第300回 橘夏生『セルロイドの夜』

雑沓を怖るる象よゆらゆらと影のみてる夏のサーカス

橘夏生『セルロイドの夜』

 歌に詠まれている象は曲馬団で飼われていて、集まった観客の前で芸をする象だろう。しかし雑踏を怖れるようでは、大勢の観客の前に出ることはできない。しかたなくバックヤードの檻の中でひっそりと飼われている。忍び込んだ子供が象を見つけて驚くこともあったかもしれない。しかしそれもこれもはるか昔のこと。曲馬団はいつしか消滅し、檻の中の象もとうに死んでいる。昔、曲馬団が町にやって来てテントを張った空き地には夏草が生い茂り、照りつける陽射しに草いきれがする。そこに陽炎のようにゆらゆらと立ち上がるのは昔の曲馬団の幻影である。

 久々に異色の歌集を読んだ心地がする。橘夏生の『セルロイドの夜』(2020年、六花書林)である。橘夏生なつおは新しい筆名で、旧名は山中晴代という。短歌人会所属の歌人で、本歌集は第一歌集『天然の美』(1992年)、第二歌集『大阪ジュリエット』(2016年)に続く第三歌集である。巻末に長いあとがきと経歴が添えられている。それによると、アングラ劇団天上桟敷の女優になるべく上京するもオーディションに落ち、寺山修司に短歌を進められて作歌を始める。塚本邦雄を紹介されて師事することになり、『サンデー毎日』の塚本選に何度も入賞。のちに『小説JUNE』で藤原月彦(龍一郎)が連載していた黄昏詩歌館入門にも俳句を投稿する。玲瓏ではなく短歌人会に入会したため、塚本から破門されるとある(本当だろうか)。短歌のビッグネームが続々登場する経歴に驚く。「言葉は綺羅、言葉は鴉片、言葉は美貌のリビングデッド。現実など日常など、想像力の前には、卑しい下僕に過ぎない」という藤原龍一郎の帯文は、塚本ばりの唯美主義宣言である。小口が金の装幀も目を引く。

 本歌集は著者が長年詠み続けて来た「デカダンスとイノセント」の集大成だとあとがきにある。その言葉に寄せるようにして読後の印象を述べれば「猥雑にして高雅」となろうか。しかし何といっても本歌集を繙く人がまず驚くのは固有名詞の奔流である。固有名詞詠みの達人である藤原龍一郎でさえここまでの量ではない。

イミテーションぢやなきや愛せない まぼろしの東京の歌姫戸川純

サリエリがわからぬと云ふ萩尾望都 百合はみづからの重みにかたむく

苦艾酒アプサン片手にアントナン・アルトーは問ひかける「あなたはあなたの関係者ですか」

シュザンヌ・ヴァランドンのことおもふたびなまなまとわが目にひらく変化朝顔

蔵書印のしゆの懐かしもアスタルテ書房に遇へる『月下の一群』

数学者チャールズ・ドジソン撮りたるは死のにほひする少女の和毛にこげ゛

回転ドアのむかうがはには永遠に辿りつけざりノーマ・ジーンは

 一首目の戸川純はロック歌手。ボヤ騒ぎ起こしてからとんと見かけない。二首目のサリエリは映画『アマデウス』でモーツアルトへの嫉妬に狂う人物として描かれていた同時代の音楽家。萩尾望都はいうまでもなく『ポーの一族』の漫画家である。三首目のアルトーはフランスの小説家・演劇人。四首目のヴァランドンはユトリロの母親で、独学で当時珍しかった女性画家になった人。五首目のアスタルテ書房はかつて京都の三条にあった幻想文学の古書店。この店を開いたのはジョルジュ・バタイユなどの翻訳で知られた生田耕作である。私は大学一年の時、フランス語の初級文法を生田耕作に習った。『月下の一群』は堀口大学の訳詩集。六首目のチャールズ・ドジソンは『不思議の国のアリス』の作者ルイス・キャロルの本名。七首目のノーマ・ジーンはマリリン・モンローの本名である。もっと珍しい名前もある。

舞台ここで死ねいま蘇生して明日も死ねわがパフォーマー首くくり栲象たくざう

落ちし椿のあとを辿りて甲斐庄楠音かひのしやうただおと展へゆく弥生かな

〈水無月〉と書かれし箱より人形の天野可淡の少女取り出す

 首くくり栲象とは、長年自宅の前の庭で首を括るパフォーマンスを続けた人だそうだ。甲斐庄楠音は日本画家で、土田麦僊に「汚い絵」と酷評され、その後映画美術に転じた人。天野可淡は耽美的な球体関節人形を作った人形作家である。

