第345回 木下龍也『オールアラウンドユー』

また水に戻るときまで他者としてグラスのなかでふれあう氷

木下龍也『オールアラウンドユー』

 第一歌集『つむじ風、ここにあります』(2013年、書肆侃侃房)、第二歌集『きみを嫌いな奴はクズだよ』(2016年、書肆侃侃房)に続く第三歌集である(共著は除く)。版元はナナロク社。小振りな版型のクロス装のハードカバーで、ページの隅が丸くしてある瀟洒な装幀だ。装幀担当は直久井直子。表紙の色は5色あるそうだ。私が買ったのはグレイである。歌集のタイトルは集中の「詩の神に所在を問えばねむそうに答えるAll around you」から。詩の種は身の回りの到る所にあるという歌である。木下の作歌姿勢をよく示しているタイトルと言ってよい。

 2022年の話題は何といっても「短歌が流行っている」だったが、それをよく表す事件が木下の「情熱大陸」出演である。2022年10月2日に放映された毎日TV系の人気番組「情熱大陸」で初めての歌人として木下が取り上げられた。この番組を見た歌人は多かっただろう。もちろん私も見た。一般からのリクエストに応じて短歌を一首作って販売する「あなたのための短歌」の活動を中心に、なかなか歌ができずに悩む姿などがリアルに映されていた。こうして作られた短歌は依頼者の同意を得て『あなたのための短歌集』(2021年、ナナロク社)として刊行されている。

 このような活動に批判的な人もいるだろうが、新宿や渋谷の路上で色紙に言葉を書いて売ることは昔から行われている。何か心に引っかかりが出来た人が自分に届く言葉を求めるのは自然なことである。木下のあなたのための短歌はその変形の一種だと考えればそれほど奇異なことでもない。『短歌研究』2023年2月号の新シリーズ「『現代短歌2・0』を探して」の第一回で山田航が、『あなたのための短歌集』は現代短歌が経験しつつある「脱モノローグ」という地殻変動の象徴だと書いている。山田によれば、「あらかじめ他者性を内包した文脈」の摺り合わせによって意味が完成する短歌ということのようだが、そこまで言う必要もないだろう。古典和歌はそもそも歌を送る相手がいて、相手の文脈を詠み込むことも多かったわけだし、本歌取りや挨拶歌など他者性を取り込む技法も昔からあるのだから。

 さて木下の第三歌集に話を戻すと、その人が今現在どのような地点にいるかを知るためには、過去にどの地点にいたかを知り、ふたつの地点を隔てる距離と質の差異を測定するのが有効である。『オールアラウンドユー』の特異な点は、章立てを排したことにある。第一歌集『つむじ風、ここにあります』や第二歌集『きみを嫌いな奴はクズだよ』では、ふつうに見られるようにタイトルを冠した章に分かれていた。ところが『オールアラウンドユー』では章立てがなく、1ページに一首印刷された歌がずらっと並んでいる。それが意味しているのは、連作意識の希薄化による一首の孤立化だろう。

 連作にタイトルが付いているのは、短歌総合誌などから執筆依頼が来るときには、「今回は七首お願いします」のように頼まれ、タイトルを付けるよう依頼されるという事情が大きい。タイトルでくくられると、お互いの意味的連関がいかに薄くとも、短歌同士の横の繋がりが生まれ、読者もまたそのような文脈を想定して読むことになる。そこには濃淡はあれ主題意識が生じる。ところが連作の構成を取らずに短歌がずらっと並んでいると、主題意識が生じることがないので歌の垂直性が増す。歌は水平に意味的連関を取り結ぶことなく、一首は孤立した島と化す。隣の島と結ぶ橋はない。すると歌の意味のベクトルは限りなく純化され、垂直方向をめざすことになる。たとえば次のようにである。

