第303回 工藤玲音『水中で口笛』

燃えている色の紅葉を踏むときの燃え尽きた音 駅まで歩く

工藤玲音『水中で口笛』 

 あの工藤玲音の第一歌集が出た。今からちょうど1週間前の2021年4月12日付けで左右社刊。左右社は最近よく歌集を出していて、近江瞬『飛び散れ、水たち』、谷川由里子『SOUR MASH』、永井祐『広い世界と2や8や7』など続々と出ている。

 今さら著者紹介する必要もないだろうが、工藤玲音は1994年生まれの俳人で歌人。石川啄木と同じ渋民村で育ったという。玲音れいんは本名で、本歌集には「父親がわたしにペンネームのような名前をつけた霧雨の朝」という歌がある。俳句結社「樹氷」に所属して俳句を作り始める。2011年に16歳で岩手日報随筆賞を受賞して注目される。スタートはエッセイだったわけだ。今でもエッセイが得意で、『うたうおばけ』(2020年、書肆侃侃房)は丸ごと一冊エッセイである。同年盛岡短歌甲子園で団体優勝しているので、俳句と平行して短歌も作っていたのだろう。東北大学に入学して短歌会に所属する。句文集『わたしを空腹にしないほうがいい』(2018年、BOOKNERD)刊行。大学卒業後は郷里に戻って会社員をしているようだ。雑誌の「ソトコト」2019年1月号や、「ねむらない樹」5号(2020年)で工藤の特集が組まれている。結社「コスモス」に所属し、一時同人誌「Cocoon」に参加していたが、今は名前が消えているので辞めたらしい。

 『水中で口笛』のあとがきが愉快だ。歌集は満を持してゆっくり出そうと思っていたが、はっと気づくと自分は石川啄木が死んだ年齢に近づいている。これはいかんと啄木の命日までには出版しようと急いだという。啄木と短歌で張り合おうとしたというから威勢がよい。本書は石川一に捧げられている。啄木の本名である。本歌集には高校生のときから作り貯めてきた短歌が収録されているので相当な数がある。帯文は小島ゆかりとミュージシャンの柴田聡子。

 『わたしを空腹にしないほうがいい』の評に、工藤の強みは何物をも蹴散らしてしまう若さであると書いた。俳句は五・七・五と短く、景物をスパッと一瞬で切り取る鮮やかさが求められるため、踏ん切りのよい若さは大きな武器となる。それは「ねむらない樹」5号所収の近作にも現れている。特に三句目がいかにも工藤らしい。

洗顔のたび濡れなおす夏の嘘

文具屋に海を知らないサングラス

淋しさを背泳ぎならば追い抜ける

なりたくてたりなくて来る夏の丘

 しかし、五・七・五の後に七・七と14音を付け足すだけで事情はがらりと変わる。スパッと切るだけではその14音は埋まらない。様々なものを納めることができるが、中でも短歌らしいのは内省だろう。五・七・五で外の景物を捉えた視線が、七・七で反転して内側を向く。近代短歌が「自我の詩」として佇立することができたのは、この視線の反転によるところが大きい。

 さて工藤の短歌はどうだろうか。いつもとは逆に付箋の付いた歌から引いてみよう。

見開きのわたしで会いにゆくからね九月の風はめくれ上がって

雪の上に雪がまた降る 東北といふ一枚のおほきな葉書

花束のように抱きとめられたいよ 髪留めの上で溶ける淡雪

燃やされた手紙の文字は何処へいくの ごみ収集車はみんな空色

くちづけはいつ来てもよしきらきらと研げばひかりに満ちる生米

たましいが果実であればこのくらいグレープフルーツ迷ってかごへ

生きるとは湯気立てること深くふかく菜箸を鍋底に突き立て

観覧車まるく晩夏を切り取ってちがう戦場抱えたふたり

 書き写していて気が付いたが、工藤はどうやら五・七・五で想いを述べて、七・七で情景を付けるのが得意らしい。一首目、「見開きのわたし」とは、雑誌を見開きにするように両手を拡げることの喩だろう。会いに行くのはもちろん恋人である。「九月の風はめくれ上がって」はちょっと変で、九月の風で雑誌のページがめくれ上がるのが正しいだろう。若さの充溢する歌だ。二首目は上の七・七が情景で、句跨がりを含む残りが想いとなっている。自分が暮らす東北地方を葉書に喩える喩がおもしろい。真っ白な葉書に自分が何かを書いて届けたいということか。この歌だけ旧仮名である。三首目も恋の歌。上句が想いで下句が情景で、四句は八音の破調になっている。「上」を「へ」と読めば七音だが、工藤はたぶんそうは読まないだろう。四首目はちょっとメルヘン調の歌。三句目を「何処へ行く」とすれば定型だが、「の」を付けることで呼びかけとなる。五首目の「くちづけはいつ来てもよし」もなかなか潔い。三句以下が情景となっていて、食べ物ネタが多い工藤らしい歌になっている。「生米」はちょっと生硬か。六首目もおもしろい歌だ。スーパーマーケットで買い物をしている。グレープフルーツを買おうかやめようかと迷っているのだが、そう言えば魂の大きさはこれくらいかという考えがふと浮かぶ。七首目、「生きるとは湯気を立てることだ」というのはすごい独断だが、確かに私たちは食事の準備やお茶を淹れるのに毎日のように湯を沸かす。シャワーを浴びる時にも湯気は出る。その向こうに頭から湯気が出るほど怒っている場面も見え隠れする。八首目の観覧車は歌人の好む主題である。私は観覧車の歌を見つけると書き留めているが、ずいぶんな分量になる。上句の「観覧車まるく晩夏を切り取って」が情景で、観覧車を遠くから見る絵になる。下句では一転して観覧車のゴンドラの中に視線が飛び、乗っている二人に焦点が結ばれる。ちがう戦場を抱えているとは、分野は異なれ同じように毎日奮闘している若い二人ということだろう。

