きみにしずむきれいな臓器を思うとき街をつややかな鞄ゆきかう
平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』
上句の発想がユニークな歌だ。ふつうは体の中に臓器があると捉える。この歌では「きみ」と呼びかけられるおそらく異性の人体に臓器が沈んでいると捉えている。「沈む」と言うと、まるで人体が容器か湖のようだ。下句では一転して町の風景が描かれているが、町を行き交うのは人ではなく鞄である。それは上句で人体ではなく臓器に焦点が当たっていることと呼応している。臓器のぬらぬらする照りと鞄の艶やかな表面とが、人体の内と外との照応として描かれていておもしろい。
平岡直子は1984年生まれ。早稲田短歌会を経て、同人誌「率」「町」に参加し、現在は「外出」同人。2012年に「光と、ひかりの届く先」で第23回歌壇賞を受賞して注目される。この年の応募者の中には、服部真里子、佐佐木頼綱、𠮷田恭大、笠木拓、春野りりんなど、後に名を上げる歌人がいるのだが、このような面々を押さえての受賞である。選考委員の東直子と今野寿美が二重丸を付け、内藤明と道浦母都子は一重丸で、伊藤一彦は無印となっている。選考座談会でいちばん強く平岡を押したのは東である。曰く、「自分が見ている世界から、丁寧に探っていって、見えないものも言葉で探ろうとしている」、「一首一首の中で『生きる』ということをうたおうとしていて、その生きることの中に死が含まれている」、「この人は言葉から作っていく作者代表みたいな作り方ですが、その中でも現実感とかリアルさを手放していない」。さすがは東で、平岡の短歌の本質をずばり突いていて、あまり付け加えることがないほどだ。
『みじか髪も長い髪も炎』は歌壇賞受賞作を含む第一歌集で、今年(2021年)4月に本阿弥書店から刊行された。栞文は水原紫苑、正岡豊、馬場めぐみ。装丁は名久井直子。ポップな色の多角形と紐模様が組み合わされた瀟洒なデザインである。水原の栞文は熱い。本歌集の出版は「ひとつの事件」であるとして、平岡の歌には「儚く純粋な他者への希求」と「灼けつくような孤独な魂の呼びかけ」があり、平岡は「歌に呼ばれた狂おしい魂」だと断じている。このような最大級の賛辞とともに世に出る歌人はそうはいない。山田航は『桜前線開架宣言』の中で、平岡は論じることが難しい歌人だとして、弱者が最後の砦として言語表現を選んだというタイプの歌人とはちがうと述べている。言葉によって「生きる」ことに活路を見出そうとしたのではなく、「生きる」ことにすら不器用なのだとしている。確かに平岡は輪郭を捉えにくい歌人のようだ。それはなぜだろうか。
動物を食べたい きみのドーナツの油が眼鏡にこすれて曇る
遊びおわったおもちゃで遊ぶ冬と夜 きみに触れずに雨がとおった
ああきみは誰も死なない海にきて寿命を決めてから逢いにきて
王国は滅びたあとがきれいだねきみの衣服を脱がせてこする
裸眼のきみが意地悪そうな顔をしてちぎるレタスにひかる滴よ
歌集の最初のほうから引いた。一首ごとの鑑賞と解釈は、平岡の歌の場合、あまり役に立たない。むしろ有害であるとさえ感じる。その理由のひとつは、短歌に描かれた情景が何かの現実の場面を指しているとか、実生活の体験に基づいているということがないからである。上に引いた歌にはすべて「きみ」が含まれているが、この「きみ」は特定の人物ではなく、平岡が歌を差し出す相手を指す無人称的な「きみ」だろう。同じように歌に散りばめられた「ドーナツ」「おもちゃ」「レタス」などのアイテムも、何かの喩として用いられているのではない。平岡の短歌で使われている言葉は、短歌的な喩としての機能をあらかじめ封じられているように見える。
では平岡の歌の言葉は何に奉仕しているか。それは平たく言えばある「感じ」を表現するためではないだろうか。「感じ」とは、作者が実生活の生きづらさを覚えたり、死の予感に怯えたり、他者との関係性において遠さや軋みに苦しむとき、心に去来する光や影のゆらめきである。それはもう少し抽象度の高い思惟の領域で明滅する何かのこともあるだろう。上に引いた歌でそれは、日常のささいな場面で感じる不全感や喪失感や死の予感や他者への希求だと思われる。本歌集のあとがきに平岡は、「歌を生きる頼りにしたことはないけれど、歌に救われた経験がないといえば嘘になる」、「歌集として差し出せるのも自分のみている幻覚ばかりである」と書いている。「幻覚」とは平岡独特の表現で、日常の場面に必ずしも対応しない、心に明滅する表象ということだろう。もしそうであるならば、平岡の短歌を読むときは、無理に意味の脈絡を探したり、「このレタスは何を表しているのだろう」などと詮索せずに、言葉の流れに身をゆだねて、言葉が心をこする度ごとにスパークする光を感受すればよいということになる。こういう短歌の読み方はかんたんそうに見えるが、慣れていない人には案外難しい。
