第321回 横山未来子『とく来たりませ』

夕風のいでたる庭を丈たかき百合揺れてをり花の重みに

横山未来子『とく来たりませ』

 次の歌集の出版が待ち遠しく、出たらすぐに読む歌人が何人かいる。横山未来子は私にとってはそんな歌人の一人だ。横山ほど短歌を読む喜びを感じさせてくれる歌人はそうはいない。第一歌集『樹下のひとりの眠りのために』(1998年)、第二歌集『水をひらく手』(2003年)、第三歌集『花の線描』(2007年)、第四歌集『金の雨』(2012年)、短歌日記の『午後の蝶』(2015年)、すべて読んだ。『とく来たりませ』は2021年に上梓された第五歌集である。歌集タイトルは、メシアの出現を待ち望む賛美歌から採られている。「とく」は「疾く」、つまり「早く」のこと。

 『樹下のひとりの眠りのために』について書いたコラムで私は「時間の重み」をキーワードのひとつとして挙げた。本歌集にもそれは依然として感じられるものの、一読して脳裏に浮かんだ言葉は「恩寵」である。本歌集には一首だけその言葉が使われた歌がある。

かなしみはかなしみのまま透明なる恩寵の降る木の間をゆけり

 恩寵とは神が人間に与える無償の愛であり、キリスト者である横山にとっては特別な意味を持つ言葉だろう。恩寵は天からあまねく降り注ぐものであるが、たとえば掲出歌を見てもそれが感じられる。掲出歌は一見すると単なる叙景歌である。「夕風」で時間がわかり、「庭」で場所が知れる。自宅の庭に咲く百合の花が夕方の風に揺れているという光景を詠った歌である。しかしそれは歌の表面的な意味にすぎない。叙景の裏側に隠れている意味は、「かく在ることの重み」であり、「かく在ることの有り難さ」である。ここで「有り難さ」というのは、存在することが難しく稀だという元の意味で使っている。〈私〉が今ここに居て、庭の百合の花が風に揺れているのを眺めていることが奇跡であり恩寵なのだ。

 思えばそれは近代短歌・現代短歌が手を変え品を変えて表現しようとしてきたものかも知れない。それは「一期一会」と呼ばれることもあり、穂村弘はそれを「生の一回性の原理」と呼んだ(『短歌の友人』所収の「モードの多様化について」)。それは誰も人生は一度しか生きられないという当たり前のことではなく、たとえ尾羽うち枯らして落魄していようが病の床に伏せっていようが、〈私〉が今ここに在るという瞬間の輝きは失せることがないというほどの意味である。掲出歌に限らず横山のどの歌からも濃厚に感じられるのは、この意味での「生の一回性」であり、今かく在ることの有り難さである。

水に触るるごとくにかをりにふれて見る薄日のなかの梔子の白

柘榴六つすべて色づきたるを見ぬ今年の秋にわれは立ち会ひ

去年の実の黒きをあまた垂らしをりあたらしき香の花のあはひに

三輪草群れゐるあたりゆるやかにみひらくごとく届く陽のあり

八月の夕ぐれの風ひろがりて蜘蛛の巣とほそき蜘蛛をあふりぬ

 本歌集に収録された歌のほぼすべてが叙景歌なのだが、上に述べたようなことが的を射ているのならば、横山の歌は何を描いていようとも「今かく在ることの有り難さ」という根源的な主題の変奏曲だとも見なすことができよう。『現代短歌100人20首』(邑書林、2001年)に短歌が収録された折に、編集委員の求めに応じて答えた「作歌の信条」に、「言葉の持つ力を活かしながら、生を基盤とした歌を作っていきたい」と横山は書いているので、あながち的外れとも思えないのである。

 とはいうものの根源的な主題を歌に変えるにはそれなりの技法と手腕が必要である。たとえば一首目、梔子の強い香りが漂って来る。それを「水に触るるごとくにかをりにふれて」と表現していてうっとりする。二首目は庭にある柘榴の木になった実がすべて紅く熟したという歌で、ポイントは「今年の秋」にある。三首目は今年咲いた花の間に去年実った実が残っているという歌で、ここにも流れる時間意識が表れている。四首目も美しい歌で、三輪草の群れるあたりに照る日光はそのまま恩寵である。

