。アブダビから帰国して自分探しをしていた齋藤が、震災と原発事故を契機に「発見」したものである。物は常にそこにあろうとも、見ようとしない人にとってはないのと同じである。辛い体験が齋藤をして「見る」よう仕向けたものと思われる。

 震災と原発事故から9年を経ても、東北の土地と人々の心が負った傷は癒えることがなく、作者はそのことにも目を向けざるをえない。

避難した子もしなかった子もその間のことには触れぬようにじゃれ合う

黙礼をするにあらねどすこし目を伏せて道路除染の前を過ぎたり

祖母のまだ在りしころ白きコンテナに除染土を詰めて深く埋めにき

モニタリングポストがこんなところにも裏に飛蝗が隠れているよ

「フクシマの桃をあなたは食べますか」問いしひとを憎まねど忘れず

 放射能を避けてよその地に避難した人とその地に留まった人の間には、言葉にならないわだかまりが残る。放射能が降り積もった土地は除染されるが、山林は手つかずのままだ。三首目にあるように除染土は最初は地中に埋めていたらしい。数年経ってから掘り出して搬出しているようだ。その間に作者の祖母は他界している。各地には放射線レベルを測定するためのモニタリングポストが設置されている。五首目はいわゆる風評被害を詠んだ歌で、放射能検査で異常なしと判定された桃であっても敬遠する人がいる。

 集中に「元教師の父母はつかう放課後の炉辺談話というよき言葉」という歌があり、祖母も教師であったようだ。教員一家の家庭に生まれた作者も国語教師となって学習塾に勤めている。塾の教室風景や通って来る子供を詠んだ歌も多くあり楽しい。

「だから学校は!」と私が怒る時「だから塾は!」と怒る教師あらん

消しゴムかすをいじっていた子も聞いているごみ箱を漁る駱駝の話

発声はよくよく丹田に気を溜めて初等部夏期講習会初日

草の穂のように子どもは(さようならまた明日)そう、きっとまた明日

新規入塾生三名ともいい子なり競合他社の見学を経て

 一首目は「これだから学校(塾)はだめなんだ」と愚痴を言い合う塾講師と学校教員を思い浮かべて詠んだもの。二首目のごみ箱は漁る駱駝の話とはどんな話か知らないが、お話の時間になると子どもの目が輝く。先生に聞いた話は長く子供の記憶に残るにちがいない。学習塾といえども競合他社との競争があり、塾生の獲得に走らねばならないのが現実である。

硝煙のにおうことなき長雨に火を噴くように柘榴花咲く

パレスティーン、と少年答えその眼伏せたり葡萄のように濡れいき

棗椰子噛むほどにいや増す怒り口腔に甘くあまくはりつく

ガザ遠く照らしにゆかん満月に大きく裂けてゆく柘榴あり

 柘榴の花が咲いたことをきっかけに3年間を過ごした中東に想いを馳せた歌である。集中にこのような歌が挟み込まれていることで、歌集に時間的・空間的な奥行きが生まれている。

余花に降る雨あたたかくやわらかくふるさと遠くひとを眠らす

ひとを恋う髪すすがんとする水のするどくてはつか雪のにおいす

うつくしき扇ひらきて持つのみのそれのみの手よ古りし雛の

からからになるまで生きた牡丹の木燃えながら照らすにんげんの顔

花もどりの人の歩みとすれちがう橋の上とはゆく春の上

山藤の花のむらさき濃きところ光をはこぶように蜜蜂

閉園の後の園舎の屋根の上に春来たり雀密かに番う

 印象に残った歌を引いた。一首目の「余花」とは、咲き残った花、あるいは春に遅れて咲いた花の意で、どちらに取ってもよかろう。冬の厳しい東北にあるので、春の訪れにひときわ思い入れが深いのだろう。二首目は洗髪の水に雪の匂いがするというのだからこれも春の歌である。三首目は震災にも壊れることのなかった雛人形を詠んだもの。おそらく祖父母の代から伝わる雛だと思われる。四首目、下句の「燃えながら照らす」という件に凄みがある。風土に生きる人間と自然との交感である。五首目の「花もどり」は花見に出かけた帰りの意味で春の季語。うららかな東北の春だ。

 集中で最も美しく、また本歌集の射程を象徴しているのは次の歌ではないかと思われる。

白木蓮の香り燦たり太き苞を割りひらきたる痛みののち

 白木蓮の灯し火のような花が開く様に苞を割る痛みを見るのは、作者の心が大きな痛みを抱えているからに他ならない。それは震災と津波と原発事故でフクシマの地が負った土地の痛みでもある。本歌集の到るところにその傷みが通奏低音のように響いていることに読む人の誰もが気づくことだろう。