第301回 笹川諒『水の聖歌隊』

冬には冬の時間があってひとときの余白を病める土鳩のように

笹川諒『水の聖歌隊』 

 笹川諒は長崎県諫早市生まれで「短歌人」所属の歌人である。年齢は定かではないが、写真から判断するに30代と思われる。『水の聖歌隊』は書肆侃侃房の新鋭短歌シリーズの一巻として上梓された第一歌集で、今年 (2021年)の2月に出版されたばかりだから出来たてほやほやだ。監修と解説は「短歌人」の先輩にあたる内山晶太が担当している。

 まず歌集タイトルに引き寄せられる。「水」は「火」と並んで現代歌人のお好みのアイテムだが、「聖歌隊」との組み合わせはユニークだ。「聖歌」はカトリックの呼び方なので、荘厳な聖堂に響く歌声が連想される。作者は歌集に音楽の共鳴を与えたいと望んでいるようだ。

 掲出歌を見てみよう。「冬には冬の時間があって」では、存在の動詞「ある」のテ形(日本語学ではこのように呼ぶ)で切れている。森田良行の『基礎日本語辞典』(角川書店)によれば、助詞のテは「ある叙述から次の叙述へと移るときの橋渡しとして用いる繋ぎの語」とされている。しかるにこの歌では「あって」に繋がる次の叙述が欠落している。連接されるのは「ひとときの余白を」という動詞を欠いた目的語と、「病める土鳩のように」という直喩である。この二つは倒置法に置かれているので、正置に戻すと次のようになる。

 (A) 冬には冬の時間があって

 (B) 病める土鳩のように

 (C) ひとときの余白を

 このように並べ変えると、最後に欠けている動詞は「過ごす」か「送る」だろうと推察できる。つまりこの歌は、通常の日本語の統辞法を意図的に解体して作られたものである。頭から読む人は、あるべきものがない区切りで躓き、崖から落ちそうになり、迷路を辿るように進むことを余儀なくされる。なぜわざわざそんなことをするのか。それは統辞法を意図的に脱臼させることで、日常言語を詩的言語へと押し上げて、ポエジーを発生させるためである。そして作者はこの点について極めて意図的で計画的なのだ。

椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって

どこかとても遠い場所から来たような顔を思った夏のグラスに

文字のない手紙のような天窓をずっと見ている午後の図書館

呼びあってようやく会えた海と椅子みたいに向かいあってみたくて

僕たちの寿命を超えて射すひかりの中で調弦されてリュートは

 歌集冒頭あたりから引いた。一首目は巻頭歌である。見てわかるように、どの歌も日本語の統辞法を攪乱するように作られている。特に目立つのは助詞の「て」と「は」で終わる言いさし感である。

 「言いさし感」と書いてたった今頭に浮かんだのが平井弘だ。

少年のごとしと今朝の頬を言う欺くことに誰も馴れてきて

困らせる側に目立たずいることを好みき誰も味方でもなく

あの夏はまだ友なりし若い母に仔犬のように児が抱かれて

でも今はだめためらわずその膝を汚せる傷を負いうるなどと

 笹川の歌の言いさし感はどこか平井弘のそれに似ている。ひょっとしたら影響を受けているのかもしれない。

 平井の短歌も笹川の短歌もゆるやかな定型感覚を持つ口語短歌なのだが、その言語が現在の若手歌人に広く見られる会話体口語とは異なることに留意しておきたい。会話体口語は現実にそのように話す人がいてもおかしくない言語だが、平井や笹川の口語はそんな風に話す人はいない詩的に構築された口語である。この差はとても大きい。

 笹川の作品世界にもう少し入り込んで見てみよう。

飼い慣らすほかなく言葉は胸に棲む水鳥(水の夢ばかり見る)

