第293回 大橋弘『既視感製造機械』

どの線路が薔薇へ向かうか知っている今日も火口に雨の降る朝

大橋弘『既視感製造機械』

 歌集巻末のプロフィールによれば、大橋は1966年生まれ。歌誌『桜狩』を拠点として活動しており、歌集『からまり』(2003年)、『used』(2013年)、歌文集『東京湾岸 歌日記』(2018年)がある。『既視感製造機械』は2020年刊行の第三歌集ということになる。

 本歌集を繙く人がもし伝統的な短歌の愛好者ならばおそらく面食らうだろう。なにしろ次のような歌が並んでいるのである。

総武線、一部車両はゆでたまごのとりわけ寒いあたりに止まる

今にして思えば遅い遅すぎるドアを開けたら朝焼けなんて

箱ばかりたくさんあっていれるべき階段がないまひるにひとり

後悔はいつもこんにゃくばかりなりお前のなまくら刀で切れるか

 ゆでたまごが寒いとはどういう意味だろう。遅すぎるとは何をするのに遅いのか。箱に階段を入れるってどういうこと? 後悔がこんにゃくとは何? と頭の中が疑問符だらけになる。形式はきちんと定型を守っているので、短歌の顔をしてはいるが、脈絡を付けようとするとするりとすり抜けてしまう。

 このような歌を目の前にしたとき、人はどのように反応するか。次のような可能性がすぐ頭に浮かぶ。

〔その1〕ばかばかしいと歌集を投げ捨ててしまう。拒否反応で、これが案外多いかもしれない。

〔その2〕なんとか苦労しつつも文面から意味を読み取ろうとする。「ゆでたまごが寒い」とは何かの喩ではないだろうか。「箱ばかりがある」とは通販全盛で世の中に箱が溢れていることへの批評ではないか、etc. しかし無理読みは避けられないだろう。

〔その3〕作者は言葉遊びをしていると考えて、意味を読み取ることを停止し、言葉の組み合わせに身を委ねてそれを楽しむ。

〔その4〕作者はシュルレアリズムの自動筆記を実践していると考えて、歌の中に明滅するイメージに無意識を探ろうとする。

 考えられるのはこんなところだろうが、どれもいまひとつしっくり来ない。そこでヒントになるのは歌集の題名である。栞文によると『既視感製造機械』になる前の仮題は『デジャヴュの製造法』だったという。既視感はフランス語のdéjà-vuの訳語であり、一度も経験したことがないはずなのに確かに見たことがあるという奇妙な感覚をさす。ベルクソンも興味を持ったというこの現象にはいくつもの説明が提案されるもいまだ原因が解明されていない。大橋が『既視感製造機械』というタイトルを歌集に付けたのは、自分の作る短歌によって既視感を生み出すもくろみがあるからだろう。

 「言葉の意味とは何か」というアポリアにたいしては、いくつもの解が提案されてきたがいまだに決着が着いていない。しかし広義の言葉の意味の中には、私たちが言葉の指すもの(指示対象)に関して今までに経験したことが含まれているはずである。たとえば「西瓜」と言えば、夏のうだるような暑さと冷えた西瓜の美味しさ、また西瓜特有の香りなどが立ち現れて来るだろう。「納屋」と言えば、雑然と置かれた農機具や藁や味噌樽から立ち上るほこり臭い匂いを伴うはずだ。そうしたものも広義の言葉の意味に含まれると考えてよい。つまり言葉の背後には私たちの経験が貼り付いている。

 しかし言葉の意味に含まれるのは、私たちが過去に実際に経験したこと(実体験)ばかりではない。本で読んだことや人から聞いたこともまた含まれる。「古池や蛙飛び込む水の音」という芭蕉の俳句は誰でも知っている。私は実際に寺の古びた池に蛙が飛び込むポチャンという音を聞いたことはない。しかし、私の記憶の中では芭蕉の俳句によって池と蛙と水の音は分かち難く結び付き、「池」または「蛙」という言葉の意味の一部をなしている。つまり私の言葉に関する記憶の一部は芭蕉の句によって作られているのだ。その意味で言葉はその背後に過去の文芸の総量を背負っているとも言えるのである。

