第304回 本川克幸『羅針盤』

鉢の上にブーゲンビリアの苞落ちぬ思慕燃え残るごときむらさき

本川克幸『羅針盤』

 ブーゲンビリアは華やかな花を咲かせる熱帯性の植物である。その名は『ブーガンヴィル航海記』を著したフランス人探検家ブーガンヴィルにちなむ。色鮮やかな花と思われているものは実は苞葉で、ほんとうの花は中央にある小さな白い部分だという。掲出歌では鉢植のブーゲンビリアの苞葉が時を得てはらりと落ちた情景が描かれている。その苞葉の紫色が遠い人への思慕が燃え残るような色だという。静かな中に秘めた情熱を感じさせる歌だ。「ごとき」を用いた直喩がポイントの歌で、作者は喩に特徴がある人である。

 2017年に砂子屋書房から刊行された『羅針盤』は本川克幸の遺歌集である。本川は2012年に「未来」に入会し作歌を始め、佐伯裕子の選を受けていた。詠草は遠い北海道の地から送られて来たという。それから4年後の2016年に本川は51歳で急逝する。あとがきを書いた夫人によると、砂子屋書房から歌集を上梓するのが夢だったという。その夢は夫人と編纂の労を採った佐伯の手によって死後に叶えられた。

 遺歌集を読むときは少し特別な心持ちになる。若い歌人の第一歌集を読むときは、その清新さの向こう側に、この人の短歌は今後どのように展開してゆくのだろうかという未来への期待がある。しかし遺歌集には当然ながらそれがない。そのことが独特な佇まいを一巻に与えている。もうこの人がこの先歌を詠むことはないという事実が、立ち籠める霧のように一巻を静かに満たすのである。

 しかしながら私が本歌集に惹かれたのには別な理由がある。本川は現職の海上保安官だったのだ。僅かの例外を除いて歌人はふつう職業を持っている。だから本川が職に就いていても不思議はないのだが、海上保安官は珍しい。海上保安官とは、海の上での安全と治安を維持する役目を持つ公務員で、海難救助に携わり密航などを取り締まる海の警察官でもあり、時には武器を所持することもあるという。ばりばりの実務系の職業で、あまり短歌などの文芸には縁がないように思える。しかしながら本歌集を一読すると、本川は繊細な心を持った詩心溢れる人だったことがわかる。

 本川の赴任地は北海道の東端の根室であった。冬期には海が荒れて雪が降りしきる厳しい自然の地である。そんな自然を詠んだ歌がまず目に付く。

東洋の果てなる国の北側の角地のような岬におりぬ

凍りつくポブラも樹氷にならぬ木もしんと静まる朝焼けである

海鳴りにひれ伏しながら眠る夜に回り続けている羅針盤

大時化をしのいだ後の海に飛ぶ鳥よおまえも此処にいたのか

衝撃を受けつつ越ゆる海峡の六メートルの波、けわいしね

まだ冬の風を抱うる港内に浮かび合う白き鳥黒き鳥

 詠まれていのは冬の北の海の厳しさである。しかしながらこのような歌は、漁業関係者など海に携わる仕事をしている人なら詠むこともあるだろう。でも次のような歌はちがう。

ただ青き海原が見ゆせめぎ合う領海線のあちらとこちら

「飛び乗って取り抑えよ」と指示を出すとりもなおさずわれの声音で

本当は誰かが縋っていた筈の救命浮環を拾い上げたり

右腿のケースに銃を差し入れて「彼ら」と呼ばれているそのひとり

〈海に死ぬ〉インドネシアの青年の瞳はこんなに美しいのに

パスポートの凜々しき写真 青年を心肺停止のまま見送りぬ

硝煙の匂は此処に届かねど樟で彫られたるマリア

 一首目、北の海だから領海線の向こう側はロシアである。線を越えた漁船が拿捕されることもあるが、実際に見えるのはただ青い海ばかりである。二首目は緊迫感が漂う歌で、おそらくは日本の領海侵犯をした船を拿捕するために飛び移るように部下に指示をしているのだろう。一歩まちがえば下は冷たい海だ。三首目は波間に漂う救命浮環を拾い挙げた場面。誤って船から外れたものかもしれないが、遭難した船員が縋っていたのかもしれない。その昔、海は「板子一枚下は地獄」と言ったものだ。四首目も緊張感が漂う。領海侵犯した船か、密輸している船か、臨検のために武装しているのである。相手は自分たち海上保安官を「彼ら」と呼んでいる。五首目は海難救助に場面で、助けたインドネシアの青年が努力の甲斐もなく死亡したのである。六首目はその続き。七首目はやや場面がわかりにくいが、相手は密漁船か何かでこちらに向けて発砲しているのだ。木造船の船首には木彫りのマリア像が飾られている。聖母マリアは船乗りの安全を守ってくれると慕われているのである。

