第315回 立花開『ひかりを渡る舟』

傘のまるみにクジラの歌は反響す海へとつづく受け骨の先

立花開『ひかりを渡る舟』

 この歌集を読んでいくつか新しい単語を覚えた。「受け骨」もそのひとつである。「受け骨」とは、傘の布やビニールを支えているホネのことだという。『広辞苑』には立項されていないので、おそらく業界用語なのだろう。

 掲出歌は初句七音である。TV番組「プレバト」の毒舌先生こと夏井いつきも言っているように、増音破調は初句に置くのがいちばん無理がない。傘の丸みからドームやパラボラアンテナへと連想が飛ぶ。そこに反響するのが鯨の歌というのだから、スケールが大きい。おもしろいのは下句である。湾曲した傘の受け骨の先端が海へと続いているという。先端が物理的に海まで伸びていることはないので、海まで続いているような気がするという見立てである。作りが大きく、作者の想いが遠くへと飛ぶ歌で、いかにも若い人が作る歌という印象を受ける。

 立花はるきは1993年生まれ。まだ高校生の2011年に第57回角川短歌賞を受賞して話題になった。受賞作の「一人、教室」は本歌集の最初に収められている。

君の腕はいつでも少し浅黒く染みこんでいる夏を切る風

うすみどりの気配を髪にまといつつ風に押されて歩く。君まで

やわらかく監禁されて降る雨に窓辺にもたれた一人、教室

 選考委員の中で二重丸を付けて推したのは島田修三と米川千嘉子で、島田は「ひりひりするような感覚を捕まえている」と評し、米川は「生々しくて痛々しい感じが非常に印象的だ」と述べている。立花が受賞となり、次席は藪内亮輔の「海蛇と珊瑚」となった。立花の受賞は小島なおに次ぐ最年少受賞であった。

 記憶が曖昧なのだが、たしか誰か「若年の栄光は災厄」と言った人がいる。若いうちに栄光を手にするのは、本人の将来にとって必ずしもよいことではないという意味である。その見本はフランスの小説家フランソワーズ・サガン (Françoise Sagan) だろう。若干19歳で書いた小説『悲しみよこんにちは』(Bonjour tristesse) が文学賞を受賞して富と栄光を手にしたサガンは、その後、度重なる恋愛遍歴、スピード狂による自動車事故、アルコール中毒、コカイン中毒など、多彩で波乱に満ちた人生を送った。そこまでは行かなくとも、若年で手にした栄光にその後苦しむ人は多い。立花の場合がどうだったかは詳らかにしないが、受賞を重荷と感じたこともあったのではないか。『ひかりを渡る舟』は今年 (2021年) 9月に角川書店から刊行されたばかりの第一歌集である。帯文は島田修三。「十年の歳月をかけて、生の根源に触れる深々とした立花短歌の魅力になった」という言葉を寄せている。

 本歌集の前半を読むと、やはり多くの人にとって短歌は「感情を盛る器」なのだなと改めて感じる。自分の思いの丈を三十一文字にこめるのだ。

 

三月の君の手を引き歩きたし右手にガーベラ握らせながら

鍵盤にとても優しく触れたなら届くでしょうか私の鼓動パルス

その唇にさびしきことを言わせたい例えば海の広遠などを

さみどりのグリーンピースのたましいよ憧れのまま蓋する心

去年より毛羽立つマフラー巻きつけた中でしかもう君の名を呼べぬ

 

 このような歌から伝わって来るのは、思春期を迎え、自分の手に負えないほど広い世界と異性に出会った俯きがちな少女が心に抱いた孤独な想いである。これらの歌では歌の中の〈私〉の輪郭と作者の輪郭はほぼ重なり、作者と歌の距離がとても近い。引き出しの奥にしまってある日記帳に、夜更けに紫色のインクで日々の想いを綴るのとそれほど変わらない。「作る」という意識よりも「表す」という意識の方が勝っていると言えるだろう。作者と歌の距離の近さから、「ひりひりする感じ」や「痛々しいさ」が伝わってくる。

 短歌にたいしてはこれとは異なるスタンスもある。『玲瓏』所属の歌人であり、俳句誌『芙蓉』主宰でもあった照屋眞理子は、「短歌を自己表現の手段と考えたことは一度もない」と生前常々言っていた。照屋にとって短歌を詠むということは、短歌定型という古くから伝わる楽器をできるだけ美しく響くように鳴らすことであった。

 

雪にまぎれ天降あもるまなこは見るものか地に眠りゆく哀しみのさま

                      『抽象の薔薇』

アルペジオ天の楽譜をこぼれ来て目のまぼろしを花降りやまず

 

 『ひかりを渡る舟』は五部構成になっており、おそらく編年体で編まれている。第1部は角川短歌賞受賞作の「一人、教室」と、確認はしていないがたぶん受賞後の第一作の「世界の終点」だけが置かれている。作者自身にとっても若い頃の作ということとで切り離しておきたいのだろう。