 このことを踏まえて大橋が本歌集に『既視感製造機械』なる題名を与えた意図を推測すると、大橋は言葉の意味を少しずらすことによって、今まで誰も経験したことのない既視感を作りだそうとしているのではないだろうか。たとえば「またひとつアップルパイが潰されてゆく東京の日の出なのです」という歌がある。「アップルパイが潰されてゆく」ことと「東京の日の出」の間には何の関係もない。しかし両者がひとつの歌の中に配置されることによって、私の脳の中には新たな連合のシナプス回路が形成される。すると「アップルパイ」と「東京」の意味の中に、その新たな連合が薄い影のようにあり続けることになる。将来もしどこかで「アップルパイ」と「東京」とが隣り合わせに居ることがあれば、私の脳はその時既視感を感じるかもしれない。

 とまあ一応は理屈を付けることができるのだが、そのことは別として、作者には失礼な言い方になるが、意外に美しい歌が多くあり、付箋がたくさんついたことに自分でも驚いたのである。

トンカツに衣といえば夕闇の滲む速度で揚げるものです

レールとレールの間にわたつみがあって真夏の蜜がかいま見えてる

はちみつを匙で掬えば声がする天でライムが待っている、声

嘘さえもつきたくなくて揚雲雀空は端から端までの檻

人の世におよそ幾度か降る雨の冷たさを知るポストがあった

そのかみのみやこを守る大鴉いま紅に焼かれつつあり

いずくとも知られず汝の去りしのち海に漂う桃の実の影

あなたには聞こえない薔薇のこの薔薇の芯を朽ちてゆく幼児期

 一首目、「夕闇の滲む速度」が美しい。二首目、レールの間に海が見えることは実際にあるだろう。「真夏の蜜}に詩的な飛躍がある。三首目、蜂蜜とライムの取り合わせは色も美しい。大橋は「、声」のように読点や句点で区切って断層を作るのが好きなようだ。四首目、空は雲雀の檻という見立に含蓄がある。五首目、雨のポストは共感しやすいアイテムだ。六首目は神話的世界。七首目と八首目はことに美しい。桃の実の影は去ったあなたの魂の残像のようで、薔薇の芯はリルケを思わせる。

 集中に平仮名を多用した歌がいくつかあるのだが、取り合わせがトリッキーな歌と比較すると意味が取りやすく、殊に心に沁みるものが多い。ひょっとしたら大橋の作歌のベースはこのような歌で、既視感を製造する歌はこれとは別に意図的に作っているのかもしれないとふと思えるのである。

いましばしこの世にいたいゆっくりと百合に焼かれるままの、この世

木枯らしの薄桃色がやってくるたぶん死ぬまでひとりのきみに

ものはみなまひるにやかれねむの花そのましたすられいがいでなく

たましひをもてるわれらはたましひをゆらゆらさせて汁粉など食す

かたつむり。いつかわたしは帰りゆくそのおくまりのうすらあかりに

 中でも本歌集の白眉は次の歌ではないだろうか。

坂道で鴇色となり燃え落ちる。午後、妹の髪を噛むとき

 短歌は俳句より字数が多い分だけ意味の比重が高い。私たちは意味によって短歌を読みがちである。俳句は字数が少ない分だけ意味の比重が低い。たとえば次のような句を私は美しいと感じるが、意味を説明せよと言われるとはたと困惑する。

中空ふかくナイフ附きの梨のまま  安井浩司

花束もまれる湾の白さに病む鴎  赤尾兜子

涸沼に蝶死して海底火山起つ   九堂夜想

 上に引いた大橋の歌もこれらの句と同じ次元で日常的な言葉の意味を超えた美を発散しているように思えるのである。