 分類からすれば職業詠ということになろうが、その職業が特殊なものであるために、他に類を見ない歌となっている。明治以来の近代短歌には民衆の詩としての性格がある。現在でも全国紙の新聞には歌壇の欄があり、毎週何千通という投稿が送られて来る。短歌を作っているのはごくふつうの市井の人だ。これは世界的に見てもとても珍しいことである。昔は自分の職業を歌にした職業詠はふつうにあったが、近年の歌集にはあまり見られない。どんな暮らしをしている人が詠んだ歌なのか、ちっともわからない歌が多い。そんななかで本歌集は一際異彩を放っていると言えよう。

 任務に就くと海に出て一定の期間家族と離れて暮らすことが多いためなのか、本川が作る歌には遠くにある手の届かないものに思いを馳せるものがよく見られる。

秋の日の言葉を包む封筒に百舌の切手を貼る「飛んでゆけ」

便箋をひらけばわれに届きたるほんの少しの愛に似たもの

再会を願う手紙も書かぬまま心地よくまた夏がすり抜ける

はるかなる手紙に記す空のいろ空のいろはるかなる手紙に

君のいる街が遠くに見えている雪のなか君の街がとおくに

 最後の歌は海上から陸を遠望している歌だが、その他は誰に宛てたものなのか手紙の歌である。機密保持のために携帯電話やメールの使用が制限されているのだろうか、とにかく手紙の歌が多い。そのためか、人との繋がりが古典的と言ってもよいものとなっていて、あらためて短歌にはSNSより手紙がよく似合うと思わされる。

 わずか4年足らずの歌歴なのだが、その歌風に変化がないわけではない。解説を書いた佐伯も触れているが、編年体の歌集後半に差し掛かるあたりから、翳りを帯びた歌が多くなる。

海の上に凱旋門のごとく立つ虹 透明にくずおれてゆく

逃避する水路をすでに持たざれば溢れ続けているわれは壺

言葉さえやがて烟らん弔えば窓から抜けてゆく影ぼうし

船室の浅き眠りに夢を見き死神の髪がまだ濡れている

傍らで黙り続けている君の記憶からわれが消えてしまう日

 本川の心に何が忍び寄ったのか定かではないが、負のベクトルへと心が向かう有り様が歌の向こうに透けて見えるようだ。修辞に少し触れておくと、本川は「~のごとく」という直喩を好んで用いる。上の一首目の「凱旋門のごとく」がそれである。直喩は陳腐な喩のときはマイナス点になりやすいが、凱旋門は合格だろう。海に浮かぶ楼閣のように聳え立つ凱旋門はまるで海市のようにも見える。

 次も直喩の歌である。

切れ目なく防潮堤のめぐる島スメルジャコフの素顔のように

晩夏よりうみのいろ濃しベルリンで貨車に積まれた絵具のように

 一首目のスメルジャコフはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の登場人物で、私生児であるために召使いのように使われている男である。その内実が見えないことの喩として使ったのだろうが、スメルジャコフには驚いた。二首目のおもしろい点は、湖の青色が濃いという描写よりも、喩として出された「ベルリンで貨車に積まれた絵具のように」の方に濃厚な物語性があって、歌の主従が逆転しているところである。短歌における喩の機能について改めて考えられさせる。

 最後に特に心に残った歌を挙げておこう。

地に降りて水へと戻る束の間の白きひかりを「雪」と呼び合う

夕焼けの見える浜辺へ抱えゆくフリューゲルホルンに翼があれば

善と悪が戦い続ける物語読みつつ暮れてゆく半夏生

チェロ弾きの空のケースが床にあり舟のように柩のように

為し遂ぐるべきこと為し遂げられぬこと路肩の雪はゆるらかに消ゆ

消ゆるとき影の残れり沖合で船から眺めたる遠花火

読みさしのミステリー枕辺に置いて待てども夢に来ぬ黒揚羽

 実生活における作者と短歌は切り離して見るべきであるという意見がある。確かにそのとおりだ。短歌は文芸でありテクストがすべてだという人もいる。それも至極もっともな意見だ。しかしながら、そのように割り切ってもどうしても割り切れぬ残余が残るのが短歌というものだ。『羅針盤』は作者の本川克幸がこの世に残した生の記録であり、そのように読まれるべきものであろう。