手のひらを窪ませるならそれはみなみずうみそして告げない尺度

あなたがせかい、せかいって言う冬の端 二円切手の雪うさぎ貼る

ソ、レ、ラ、ミと弦をはじいてああいずれ死ぬのであればちゃんと生きたい

こころが言葉を、言葉がこころを(わからない)楽器のにおいがする春の雨

 作者の心の中に住んでいると思われるアイテムは、上に引いた歌にほぼ登場している。外形的特徴から見ると、パーレン、一字空け、読点の使用によって、平板になりがちな歌の内部に段差や位相の差を生み出して重層化を図っている。これは現代の歌人がよく使う手法であり、珍しいことではない。笹川の個性は、一首の歌をまるで完結しない一行詩のように作っているところにある。一首一首の歌がまるでショートショートのようだ。蛇足ながらショートショートとは、ものすごく短くて不思議な味わいを後に残す物語のジャンルをさす。また笹川の歌では多くの場合、5Wと1Hがなく、論理的な連関が意図的に解体されている。また短歌の中で作中主体として歌のリアリティーを支える〈私〉も不在だということも、特筆すべき特徴だろう。

 意味に踏み込むと、作者の心を捉えているのは「言葉」と「死の想念」である。上に引いた一首目と五首目にあるように、作者にとって言葉とは飼い慣らすほかないものであり、また心が言葉を呼んでいるのか、はたまた言葉が心を生んでいるのかも判然としない。このように「こころ」(=想念、意味)と「ことば」(=表現媒体)の間を浮遊することによって、明滅する心象と言葉とがない交ぜになって生まれている。

 四首目の「ソ、レ、ラ、ミ」はギターの開放弦の音程である。ミの弦は2本あるので、まだ弾かれていないのは「シ」(=死)であり、これは死への想念を詠んだ歌なのだ。集中には「食事という日々の祭りの只中に墓石のように高野豆腐は」「自分から死ぬこともある生きものの一員として履く朝の靴」という歌もあり、死への想いが作者の心を捉えていることがわかる。光があれが影があるように、生があれば死があるのは必定である。古人はそれを「われアルカディアにもあり」と言った。

平行に並んで歩けば舫われた舟のよう はるか鉄琴の音

逝く夏に画集ばかりを見るひとの眼差しはどこか伝令に似て

感情をひとつ放ればきらめいて住むことのない街のトルソー

半音階で鳴く鳥のためしばらくはみんな黙っている夜明け前

遠い国に桜ひととき降りしきるまぼろしの為に飲むズブロッカ

指差せば遠ざかるのが夏であると知っていながらゆくモロー展

きっと覚えておけると思うアラベスクいつか壊れてゆく体ごと

 歌集の残りの部分から心に残った歌を引いた。音楽は低くどこかに響いているようだ。六首目のモロー展は、昨年アベノハルカス美術館などで開催されたギュスターヴ・モロー展だろうか。

 笹川は所属する「短歌人」会が開催する高瀬賞を昨年受賞しているのだが、不思議なことに受賞作「とある帰省」は本歌集に収録されていない。受賞作が発表された『短歌人』2020年7月号を見ると次のような歌である。

手になじむ歌集とともに帰りつく「過ぐれ諫早」と詠まれた町に

久々の実家は猫に以前より長く説教する父がいる

過去の自分も一緒に歩いているような気がしてカステラは二つ買う

パルファンという唯一あった映画館が潰れて子ども食道だった

水害の被害写真をよく見ると今より建物の多い町

 『水の聖歌隊』に収録された歌とは驚くほどちがう近代短歌で、ここには5WとH1があり、しっかり〈私〉がいる。笹川はこういう歌も作れるのである。なるほどこれはテイストが違いすぎて、『水の聖歌隊』には収録できないだろう。すると「とある帰省」はこの先ずっと未収録歌として残されるのかと、人ごとながら少し心配になる。

 最期に笹川の作歌をよく示していると思われる歌を挙げておこう。

知恵の輪を解いているその指先に生まれては消えてゆく即興詩

 笹川にとってポエジーを生み出す言葉の組み合わせは、まるで知恵の輪のようなもので、指先の遊びの中からあえかな一行詩が明滅するように生まれて来るのだろう。