第305回 門脇篤史『微風域』

くれなゐを久遠に閉ざすかのごとく光をおびてゆくりんごあめ

 門脇篤史『微風域』

 先日、思い立って京都にオープンしたばかりの泥書房に行った。京都流に言うと、新町通六角下るにある京都逓信病院の向かいの狭い路地を入った所にある。路地の入口には看板も標識も出ていないので、知っている人しかたどり着けないという隠れ家的書店である。三軒長屋の一軒を改装して書店にしている。染野太朗さんが店番をしていて、ていねいに応対していただき、楽しいひと時を過ごすことができた。その折りに購入したのが門脇篤史『微風域』(現代短歌社 2019年)である。帰宅して開いてみると、著者サイン本だった。泥書房についてはまた別の機会に詳しく書くつもりである。

 本歌集は「風に舞ふ付箋紙」というタイトルで、2018年の第6回現代短歌社賞を受賞した作品である。ふつうの短歌賞は30首とか50首の短歌を募集しているが、現代短歌社賞のユニークな点は、そのまま歌集として出版することを前提に、300首の提出が求められているという点だ。300首作るのはたいへんなことと思うが、この年は104編の応募があったというからすごい。その中で見事受賞したのが門脇篤史の「風に舞ふ付箋紙」である。次席は笠木拓の「はるかカーテンコールまで」と山階基の「風にあたる」で、この2作はすでに歌集として出版されている。

 『現代短歌』2018年12月号に選考座談会が掲載されていて、これがなかなかおもしろい。選考委員は阿木津英、黒瀬珂瀾、瀬戸夏子、松村正直の4名。「風に舞ふ付箋紙」は選考委員が行なった点数制の投票で最高点を獲得している。阿木津と松村は最高点の10点、黒瀬と瀬戸は6点を入れている。松村曰く、現代の都市に生きる若い男性の、仕事の歌や日常の歌を中心に構成されていて、力のある作者であると、高く評価している。阿木津曰く、31歳にしては内面的に成熟していて、思弁的なところがよい。批評意識もあり、比喩もうまいとこちらも高評価である。おもしろかったのは瀬戸の弁だ。この作品を見たとき、「これで決まりかな、うーん、嫌だな」と感じたという。その理由が×を付けた歌が2首しかなかったというのである。他は○か△しかつかなくて、それが不気味だと続けている。日常を流れるように秀歌にしていくマシンのようで、読んでいて怖くなったという。黒瀬も瀬戸の意見に同意して、レトリックで見ればこの作品が群を抜いているが、その反面驚きがなく、世界を淡々と肯定している所に若さがある。作者の感情に世界をとりこまない潔癖さが若く、青臭いとまで言っている。

 なかなか考えさせられる発言だ。阿木津や松村が「よい歌」と考えるものと、黒瀬や瀬戸が○を付ける歌が少しずれているのである。ほんとうは黒瀬も自分ではレトリックを駆使した歌を作っているので、阿木津・松村軍勢の一員なのだが、短歌賞の選考委員という立場から、受賞作に何を期待するかという観点から発言しているのだろう。阿木津や松村は、短歌定型を基盤とし、レトリックや喩を用いて現実の出来事やそれに喚起された感情をていねいに定着する歌をよい歌としている。一方、瀬戸の目にそれは、何でも掬える柄杓、触れるだけで何でも金に変えてしまうミダス王の手 (英 Midas touch)と映るのだ。瀬戸には従来の短歌定型にたいする深い懐疑がある。それがこのような発言として表面化しているのだろう。一方、黒瀬は作者の力量を十分に認めつつも、新人を世に送り出す短歌賞に期待される新しさや破壊力がない点を残念がっている。しかしこのような選考座談会での委員の発言は、裏を返せば門脇の短歌作者としての力量が極めて安定して高いということを実証しているようなもので、本人にとっては栄誉なことと見なしてよかろう。

 前置きが長くなってしまった。作者の門脇篤史は1986年生まれ。2013年から作歌を始め、短歌投稿サイト「うたの日」に投稿する。2015年に「未来」に入会し、大辻隆弘の選を受ける。2016年に未来賞を受賞している。現代短歌社賞に応募した時は、作歌を始めてから5年しか経っていない。短期間でこのレベルの作歌能力を身に付けるとは驚きだ。作風は師の大辻と同じく端正で細やかな文語定型である。歌集冒頭のあたりからいくつか歌を引いてみよう。

