第318回 宇都宮敦『ピクニック』

水たまりに光はたまり信号の点滅の青それからの赤

宇都宮敦『ピクニック』

 宇都宮は2005年に『短歌ヴァーサス』10号誌上で発表された第4回歌葉新人賞で次席となって短歌シーンに登場した。新人賞を受賞したのは「数えてゆけば会えます」の笹井宏之である。笹井は選考委員の加藤治郎、荻原裕幸、穂村弘の3人全員に候補作として選ばれた。笹井の候補作は、「ポエジーということでは際立った」(加藤)、「読んで鳥肌のたつような感覚が何度も起きました」(荻原)と評された。一方、宇都宮を推したのは穂村一人で、穂村は「言葉を使うことで、それ自身によって蓋をされて殺されてしまう『現場の生命感覚』を、一首のなかでうまく蘇生させている」、「言葉を『言葉以上のもの』として立ち上げるための工夫がこらされている」と宇都宮を高く評価した。

車窓から乗りだし顔のながい犬がみてるガスタンクはうすみどり

目をふせてあらゆる比喩を拒絶して電車を待ってる君をみかけた

イヤフォンではやりの歌を聴きながらあかるく雪ふるここで待ってる

             「ハロー・グッバイ・ハロー・ハロー」

 『ねむらない樹』別冊の『現代短歌のニューウェーヴとは何か?』(2020年)に、永井祐が「第4回歌葉新人賞のこと」という文章を寄稿している。その中で笹井と宇都宮の激突は「一種のスタイルウォーズ」つまり文体の戦いであったと述べている。「遠いところを目指す笹井の歌に対して近いところの見方を変える宇都宮」、「表現の飛躍が魅力の笹井に対して、(…)葛藤や空気感を伝える宇都宮」と永井は書き、「当時、キラキラした言葉が飽和気味で行き詰まりかけていたネット / 口語短歌の中に新しい原理と方法を持ち込むものとして、宇都宮の歌はわたしに見えていた」と続けている。永井の言うキラキラした口語短歌とは、例えば次のような歌を指すのだろう。

ゼラチンの菓子をすくえばいま満ちる雨の匂いに包まれてひとり

                   穂村弘『シンジケート』

「自転車のサドルを高く上げるのが夏をむかえる準備のすべて」

ほんたうのことはひかりにとけてゆく街角でふとみつめる左手

                 山崎郁子『麒麟の休日』

春雨は天使のためいきうすくうすくまぶたのうへにふりかかりくる

 宇都宮が2018年にようやく上梓した第一歌集が『ピクニック』(現代短歌社)である。まず歌集の見た目が衝撃的だ。版型は「少年ジャンプ」と同じ大きさで厚さは2cmあり、表紙はビビッドイエローである。どうみても電話帳にしか見えない。短歌は左ページにのみ印刷されていて、右ページは薄いペパーミントグリーンの四角形がほぼページ一杯にある。おまけに短歌は16ポイントで印刷されていて、まるで老眼の高齢者か弱視者用の大活字書籍のようだ。疑いなく最もインパクトの強い装幀の歌集である。現代短歌社もよくこんな本を出したものだ。机の上で開いて読もうとすると、開いた右側が反発で閉じようとする力が強いので、国語辞典を重石にして読む始末なのだ。

 穂村の評にあった「言葉を『言葉以上のもの』として立ち上げるための工夫」はどのような点に見られるのだろうか。宇都宮の短歌は完全な口語である。「かな」も「はも」も「けり」もない。しかし短歌は抒情詩なので、口語を用いてポエジーを立ち上げるには修辞が必要になる。宇都宮の文体の特徴のひとつは「喩を用いない」ということだろう。たとえば「東西にのびて憩へるいもうとの四肢マシュマロのごとく匂へり」(辰巳泰子『紅い花』)という歌では「マシュマロのごとく」という直喩が使われている。喩によって読者の脳内に白くてふわふわしたマシュマロを喚起することで、妹のむきだしの手足とマシュマロが二重映しとなり、手足の白さや若さや甘やかさが醸し出されるという仕掛けである。このように喩は短歌の修辞の大きな武器なのだが、宇都宮はその武器を意図的に放棄しているようだ。