 本歌集を通読して改めて感じたのは、微細なことに気づく横山の感覚の鋭敏さである。それはたとえば次のような歌に感じられる。

卓を垂るる檸檬の皮のゑがかれて螺旋の内にひかり保たる

かすかなる音を聞きたり紙にあたり折りかへさるる穂先の跡に

テーブルの日差しは本をのぼりきて紙にありたる肌理をうかべぬ

ひとの靴のありにしあたりまはりたる風のかたちに枯葉のこりぬ

 一首目はおそらく展覧会で見たフランドル派の写実的な静物画だろう。銀色のナイフで剥かれたレモンの皮が螺旋形に垂れているのだが、その皮の内側に光が宿っているところに注目している。二首目は書の展覧会を見た折の歌で、筆の穂先が紙に当たるかすかな音がまるで聞こえるようだと詠っている。三首目は午後の陽が傾いてテーブルに開いた本にまで届くと、紙の表面の微細な凹凸が影を得て顕わになるという歌。四首目は庭先に訪問客の靴が脱いでおかれていたのだろう。もう客は帰ったので靴はないが、靴のあったあたりだけ枯葉が落ちていないという歌である。何かがあることに気づく歌は多いが、この歌のように何かがないことに気づくのは存外難しいことだ。これらの歌の描写の微細さは、「昼しづかケーキの上の粉ざたう見えざるほどに吹かれつつあり」と詠った幻視の女王葛原妙子を思わせるものがある。

 もうひとつ留意すきべきなのは、多くの叙景歌において歌中の視点主体の位置が明確だという点である。

肩で傘ささへてあゆむをさな子の後ろをゆけば傘の柄見ゆ

ゆふぐれは窓よりにじみゆふぐれを歩みてをらむ人をおもはす

座席よりあふぎてゐたり組みあはむとする両の手のごとき並木を

父親のせなに眠れるをさなごの靴の片方脱げゐるが見ゆ

褐色に朽ちたる花もかかげつつ幹ふとき木はわれを仰がしむ

 一首目、前を歩いている子供には傘が重すぎるので肩で支えている。すると傘が後ろに傾ぐので、傘の布面に描かれた図柄がよく見えるという歌。子供の後ろを歩く〈私〉の位置が明確である。二首目は室内にいて窓の外を眺めている歌。「ゆふぐれ」がルフランのように反復されて効果的だ。三首目では「座席よりあふぎて」によって、〈私〉が自動車の座席に坐っており、窓かルーフウィンドウを通して外を眺めていることがはっきりわかる。四首目では父親の背に負われて眠っている幼児を背後から見ているのである。五首目では結句の「われを仰がしむ」によって〈私〉が大樹の根方にいることがわかる。近年、視点主体の位置取りがわからない歌が増えたように感じるが、横山の歌ではたいてい視点主体の位置がはっきりとわかる。

 思えば明治期の短歌革新運動で、短歌が「自我の詩」と規定されたことにより、歌の中に〈私〉が入り込んだ。それと平行的に歌の主体の不動の視点が制度化されていく。このような経緯を考えると、横山の短歌は近代短歌が制度化した技法をいまだ忠実に守っている例と捉えられるかもしれない。そのためもあってか、横山が1996年に「啓かるる夏」で短歌研究新人賞を受賞したとき、選考委員の塚本邦雄に「隔靴掻痒の感がある」と評され、他の選考委員からも「新しさがない」と言われたという。新人賞では従来の短歌にはない新しさが求められることが多いので、近代短歌の王道を行くような横山の歌は新人にしてはおとなしすぎると感じられたのかもしれない。しかしながら、「新しさ」が本当に必要な美質なのかは一考の余地があろう。

 いつものように特に心に残った歌を挙げておく。

枯芝にまじるひらたき雑草に影ありてわが影につながる

アルミ箔破らむときに手にひびくあかるさとして星は死にたり

外光のふかく入る頃わがまへに置かれたる白きカフェオレボウル

滅びむとする夏としてことごとく雨に項垂るるしろき百合あり

丈ひくき草に入りたるしじみ蝶薄暮のいろの翅を閉ざしぬ

口あけたる無花果の蟻の這ふ日ぐれほろびへ向かふもののこゑせり

花のひかり落つる水面をすすみゆく水鳥に花の冷えは移らむ

木の下の落ち葉は雨にぬれずあり濡るるものよりしろき色にて

 最後の「木の下の」の歌などは、巧者吉川宏志を彷彿とさせるような発見の歌である。四首目「丈ひくき」の「薄暮のいろ」もなかなかに美しい。私が最も「恩寵」を感じ、本歌集を代表するような歌と思ったのは次の歌である。

充ちながらそこにあるべき木木のもとへ運ばむとせりけふのいのちを

 「そこにあるべき」と詠われているのだから、「そこにあるにちがいない」あるいは「そこになくてはならない」木は、今はまだそこにないのである。それは今ここに在ることに充ちている木であり、その木は自らのあるべき姿の喩として屹立している。〈私〉はそんな幻視の木に向かって今日も命を運ぶのである。