罪を知り海を知らないあの場所でかすかに揺れている水たまり
島楓果『すべてのものは優しさをもつ』
「ナナロク社 あたらしい歌集選考委員会」で2021年1月に306名にのぼる候補から選ばれ出版された二冊の歌集のうちの一冊である。選考委員は岡野大嗣と木下龍也が務めている。ナナロク社はこのように非常に戦略的に歌集を売り出そうとしており、これは短歌界の新しい動向と言ってよいだろう。装幀は名久井直子、帯文は木下龍也。木下は島の短歌の100発100中の精度に舌を巻いたという。島は1999年生まれで富山県在住としか書かれていない。ネットで検索すると出て来る画像は髪の長い若い女性である。驚きは巻末のあとがきに隠されているのだが、それは後で触れよう。
収録されている短歌は定型の口語(現代文章語)短歌で、「けり」も「かな」も「はも」もひとつもない。歌われている題材は日常生活でふと出くわす小さな物語である。たとえば次のようなものだ。
ファミマから出てきたばかりの軽四の屋根に乗ってるアイスコーヒー
さっきまで海の一部分だった両手を洗う薬用ミューズ
鳥よけのためにぶらさげられているCDが聴く鳥の鳴き声
渦巻きに火をつけたときから生の入れ物に注ぎ込まれてゆく死
親切で端に寄ってくれた人の後ろに欲しい干し芋がある
一首目、コンビニの駐車場から道路に出て来る車の屋根の上にアイスコーヒーのプラスチックカップが載っているという光景。運転している人はたぶん右手にカップを持ち、左手にかばんか何かを持っていたのだ。両手がふさがっているので、車のキーを取り出すためにカップを一時的に車の屋根に置き、そのまま発車したのである。これは「あるある系」の短歌である。二首目、「さっきまで海の一部分だった両手」にポエジーがある。さっきまで海の中に手を入れて何かをしていたのだ。薬用石鹸という一般名ではなく「薬用ミューズ」という具体的な名を入れたところがよい。三首目もよく見る光景だ。効果があるのかわからないが、カラス除けにいらなくなったCDを紐で吊してある。鳥よけのためのはずのCDに鳥の声が降り注いでいるところに、ちょっと素敵な反転がある。四首目、作者は物の名を直接名指さないことの詩的効果をよく知っているようだ。「渦巻き」はもちろん蚊取り線香である。だから「生の入れ物」は蚊を意味する。五首目も「あるある系」だろう。スーバーかコンビニで棚の前にいる人が親切で横に寄ってくれたのだが、自分が欲しいものがその後ろにあるという場面で、ここでも「干し芋」の具体性が光っている。
前回取り上げた岡本真帆の『水上バス浅草行き』と共通しているのは完全口語(現代文章語)と緩い定型意識であり、これは今の若い歌人に共通した文体意識と言っていいだろう。ちょっとちがうのは、岡本には「安物の花火まぶしい 最後かな 虫鳴いてるね 遠い星だね」のような会話体の歌が混じっているが、島の歌集にはひとつもない。「嬉しい」「悲しい」といった喜怒哀楽を詠んだ歌もほとんどない。どの歌も作者が目を見開いて観察した細部を詠んだもので、近代短歌の写実に通じる所がある。「観察」こそが作者の生命線なのだ。これは大事なポイントである。
集中で一番多く見られるのは、上に引いた一首目や五首目のような「あるある系」の歌である。
何度飲み込もうとしてもとどまっている一錠を手のひらに出す
パトカーを見かけた途端ふたりして無口になって座高が伸びる
貼って寝た腰の湿布が明け方の布団の痛みを和らげていた
一首目もよくあることだ。錠剤を飲み込もうとて、どうしても飲み込めない一錠がある。二首目はたぶん車を運転している場面だ。疚しいことはないのに、パトカーを見かけた途端、前をじっと見て姿勢がよくなる。三首目もよくあることで、腰に貼ったサロンパスが寝ている間に剥がれて布団に貼り付いている。
言われてみれば当たり前のことにハッと気づく「ハッと系」の歌もある。
空っぽのコップが倒れたテーブルにコップの中の空気は満ちる
行くときはあちらを見ていた人形が帰るときにはこちらを見てる
スプーンでお茶に浮かんでいるコバエすくうときだけ立ってる小指
鮭を取り出されたあとの魚焼きグリルが焼き続けている空気
一首目、コップに水が入っているとき、コップを倒せば水がテーブルにこぼれる。同じように空のコップを倒したら、入っていた空気がテーブルにこぼれているはずだ。しかしふつう私たちはそのように認識しない。コップは空であり、中の空気は中身ではないからである。これは吉川宏志の有名な「円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる」に匹敵する発見の歌である。なかなか作れるものではなく、すばらしい。作者が現実を知的に処理することに長けていることがわかる。二首目は読んだままの当たり前の歌。三首目もいかにもありそうなことだ。四首目はコップの歌と発想が似ている。焼けた鮭を取り出した後のグリルには空気しか残っていない。火を消すまでのしばらくの間、グリルを空気を焼き続けているというわけだ。