 このように奔流のように固有名詞を詠み込んだ歌は、叙景歌や叙情歌といった従来の歌の分類には収まりにくい。強いて言うならば、何かに想いを寄せた歌ということになろうか。ということは作者の胸中には様々な想いが湧いているということで、短歌はその想いを表現する手段ということになる。

 天井桟敷の女優をめざしていたからなのか、その手つきはどこか演劇的であり、「露悪というこころのうごき 曼珠沙華くきまつすぐに花を支へて」という歌にもあるように露悪的でもある。

ごみ溜めの隅にいちりんのすみれ咲きそれはマチェクとわたしのお墓

マラー最期の浴槽とおもひ溶かすかな淡紅のざくろ温泉の素

 マチェクはアンジェイ・ワイダ監督の名作『灰とダイアモンド』の主人公で、マラーは浴槽で暗殺されたフランス革命の大立て者。自らをマチェクやマラーになぞらえているところが演劇的である。作者はこのように非業の死を遂げた人物に共感するところがあるようだ。

 作者はイタリアを旅しても上海を訪れても、目に映った景物よりも土地の霊に促されるように過去の人物に想いを馳せるのである。

ゆつくりと闇おしわける白き馬チェザーレ・ボルジアその死の前夜

メディチ家はいまガリレオの頭上過ぐ新星といふつひのかがやき

金子光晴上海ゆ巴里にわたる船いまし虹の輪くぐりてゆかむ

故宮にてロイド眼鏡は涼やかに愛新覚羅溥儀と名乗りつ

 そんな作者もたまさか現実に目を向けて、次のような歌を詠むこともある。

国家として節会せちえごとに唱ふなら『海ゆかば』こそ斉唱すべし

鶴彬の碑をたづねあぐねたり大阪城公園は濃き樹の匂ひ

すべての電波が途絶える夜にまぼろしの業平橋駅のホームが灯る

無人なる座席に坐るひかりあり三陸鉄道復活のまへ

給付金はユニセフにとふつまに目を瞠る受胎告知のマリアのやうに

 三首目は東京電力福島第一原発が苛酷事故を起こし、計画停電により首都を暗闇が支配した折りの歌である。業平橋駅という歌枕を思わせる優雅な駅名が東京スカイツリー駅という味気ない駅名に改名されたことに作者は憤り、幻視によって旧業平橋駅を浮上させているのである。五首目は2020年に新型コロナウィルスが流行した時に、政府が全国民に支給した一人10万円の給付金を詠んだ歌。

 このように才気溢れる歌が並ぶが、それを外連味と感じて嫌う人もいるかもしれない。私はたいへん面白く読んだ。作者の生年は不明だが、たぶん藤原龍一郎や私と同年代か少し下と推測される。若い頃に吸収したカルチャーがほぼ同じなので、同時代的共感と郷愁を感じつつ読んだ。

白魚を食めばかなしき咽喉のみどかな襟たかくしてみ冬を歩む

はつなつは氷砂糖の燦めきにりりたる四肢の少女たしむ

桐の花サドルにはらり散りかかりここ過ぎてゆくむらさきの神

下京区天使突抜てんしつきぬけ 雪晴れのさんぽはクノップフの豹をおともに

れんげはちみつひとり嘗めたり窓ごしにしみこんでゆく夜のけだるさ

バックミラーにゆふべのひかり灯るころ倒されてゐる放置自転車

鶏つぶす伯父のかひなのむらむらと黄砂の春に猛けるを見つ

トルソーに不在の首のかがよひをおもふまで碧き海に出でたり

薔薇園につゆ降りるころ交配の果てのさびしき一輪ひらく

 立ち止まった歌を引いたが、このような歌には外連味も露悪趣味もなく、ただ心に沁みてゆくばかりである。なぜか歌集後半にこのような歌が多く配されている。四首目の天使突抜は、作者のかつての師の塚本邦雄が最も美しいと愛でた町名で、京都市下京区に実在する。クノップフはベルギー象徴派の画家で、この絵はオイディプスに頬を寄せる下半身が豹のスフィンクスを描いたもの。

 この歌集を繙く読者は、猥雑にして高雅な幻視の世界を楽しまれたい。