長ぐつをはいた女の子が誰にするでもなくバレリーナのおじぎ

小綺麗な路地で迷った僕たちは走りぬけてく花嫁を見た

昼すぎの木立のなかで着ぶくれの君と僕とはなんども出会う

 例えばランダムに引いた歌のどこにも喩は見られない。一首目は雨上がりなのか、長靴を履いた小さな女の子が、道端かプラットホームで、バレリーナがするような足を折るおじきをしているという光景がそのまま描かれている。二首目では、路地で道に迷った〈私〉と彼女の目に、ウェディングドレス姿の花嫁が走り抜けるのが見えたという、往年の人気TVドラマ『ロング・バケーション』のワンシーンのような光景が詠まれている。走り抜ける花嫁が何かの喩ということはない。三首目では、冬枯れで葉を落とした木が立ち並ぶ公園か並木道で、〈私〉と彼女が木の陰に隠れてはまた姿を現すという遊びに興じている。

 では宇都宮は何を武器としてポエジーを立ち上げているのだろうか。一つ目はトリミングのような巧みな場面の切り取り方である。一首目のおじぎをする少女、二首目の走り抜ける花嫁、三首目の他愛ない遊びに興じる恋人たちという場面の切り取り方は、とても鮮明な像を読者の脳内に描き出す。日常の何気ない場面を鮮明に切り取ることによって、見慣れたはずの世界の見え方が少し変わる。二つ目は巧みに挟み込まれた語句である。一首目の「誰にするでもなく」や三首目の「なんども」が効果的に置かれている。「誰にするでもなく」によって、お辞儀をするという行為の無償性・無目的性が強調され、「なんども」によって恋人たちのずっと続く幸福感が高められている。永井も上に引いた文章で、宇都宮が歌に挟み込む「とりあえず」や「ふつうの」という語句が空気感を出していると指摘している。三つ目はたとえば次のような歌に見られる統辞の組み替えである。

やがて雨あしは強まり うつくしさ 遠くけぶったガードレールの

 散文ならば「やがて雨あしは強まり、遠くけぶったガードレールのうつくしさ(が心に届く)とでもなるところだが、統辞を攪乱することによって「うつくしさ」が行き場を失って宙ぶらりんになる。それによって、意味の伝達という実用に奉仕する日常言語の機能がスイッチオフされて、穂村の言う「言葉以上のもの」が立ち上がる。これは音数合わせや結句の単調さを回避するために使われる倒置法ではなく、もっと自覚的な統辞の組み替えである。

 永井がもうひとつ指摘する宇都宮の文体の特徴は一字空けだ。

対面の牌が横を向く スイングバイ軌道を外れる探査衛星

屋上でうどんをすする どんぶりを光のなかにわざと忘れる

水鳥を川にみた朝だったのに のに海鳥のでかさにびびる

 一首目は珍しく上二句と残りが喩的関係にあり、一字空けはその関係を強調しているのだろう。麻雀をしていて、対面の打ち手の牌が横を向くのが、まるで軌道を外れる衛星のようだという関係にある。麻雀の卓という小さな世界と探査衛星という大きな世界の対比が眼目となる。二首目の一字空けはこれとは少し異なる役割を果たしている。百貨店の屋上にあるフードコートで、テーブルに坐ってうどんを食べるという行動の客観的描写と、三句目以下の〈私〉の行為の説明という位相の異なる言葉を一字空けが分けている。三首目はまたこれとも違っていて、「のに」の反復で連接された川での出来事と海での出来事の場面転換が一字空けでなされている。