詩や絵画では、形に表すことのできない感情や観念を具象を用いて表現する技法を象徴主義(サンボリスム)と呼ぶ。詩のボードレール、絵画のギュスターヴ・モローやオディロン・ルドンなどがそれにあたる。平岡の短歌も言葉を組み合わせ連接することで、直接的に表現できないある「感じ」を表現しようとしているとするならば、それは一種の象徴主義と見なすこともできる。そう考えると、水原紫苑があれほど平岡の短歌を高く評価し、「ひとつの事件」とまで呼んでいることも理解できる。水原もまた対応する現実を持つ写実によらず、言葉によってひとつの美の世界を現出させようとしている歌人だからである。
花の奥にさらに花在りわたくしの奥にわれ無く白犬棲むを
水原紫苑『あかるたへ』
巻貝のしづけく歩む森に入りただひとりなる合唱をせり
『さくらさねさし』
回廊のごとくにをのこ並びゐる水底ゆかむ死の領布もちて
平岡の歌をもう少し見てみよう。
震えてきれいなきれいなきれいな虫の羽きれぎれにこの世界
きみの骨が埋まったからだを抱きよせているとき頭上に秒針のおと
きみが思うわたしの顔を思うときそこにぽっかりあく空洞の
手をつなげば一羽の鳥になることも知らずに冬の散歩だなんて
飛車と飛車だけで戦いたいきみと風に吹かれるみじかい滑走路
一首目では三回繰り返される「きれいな」が感情の強度を示している。歌の言葉が指し示しているものを敢えて言葉で表せば、それは「崩れゆくもの」への哀惜だろう。二首目はもう少しわかりやすくて「命の有限性」の悲しみだ。三首目は君が思っている私の顔を私が思うという捻れがすでに関係性の複雑さを感じさせる。一首が立ち上げる「感じ」は〈私〉という存在の希薄さだろう。四首目、歩く二人が手をつなぐと二つの体が大きな二枚の羽のようになる。比翼連理の喩えである。表されているのは関係性への希求とその不全である。五首目の「飛車と飛車だけで戦いたい」も感情の激しさを表している。歩や香車には見向きもせずに、最強の駒である飛車だけで勝負したいというのである。ここにも激しい関係性への希求があるが、「みじかい滑走路」が表しているように、その気持ちは空へと離陸することができないのである。
夢の廃墟が見ている夢に響かせるように額へきみのてのひら
夜と窓は強くつながるその先にひとりぼっちの戦艦がある
この朝にきみとしずかに振り払うやりきれないね雪のおとだね
魂に沿わないからだの輪郭をよろこびとしてコーンフレーク
ひかりふるあめふるおちばふる秋のあわいできみはのどをふるわせて
そしていつかきみを剥がれおちるものたち内臓を抱きしめる骨
冬には冬の会い方がありみずうみを心臓とする県のいくつか
燃えあがる 床を拭くとき照らされる心に地獄絵図はひらいて
特に印象に残った歌を引いた。平岡の短歌には「夢」と「魂」という語がよく登場する。それは平岡が目に見える現実(と私たちが見なしているもの)に飽き足らず、現実を超えるもの、不可視の領域に心を引かれているからだろう。東が選考座談会で「目に見えないものを探っている」と評したのは当を得た見方だ。短歌史で目には見えないものを追究した前例を探すと、まず頭に思い浮かぶのは幻視の女王と呼ばれた葛原妙子だろう。不可視の領域への親和性という点において、平岡は2000年代のリア系若手歌人と一線を画していると言えるだろう。
集中で私が最も美しい実現と感じたのは次の歌である。
きみの指を離れた鳥がみずうみを開いていけば一枚の紙
「きみの指を離れた鳥」とは、指に留まっていた小鳥が飛び立ったともとれるが、ここでは君が折った折り紙と取りたい。折り紙の小鳥が飛び立って湖を開くというのは幻想の世界である。鳥が飛び立つことよって、眼前に森の中の湖が現出するのである。しかしやがて飛翔を終えた鳥は元の一枚の紙に戻る。現実と幻影とが一首のなかに混在し、ふたつの世界が「いけば」という接続表現によって折り合わされている美しい歌である。