第35回 笹公人『抒情の奇妙な冒険』

デンジマスク作り終えたる青年のハンダゴテ永遠とわに余熱を持てり
                  笹公人『抒情の奇妙な冒険』
 念力短歌の笹公人が放つ第三歌集である。歌集としては異例なことに、早川書房の「ハヤカワSFシリーズ Jコレクション」叢書の一巻として刊行された。ということは笹の短歌はもはやSFの領域に突入したのかと思われる。しかし巻末の栗木京子の解説は至極まっとうな歌集の解説である。また「寺山修司は『架空の私』を、笹公人は『他人のノスタルジイ』を手に入れた」という山田太一の帯文は、さすがに笹の本質を突いて鋭い。寺山修司の抒情を最も色濃く現代に受け継いでいるのは、喜多昭夫と笹公人だと思うからである。ただし、喜多は寺山の青春短歌の抒情に、笹は想像力による自己変身願望により比重がかかっているという違いはあるが。短歌がフラット化して短歌的抒情からますます遠くなる現代短歌シーンにあって、やや変則球ながら正面から抒情を詠う笹は独自のスタンスを築きつつあると言えるだろう。
 歌集題名の『抒情の奇妙な冒険』は、週刊少年ジャンプに連載された荒木飛呂彦のマンガ『ジョジョの奇妙な冒険』のもじりである。笹自身はこのマンガに特に思い入れがあるわけではなく、題名だけを借用したらしい。スタンドと呼ばれる超能力を持つ登場人物の戦いが中心のマンガだが、数々の奇抜なスタンドを考案する想像力と、ありえない姿勢を取る人物画の魅力と、散りばめられた洋楽へのオマージュなどから、特に美術系の若者に熱狂的な支持を得た。登場人物のポーズをまねる「ジョジョ立ち」なる言葉も誕生し、毎週集まってポーズを競うサークルまであると聞く。かく言うわが家にも全63巻が揃っており、第5部のイタリアを舞台とするエピソードのゆかりの地をめぐる旅行を家族でしたほどなのだ。 
 さて掲出歌だが、「デンジマスク」はTVの戦隊もの電子戦隊デンジマンの登場人物がかぶる戦闘用ヘルメットだろう。青年はそのマスクを自作しているのだから、週末に秋葉原でコスプレをするオタク青年で、場所は木造アパート2階の四畳半がふさわしい。ラジオ工作の必須アイテムのハンダゴテは役割を終えて机に置かれているのだが、ハンダゴテが放散する余熱は言うまでもなく青年の熱い魂の喩である。下句「ハンダゴテ永遠に余熱を持てり」の8・7音の収め方が短歌的にうまい。
 歌集巻頭に置かれた「大きなる手があらわれてちゃぶ台にタワーの模型を置きにけるかも」という歌が、「大きなる手があらはれて昼深し上から卵をつかみけるかも」という北原白秋の歌の本歌取りであることからも推察されるように、笹はある意味で現代短歌というより近代短歌の流れの中に位置すると言ってよい。というのも現代短歌は音数律の組み替え・暗喩の多用・枕詞などのレトリックの復活など、短歌の表現面の革新に腐心してきたが、笹の興味は表現面にはなく、短歌という古い革袋にどのような酒を入れるかという点にあるからである。古い革袋に古い酒を入れてはおもしろくない。しかし短歌的抒情は古い酒である。これをいかに新しく見せて古い革袋に入れるかに工夫が必要だ。その工夫は今までは念力というキーワードだったのだが、今回笹はあえて念力を封印して、新しい試みに挑戦している。それが山田太一の帯文にあった「他人のノスタルジイ」なのだ。この歌集では過ぎ去った昭和という時代への郷愁が、全体を支える文化装置として採用されていることがわかる。
ベーゴマのたたかう音が消えるとき隣町からゆうやみがくる
しのびよる闇に背を向けかき混ぜたメンコの極彩色こそ未来
人攫いのうわさが少女を暗くして真っ赤に燃える東京タワー
東京に負けた五郎の帰り来て大工町の名はまた保たれる
鉄人を地下に隠して夕暮れる博士の洋館やかたは蔦に覆われ
 巻頭の「四丁目の夕焼け」と題された章から引いた。この題名そのものが映画「Always 三丁目の夕日」のもじりであることは言うまでもない。歌に登場する「ベーコマ」「メンコ」は、1975年生まれの笹にはすでに過去形の遊びだろう。「東京に負けて地方に戻る」という図式もまた高度成長期特有のものである。「鉄人」は横山光輝のマンガ「鉄人28号」だから、笹はリアルタイムで見てはいない。だからこれらの短歌に散りばめられたアイテムは笹自身のものではなく、「他人のノスタルジイ」なのである。ちなみに「大工町」は寺山へのオマージュかと思われる。