 上に引いたような歌は、従来の近代短歌のコードできちんと読むことができる。そしてよく考えられて作られたよい歌だと思う。しかしこれが工藤玲音らしい歌かというと、それはいささか疑問なのである。一巻を通読して私は上に引いたような歌よりも、次のような歌に工藤らしさを感じてしまう。

将来は強い恐竜になりたいそしてかわいい化石になりたい

まっさきに夏野原きて投げキッスの飛距離を伸ばす練習をする

缶詰はこわい 煮付けになろうともひたむきに群れつづけるイワシ

死はずっと遠くわたしはマヨネーズが星形に出る国に生まれた

青春にへんな音する砂利がありその砂利を踏むわざと、いつでも

啄木を殴りたい日のもろもろと手許に零れる紅茶マフィンは

苛立った友がわたしを批判するお昼の海苔が付いたくちびる

自転車のハンドルすこし湿っている五月最初の早退日和

 一首目、将来は恐竜になりたいとはどういうこと? 恐竜は何千年も前に絶滅した生物である。恐竜には過去しかなくて将来はない。続けて化石になりたいときては卒倒しそうになる。二首目、東北地方の夏は短い。短い夏に野原に来て、投げキッスの練習をするというところに圧倒的な若さがある。三首目もお得意の食べ物ネタで、犇めいて缶詰に詰められているのはたぶんオイルサーディンだろう。つぶつぶや小魚などの密集を怖れるのにはトライポフォビア(集合体恐怖症)という名前が付いているそうだ。四首目、若い人にとって死は遠くに霞んで見えない。また確かにマヨネーズが星形に出る国は日本くらいのものだろう。日本はなくてもよい気配りに溢れた国である。関係のないこのふたつを繋げたところがおもしろい。五首目、変な音がする砂利とはできれば避けて通りたい事態の喩だろう。避けようと思っているのに踏み込んでしまうことは誰にもある。工藤なら特にありそうだ。六首目、「啄木を殴りたい日」は乱暴だが、この辺がいかにも工藤らしいのである。七首目、自分を批判する友人の唇に弁当の海苔がこびり付いているという些末事が短歌らしい。八首目は学校に行きたくないという青春の憂愁を、少し湿った自転車のハンドルで表していて秀逸。

 最初に引いた付箋の付いた歌とどこがちがうか。付箋の付いた歌では、「想い」と「情景」とが五・七・五と七・七に振り分けられていて、外を向く視線と内を向く視線の両方があるために、一首の中に屈折と奥行きがある。そういう意味では「お行儀のよい歌」である。これにたいして次に引いた歌は「想い」の分量が増えて、歌によってはそれだけで押し切ろうとしているものもある。だからこそパワーがあって、青春の熱量を感じ取ることができる。上に書いたような意味ではお行儀がよくない歌なのだが、誰が工藤にお行儀の良さを求めるだろうか。もちろんこれは実生活における行儀のことではなく、創作における話である。という訳なので、工藤には変にお行儀よくならず自分の道を貫いてほしいと願うのは、言うまでもなく老婆心にすぎない。

たわむれに月の磁石をつけられて大きな梨を抱く冷蔵庫

とっておきの夏がわたしを通過する鎖骨にすこしだけ溜めておく

葉桜の葉言葉は「待つ」三つ折りのメニューをお祈りみたいに閉じて

雨上がり父がわたしに投げ上げるひかりまみれの鍵の凹凸

Eternal loveと訳され庭園の看板さびている花言葉

日没に間に合うために駆けるとき滅びたがっているわたしたち

 その他に心に残った歌を引いた。三首目の「葉言葉」は工藤の造語だろう。喫茶店かファミレスの椅子に座って恋人を待っているのだ。五首目と六首目は珍しく翳りを帯びた歌である。

 「ねむらない樹」5号に工藤を知る人がその人となりを綴った文章が集められている。その中に千種創一が𠮷田恭大と連れだって仙台に行き、東北大学短歌会の面々と会った思い出を書いたものがある。工藤は「エネルギーに溢れる人物」だったという。そうだろう。それは俳句やエッセーを読めばわかる。『水中で口笛』もまたそんな工藤のエネルギーを感じることのできる歌集となっている。