曇天をしんと支ふるビル群の一部となりてけふも生きをり

ひと月を賭して作りし稟議書の分厚き束に孔を穿ちつ

紙袋ばかり増えゆく日常に低温火傷のやうな出会ひを

天上のスピーカーからこぼれ落つ死んだ男のピアノの音が

tempo rubato. 崩ゆる世界の表面を自由自在に雨は鳴らせり

 一首目は作中の〈私〉が生きる日常を詠んだ歌である。〈私〉は勤め人としてビルの中で働いている。聳え立つビル群は、まるで低く垂れ込める曇天を下から支えているようでもある。〈私〉はおほかたの勤め人と同様に、個性を剥奪された日常を生きている。結句の「けふも生きをり」に深い感慨が込められている。二首目、稟議書の作成にひと月を費やしたのである。それを綴じるためにパンチで穴を開けている。そこに〈私〉はいささかの誇りを感じつつも、稟議書がどう扱われるかに不安も抱いているだろう。三首目、買い物が入っていた紙袋なのか、それとも職場の資料を入れて保管する紙袋なのか、いずれにせよ紙袋の増加は徒労のメーターである。〈私〉の生きる日常では、燃え上がるような熱い出会いはもとより望めない。せめて低温火傷のような出会いくらいあってほしいと願う。四首目、場所は喫茶店か蕎麦屋か、BGMが流れている。往年の名曲とは、言い換えれば死んだ男の演奏ということだ。五首目のテンポ・ルバートとはイタリア語で「盗まれた時間(テンポ)」という意味。楽譜に書かれた音符・休符どおりではなく、演奏者が自由に緩急を付けるという指示である。ここでは雨音が速くなったり遅くなったりしている様を表している。集中には音楽用語を用いた歌が散見される。作者の趣味だろうか。雨は一切の制約から自由なのに、〈私〉の生きている日常は「崩ゆる世界」つまり崩れつつある世界なのだ。シオランばりの崩壊感覚と言えよう。全体として激しい感情や熱い理想とは無縁な日常が、細部に目を留めつつていねいに描かれている。

 しかしそんな作者の人生にもドラマがなかったわけではない。

両親の稼ぎで買ひし味噌を溶き火を弱めけり けふがはじまる

民法の問題集を解くことをたとへばけふの生きる意味とす

東京に打ちのめされた経験はたぶん何にもならんのだらう

最終の面接試験の日程を指でなぞりてなぞりてなぞる

暗闇に糖衣のやうに包まれて高速バスのシートを倒す

封筒を逆さにすればあらはるる鍵を差し込み扉を開く

なにもない空間ゆゑに目を閉じるあと五日間無職のわたし

前職の記憶はるけし首都高を二度と走らぬ余生と思ふ

 上に引いた歌からストーリーを読み解くと次のようになる。作者は故郷の島根県から京都の大学に進学し、卒業後おそらく東京の会社に就職したのだろう。しかしその会社に馴染めず間もなく離職する。それが「東京に打ちのめされた経験」である。故郷へ戻り、就職浪人生として両親と暮らす。それが「両親の稼ぎで買ひし味噌」である。民法の問題集を解いているのは公務員試験を受験するためだ。四首目の「最終の面接試験」は前職かそれとも公務員試験かどちらかわからない。交通費を節約するため夜行バスに乗って会場のある町に向かう。宿泊するのはおそらく民泊だろう。部屋の鍵が封筒に入って送られて来る。その部屋は何もないがらんとした空間である。その後、作者は無事公務員試験に合格し、今はどこかの地方都市で勤務している。だいたいこういうことだ。

 大学を卒業して就職した人の約3割が3年以内に離職しているそうだから、入社した会社を辞めるのはそう珍しいことではない。しかしそれはあくまで統計上の話である。本人にとっては生きるか死ぬかの大事件だ。その大事件が比較的淡々と詠まれているので、それが選考委員の黒瀬には「感情に世界を取り込まない潔癖さ」と映ったのだろう。しかし私は読んでいて少し異なる印象を受けた。確かに燃え上がるような激情や世界に対する鋭い呪詛はなく、いずれも端正な言葉の中に落とし込まれてはいるが、言葉の背後に燠火のようにくすぶる感情がちらちらとほの見える。それが「けふがはじまる」や「なぞりてなぞりてなぞる」や「首都高を二度と走らぬ」という語句にはつかに感じられるのである。

先月に辞めた同期の消しゴムを遺品のやうにまだ持つてゐる

いつからか蛍光灯は間引かれて我らを淡くあはく照らせり

わたくしをぢつと薄めてゆく日々に眼鏡についた指紋を拭ふ

権力の小指あたりに我はゐてひねもす朱肉の朱に汚れをり

地方自治法のあはひに溜まる解釈に溺れぬやうに夜を進みつ

 地方公務員として働く作者の職場詠を中心に引いた。同期入庁からすでに退職者がいるという現実。節電のために間引かれた天上の蛍光灯は薄い光しか発しない。それはまるで天国から差す救いの光も薄くなるように感じられる。日々のルーティーンワークで自分の個性がひたすら薄められてゆくように感じる。〈私〉のいる場所は権力の小指あたり、つまりは末端で、仕事と言えば書類に印鑑を押して次に回すことである。つづめて言えば「平凡な日常に耐える〈私〉」像ということになる。しかし誰にとっても現代の日常とは多かれ少なかれここに描かれているようなものではないだろうか。女優を恋人にして宇宙飛行士を目指す人のように、毎日を面白おかしく暮らしている人が世の中にそうそういるとは思えない。