風だけに読める宛名が花びらに書かれてあってあなたへ届く

                『オールアラウンドユー』

波ひとつひとつがぼくのつま先ではるかな旅を終えて崩れる

対岸へ渡したくなるたましいを皮膚一枚で引き止めていた

 連作の場合と異なり、前後の歌の意味を利用することができないので、一首はそれだけで意味が完結しなくてはならない。すると歌の意味解釈に必要な文脈もまた内包することになるため、一首がひとつの小さな物語となる傾向がある。上に引いた歌を眺めていると、まるで極端に短いショート・ショート(掌編小説)を読んでいるような気分になるのである。これが木下の作る最近の短歌の魅力となっているように思われる。木下にエピソードを届けてそれを短歌にしてもらうよう依頼する人も、多くは辛いものだった自分の体験を物語に変えてもらうことで昇華したいと望んでいるのかもしれない。

 第一歌集の頃から身の回りの様々なことに気づく多様な視点と、それを短歌に変える能力に優れていた木下だが、そこから紡ぎ出される物語にも一応は通底する主題らしきものが窺える。第一歌集のあとがきを書いた東直子は、「機知に富んでいるだけでなく、作歌の動機として、生きていることへの根本的もどかしさや圧倒的な孤独感があることも感じずにはいられない」と綴っている。もう一歩踏み込んで言うと、木下の短歌から滲み出して来るものは、この世に限りある生を受けてたまさか存在することの悲しみと、詰まるところ人は一人であるという孤独感ではないだろうか。

空き缶は雨を貯めつつ唇にふれられた日の夢を見ている

雪だったころつけられた足跡を忘れられないひとひらの水

かなしみは洗練されてゆくだろう胸にしまえる鈴のサイズに

 一首目の空き缶は、第一歌集にも登場する木下好みのアイテムだ。空き缶の特徴は「用済み」ということである。そんな無用の存在も何かを夢見ることがある。二首目のまっ白だった雪は子供が橇滑りをして雪兎を作ったかもしれないが、やがては溶けてただの水と化す。三首目の悲しみは決してなくなることはなく、折節に胸の奥でチリンと微かに鳴るものとして大切に仕舞われる。静かな諦観のようなものが感じられる歌だ。

 最近話題の永井祐らによる「口語によるリアリズムの更新」とは対極にある作風と言ってよいだろう。極限まで言葉を純化することで生じる笹井宏之の天使的ポエジーと方向性に少し似た点はあるのだが、笹井の場合はポエジーが限りなく拡散する言葉の揮発性があるのに対して、木下の場合は一首による物語性の凝集力が強いという違いがあるように感じられる。

水を吸う力の尽きたとき首が生まれて花はそこから折れる

どんな色でも受け入れるために死はこれまでもこれからも漆黒

殺さずに愛せないかと考えているうちに木を燃やし終わる火

きみの影もポニーテールを失って昼の地面にはりついている

 少しダークな面も見られる歌である。必要な意味を盛り込むために短歌定型から少しはみ出している。木下は部屋に置いた花瓶に一輪の花を絶やすことがないそうで、花や花瓶の歌があるのはそのためだ。上に引いたのは物の終わりを見つめる歌で、これらの歌に見られるすべてを受け入れようとする静かな眼差しが、本歌集全体に漲っている個性である。

 私が恵文社で買ったのは第二刷で、日付は10月17日になっている。おそらく「情熱大陸」が10月2日に放映されることが事前に分かっていたので、ナナロク社が刷り増しをかけたのだろう。前にも書いたことだが、ナナロク社は戦略的に歌集を販売することをめざしている。木下の歌集がこの戦略によって世に知られ流通することが本人にとってどういう意味を持つかは時間が経たなければわからないことだろう。

 栞代わりに谷川俊太郎との対談抄録が添えられている。対談の最後に木下が「今後、僕はどうしたらいいと思いますか」と質問しているのには驚いた。谷川は「質問が新人と同じじゃん」とびっくりしながらも、「今後も短歌を作り続けてください」としごくまっとうな答を返しているのがほほえましい。