 歌集を順に読み進むうちに、歌の表情が変化してくることに気づく。歌集なかほどで場所を占めるのは相聞である。

二回目にみる花水木咲き始めだす道君を忘れゆく道

夕焼けで稲穂が金に燃えさかるどの恋もわたくしを選ばない

足踏み式オルガンに合わせ呼吸する 眠ればあなたに弾かれる楽器

呼び合うようにあなたの骨も光ってね龍角散飲み干す夜に

最後ゆえ華やぎ終われぬ会話なれば私からやめることを切り出す

 立花の歌がにわかに陰翳を帯びて来るのは、歌集ほぼ中程の第三部「夕陽に溶ける」あたりからである。

 

生きる世はまばゆしと人は言うけれど躰をまるめるだけである影

眼鏡なく浜を見やれば老犬は夕陽に溶ける美しき駒

果ての惑星ほしにキリンの檻は溢れおり こうしてばらまかれた生と死は

濡れたものはより朽ちやすく握られた右手で白い食器を洗う

初冬の浴そう磨く 水が揉む私といういつか消えてしまう影

 

 一首目と二首目は老衰で亡くなった愛犬を詠んだ歌である。人は生の輝きと言うけれど、老いの果ての愛犬はただ丸まる影にすぎないという現実がある。生老病死は近代短歌の変わらぬ主題である。立花はあとがきに、ここ数年で家族や知人を立て続けに失ったと書いている。家族では祖母、祖父、鳥と犬と猫で、自死した知人もいたようだ。喪失で失うのは命だけではなく、それが起きる前の自分の世界や言葉も失われるとも書いている。立花の言う通りだ。祖父母と交わした何気ない会話や、犬猫に話しかけた言葉は、その死とともにどこかに消えてしまう。

 三首目は読んでしばらく考えてから、「果ての惑星」とはこの地球のことだと気づく。ということは地球から遠く離れた視点から見ていることになる。動物園にはキリン舎が必ずと言っていいほどある。方舟は地球だったという歌もあり、確かに地上には生命が溢れている。しかしそれは同じ数だけの死でもある。そのことは自分もまた死ぬべき存在と自覚する五首目にも表れている。

 角川短歌賞受賞時に高校生だった立花はその後成長したのだが、成長するということはまた別れを経験することでもある。幾多の別れを通過することで、立花にとっての短歌は「感情を盛る器」から「思索をうながす器」へと変化したようだ。嬉しい、悲しいといった日々の感情を歌にするのではなく、歌を詠むという営為によって、自分と他者や世界との関係を探るという姿勢へと知らず知らずのうちに変わっているのである。

 

白魚の天麩羅噛めば小さけれど意思あるものの脂の味す

言葉とは重たいだろう淡き想い持つものだけが空へ近づく

この世の何処に眼はあるか くるりくるりと誰かのカレイドの中にいて

生き継いできたのに。今日の我が影もあなたの死後の冷感がある

赦しがない世界のかげをまだ知らぬ眩しき群れに目を細めたり

 

 一首目、白魚の天麩羅を食べて感じる脂の味は、生きていた時の白魚が自分の意思を持って行動していた証だという歌である。飲食の歌の体裁を取りながら、小さな命へのまなざしを語っている。二首目、言葉は重いもので、放ったとたん地上へ落下してしまうが、淡い想いを持つ人のみが空へと浮かぶことができるという。いろいろな解釈ができる歌である。三首目は、自分は誰かの万華鏡の中でくるくる回っている存在ではないかという想いを詠んだ歌である。万華鏡はきらきらと輝くが、その運動は外部の誰かの手によるものだ。私は果たして意思をもって生きているのだろうかという疑問を歌にしたものだろう。四首目、「生き継ぐ」というのはあまり使わない言葉だが、「継ぐ」とは絶やさないように続けることを言う。自分は人から生をもらい、それを続けてきた。しかし自分の影に恋人の死後を感じている。命の光と影を詠んだ歌である。五首目は幼い子供たちを前にした想いを詠んだもの。子供の世界には罪がない。しかし大人の世界には赦しのない罪もあると感じている。立花の歌の力点が、自分の想いを詠むというスタンスから大きく変化し、歌を作ることを通して自分と世界の距離を測り関係を探る方向に向かっていることは明らかだろう。

 

夏に咲く花々のこと眼裏に息づかせ今はただ広い海

でも触れてあなたを噛んでわたくしを残す日の万華鏡のかたむき

疚しさから裂けて溢れるやさしさの、くらぐらと瞼も思考の裂け目

ただひとつの惑星ほしに群がり生きたれどみな孤独ゆえ髪を洗えり

初夏の空がどの写真にも写り込みどこかが必ず靑、海のよう

だれの傍にも死はにおえども 発光する秋穂に触れる風が薫りぬ

黙という深き林檎を割る朝よ死者にも等しくこの光あれ

 

 歌集後半から印象に残った歌を引いた。技法的には、例えば一首目の下句の「息づかせ今は/ただ広い海」のように8音・7音の句跨がり的破調や、五首目の「どこかが必ず靑/海のよう」の10音・5音のように、下句を15音にして不均等に分割する手法がなかなか効果的に使われている。一巻を通読すると、ひとりの人間の成長が感じられる歌集となっている。