 本歌集を通読して感じるのは、宇都宮の描く彼女がとても魅力的に描かれていることである。

とうとつに君はバレリーナの友達がいないのをとても残念がった

左手でリズムをとってる君のなか僕にきけない歌がながれる

携帯電話に撮りためているパイロンの写真を厳選のうえ見せてくれた

コンビニへ いつものようにざっくりと君は髪ごとマフラーを巻く

君の寝まきジャージとおめかしジャージのとの違いがわからないまま夏に

 三首目のパイロンとは、工事現場などで使われてい円錐形のコーンのこと。彼女は街で見かけたパイロンの写真をスマホで撮り溜めているのである。これだけでも好きになりそうだ。宇都宮の作るこういう歌は、軽くて適度な湿度と透明感と幸福感があり、深刻になりがちな世界を少しだけライトなものに変えてくれるようだ。

 『ピクニック』の3分の2は「ウィークエンズ」と題された一つの章となっているが、残りは「ウィークエンズ拾遺」となっていて、その中に「東京がどんな街かいつかだれかに訊かれることがあったら、夏になると毎週末かならずどこかの水辺で花火大会のある街だと答えよう」という恐ろしく長いタイトルの連作がある。実はこの連作は枡野浩一の『ショートソング』という小説の中で引用短歌として使われているものである。どのような経緯でそうなったのかは詳らかにしないが、枡野のかんたん短歌と宇都宮の短歌は、地続きとは言えないまでも相性は悪くない。だから枡野も宇都宮の短歌を作中の引用歌として選んだのだろう。

 本歌集には好きな歌がたくさんあり、付箋がいっぱい付いたため選ぶのに苦労するほどだ。下に引くのは厳選した歌である。

腰のところで君は手をふる ちいさく さよならをするのとおんなじように

水面でくだける光がかなしくて世界はもはや若すぎるのだ

全自動卓が自動で牌を積む ダンスフロアに転がるピアス

冷房がきついと君がとりだして羽織ったカーディガンにとぶ鳥

ミントガムのボトルのわきに二眼レフのおもちゃが転がっている

圧倒的落葉のなかフルネームでお互いを呼び合う女の子たち

ケージの彼女は鳶色のワンピースに春を従えバットを逆手で構えた

キジトラが荷台に遊ぶガラス屋の軽トラに花びらの流れて

Tシャツの裾をつかまれどこまでも夏の夜ってあまくて白い

はなうたをきかせてくれるあおむけの心に降るのは真夏の光

炎天に拾い上げれば作業着のボタンホールに挿す鳥の羽根

 一首目は若い女性がよくする仕草で、手を上に上げるのではなく腰の横の所で振っている。「さよならをするのとおんなじように」なので、別れの挨拶ではないのだから、きっと出会った時の挨拶だろう。四首目の場面の移行が秀逸だ。夏に入った店で冷房が効き過ぎていることがある。女性はそんなときの用意にかばんに羽織るものを持っている。彼女が羽織ったカーディガンで場面が終わるのかと思えば、ズームインしてカーディガンの模様の飛ぶ鳥に着地している。また五首目のミントガムのボトルと二眼レフのカメラのおもちゃの取り合わせは、まるで安西水丸の透明感のあるイラストのようなお洒落さだ。八首目では「キジトラ」と「軽トラ」の韻が言葉遊びとなっていて、永井陽子の秀歌「あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ」を思わせる美しい歌となっている。

 集中で最も好きなのは次の歌だ。

あかんぼが抱き上げられてからっぽのベビーカーのなか充ちるアンセム

 「アンセム」(anthem) とは、一般的には教会の聖歌もしくは国家・応援歌・寮歌のようにある集団を代表する歌を意味するのだが、ここはヘビー・メタルバンドのアンセムのことだろう。一瞬、抱き上げられる前の赤ん坊が音楽プレイヤーでアンセムの曲を聴いていたのかと思うが、そんなことはないだろう。こういう不思議な展開もときどき宇都宮の歌にはある。ヘビメタではなく聖歌と解釈しても、それはそれで厳かな雰囲気が醸し出される。もっと話題になってよい歌集だと思う。