原形をたもち続けて雑踏にマーブルチョコのひとつぶはあり

反故を裂き密かに作るメモ用紙きりえきりえと音を立てつつ

青ねぎは屈葬されて真つ暗な野菜室にて冷たくなれり

蟹缶を自分のために開けてゐる海がこぼれぬやうにそおつと

押しピンを抜きたるのちに穴ひとつ消ゆることなき穴ひとつ見ゆ

 観察と措辞が冴える歌を引いた。一首目、繁華街か地下街の人通りの多い道路に、なつかしい明治製菓のマーブルチョコがひと粒落ちている。マーブルチョコは様々な色の糖衣にくるまれている。まずその鮮やかな色が目に飛び込む。ふつうなら行き交う人の靴に踏まれて潰れてしまうのだが、なぜか奇跡的に原形を留めている。そこに作者は目を付けた。けなげに原形を保っているマーブルチョコは、世の荒波に揉まれて遭難しそうになる〈私〉の喩とも読める。二首目、役所の書類作りでは大量の反故紙出る。私も教室で学生に配るプリントが必ず余るので、余った分は持ち帰り、鋏で切ってメモ用紙にしている。作者も同じことをしているのだが、この歌のポイントは「きりえきりえ」である。「きりえ」は「切り絵」に通じ、また鋏の音のオノマトペとも取れるのだが、この裏には「キリエ、エレイソン」が隠れている。「主よ、憐れみ給え」というキリスト教の祈りである。私が本歌集を通読して強く感じたのはこの「祈り」である。短歌は祈りに近づくほど人の心の琴線に触れる。門脇の歌には祈りがある。三首目、スーパーで葱を買うと、長すぎて袋に入らないので二つに折ることが多い。冷蔵庫の野菜室に入れるときも同様である。それを「屈葬」と表現した所がこの歌のポイントだ。そこにはもちろん死のイメージが揺曳する。四首目、まず「自分のために」によって、歌の〈私〉が一人暮らしであることがわかる。作者は結婚しているので、たまたま妻が他出した日と取れなくはないが、ここは結婚前の一人暮らしの時期と取りたい。蟹缶は高価なものだ。一人暮らしの男性がふつう開けるものではない。その日に何かあったのだろう。もうひとつのポイントは、缶詰のなかの汁を「海」と表現している点にある。孤独な儀式のようでありながら、海と繋がるところに救いがある。五首目のような押しピンの穴を詠んだ歌が他にないわけではないが、この歌では「穴ひとつ」がリフレインにように反復されていることがリズムと効果を生んでいる。

臨時記号。雨に降らるるけふの日ははつかに移調するごとく濡る

ハムからハムをめくり取るときひんやりと肉の離るる音ぞ聞ゆる

なにもなき日々をつなぎて生きてをり皿の上には皿を重ねて

たましひを抜き取るやうに一本の薄荷煙草をきみから貰ふ

ゆくりなく沈没しさうな軍艦ゆ皿に降りたる魚卵ぞ赤き

生きるため坐るデスクの片隅にインクの切れたペンは立ちをり

ダイソーで買ひし湯呑みの欠けたれば我が悲しみの対価を思ふ

真ん中に穴の空きたるキャンディに傷つきてゆくやはらかき舌

ひえびえと異国のみづに満たされてペットボトルはひかりのうつは

 特に印象に残った歌を引いた。一首目の「臨時記号」は、シャープ(#)やフラット(♭)のように半音の上げ下げを指示する記号のこと。ふつう使う言葉ではないので、門脇は音楽に詳しいのだろう。二首目は選考座談会で阿木津が「思弁的」と褒めた歌。バック入りの薄切りハムを一枚剥ぎ取るという日常的瑣事までが短歌に詠まれるところに、瀬戸の言う「修辞マシン」の本領が発揮されている。しかしここでも「めくり取る」という言葉の選択の確かさに注目したい。また五首目のように対象を名指しすることなく詠む技量も抜群である。これは回転寿司店でイクラの軍艦巻きからイクラがこぼれた様を詠んだもの。軍艦巻きを本物の軍艦に見立てた上句から下句への運びが手練れである。

 歌集題名の『微風域』もよく考えられて付けられている。歌の〈私〉のいる場所は暴風が吹き荒れるほどの所ではない。吹いているのは微風なのだが、そこに生きる青年が日々感じる真綿で首を絞められるやうな閉塞感や焦燥が歌集全体に通底するテーマだろう。楠誓英、阿木津英、内藤明が文を寄せた栞はあるものの、あとがきがない。作者渾身の第一歌集を世に問うのならば、志を述べたあとがきはあってもよかったのではなかろうか。充実の第一歌集である。