注目すべきなのは「トホホ系」の歌も少なからずある点である。
トースター開けたら昨日のトーストが入ったままでゆっくり閉じる
くっきりと枕の跡がついていて今日は丹下左膳で生きる
10ホールブーツのままで忘れもの取りに廊下を膝立ちで行く
噛みちぎれなくて無理やり引っ張った干し芋が持ち帰った前歯
焼いたトーストを取り出すのを忘れる、頬に枕の跡をくっきり付ける、ブーツを履いてから忘れ物に気づいて脱ぐのが面倒なので膝立ちで室内を移動する、干し芋に前歯を取られる〈私〉は情けない私である。このように低い目線で自己を詠うのは近代短歌のセオリーに適っている。それ以外に私が特に注目したのは、作中の〈私〉と他者との関係性に焦点を当てた歌である。
ファインダー越しにわたしが見ていたあなたはわたしを見ていたあなた
立ちくらみから覚めるころ見えてないわたしを見ていた人が見えだす
店員とわたしの人生を交差させる十円玉とレシート
写真を撮るとき私がファインダー越しにあなたを見ると、あなたは私を見つめている。当然のことなのだが、〈私〉はあなたを初めとする関係性の中でしか成立しない概念であることをよく示している。二首目では立ちくらみに襲われた〈私〉には周囲にいる人が見えない。しかし立ちくらみが収まると、徐々に回りの人が見えてくる。回りの人はずっとそこに居て、私に見えていなかっただけなのだ。三首目では、店で何かを買い、お金を支払っておつりとレシートを受け取る。何でもない光景だが、作者は〈私〉と店員の人生が交差したと感じるのである。このような歌は、日頃から周囲の人との関係性に悩みを抱えている人が作る歌のように思う。
そのような思いを強くするのは、集中に次のような気になる歌があるためである。
なにもせずに終わった今日をどうにかこうにか延ばそうとして起きている
夕暮れの中で開いた目は映す今日の日記のような天井
したいことだけして生きるしたいこと特にはなくて息をしている
無風でもわたしは揺れて揺らがないはずのものなどなくしてしまう
これは「自分は空っぽ系」の歌だ。はっきりとした輪郭を持ち、明確な意思と目標を持つ〈私〉をどうしても描くことができない。あとがきを読んでその理由がようやく理解できた。文ひとつごとに改行されている長いあとがきには、幼い頃から自分に違和感を感じ、学校を休みがちになって、高校を一ヶ月で中退して「わたしは終わった」と感じたことが率直に綴られている。美容院を営む母親と二人暮らしでずっと家に居たが、歌集を読むようになり自分でも短歌を作り始めた。その後、出会ったのが種田山頭火である。作者は山頭火の俳句を読むことで生きる意思を取り戻し、なにもないように見える生活の中に今あるものを生かすという生き方を教わったのだ。短歌を作り始めてから、それまで見えていなかったものが見えるようになったという。そして島は書いている、「新しい世界はずっとここにあった」と。何とすばらしいことだろう。これほど心に沁みる言葉はそうそうあるものではない。
私はかねてより短歌や俳句は人を救うことがあると思っていたが、島が本歌集出版に到るまでの歩みはそのことを実証している。セーラー服歌人鳥居と並び島は「救済としての短歌」を体現していると言ってよい。
山頭火と聞いて、なるほど次のような歌のルーツはそこにあったのかと思い到る。
紙パックたたんだことでたたまれた紙パックから礼を言われる
持ち上げた箱が思っていたよりも軽くて腕を疑っている
溜めるとき落ちたであろう米粒が一番風呂をいただいている
短歌は形式(音、韻律)と内容(意味)とが分かちがたく混じり合ったところに成立する韻文形式である。それから考えると、島の短歌は内容(意味)に傾きすぎていて、形式(音、韻律)がおろそかになっており、知的に過ぎると感じる人もいるかもしれない。それももっともな感想である。とは言うものの、短歌が座の文芸としての性格を弱め、活字で一人読むものとなった現在では、形式(音、韻律)面の弱まりは当然の傾向とも考えることができる。
「没入するほど深く見つめて、すべてもものに秘められた優しさを暴く。あなたほと優しい天才に僕は出会ったことがない。」と帯文に木下は書いている。それはそうなのだが、その「優しさ」が作者の天性の資質ではなく、幼少期からの苦闘の末に出会った短詩型文学に教えられたものだということが、島に降り注いだ恩寵なのである。