鞘鳴りの音にふりむけば花の森 MISHIMAに降りる武士の魂
鉄球が俺の部屋までぶっ壊す夢から醒めて外は大雪
暑中見舞いのハガキをくれたお姉さん陽炎のなかで永遠とわに微笑む
廃駅に兆せる凶事のまぶしさに金田一耕助が手を振る
 一首目は三島由紀夫割腹事件に材を採ったもので、「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに畿とせ耐へて今日の初霜」という三島の辞世と、初期作品「花ざかりの森」と映画「MISHIMA」の題名を詠み込んだ凝った作りである。二首目は連合赤軍浅間山荘事件、三首目はキャンディーズ解散、四首目は角川映画の金田一耕助シリーズで、70年代から80年代にかけての時事を背景としている。四首目はひょっとして、「廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり」という小池光の歌を踏まえているのか。
 なぜ笹は古い革袋に抒情という古い酒を盛るのに「他人のノスタルジイ」という仕掛けを必要としたのか。その背景には、リアリズム近代短歌における〈私〉イコール「作者の私」という図式がすでに壊れていることがあるだろう。この点において笹は寺山の直系の子孫と言ってよい。寺山は新しい〈私〉を立ち上げるために、経歴の塗り替え・地理的遁走・犯罪といった物語を創作した。これらに替わるものが笹においては念力であり「他人のノスタルジイ」だと言えるだろう。抒情を詠うにはどうしても〈私〉が要る。フラット化した現代社会に抒情の芯となる手応えのある〈私〉が見あたらないならば、時代や場所をずらして作り出すしかない。こういうことだろうと考えられる。先に表現面において笹は近代短歌の流れの中にいると書いたが、この〈私〉の位相に関しては笹はまぎれもなく現代短歌の地平にいるのである。
 この点に関しては少し気になることがなくもない。2008年度の短歌研究賞受賞作「楽しい一日」や受賞後第一作「チャイムが違うような気がして」で、穂村弘がやはりノスタルジーという文化装置を濃密に用いていることである。
グレープフルーツ切断面に父さんは砂糖の雪を降らせていたり
                         「楽しい一日」
もう一度やってくれたら真剣にみるからラーマ奥様インタビュー
超特急ひかりの鼻に散らばった2年2組のプリクラたちは
ザリガニが一匹半になっちゃった バケツは匂う夏の陽の下
                 「チャイムが違うような気がして」
夕闇の部屋に電気を点すとき痛みのようなさみしさがある
魚肉ソーセージを包むビニールの端の金具を吐き捨てる夏
 穂村の歌が単純な子供時代の回想ではないことは言うまでもないが、歌に散りばめられたアイテムは確かに懐かしさを演出する子供時代のものである。笹の場合ほど明らかなゲーム世界の設定という訳ではないが、共通する匂いがあると感じるのは私だけだろうか。現代短歌があまりのフラットさに耐えかねて、時間の流れを漂流し始めたということなのだろうか。
 さて笹の方は「他人のノスタルジイ」によって抒情を発生させることに成功したのか。
あしひきの山下清におにぎりを持たせたという曾祖母トメは
鳥占の鳥を逃がした老師いてきらめく正月の中華街
町はいま既視感デジャ・ヴュの火事のほの明かり だれもかれもが顔をなくして
えんぴつで書かれた「おしん」の三文字にベータのテープを抱きしめており
 これらの歌を読むと確かにここには短歌の抒情がある。「おしん」の歌など涙が出そうだ。ただ笹の場合、昭和という時代設定やサブカルチャーなどのアイテムが余りに露出しすぎているので、不真面目だと感じる人もいるかもしれないのが心配だ。私は笹が不真面目だなどとはまったく思わないが。
 ほぼ同時期に笹は『念力短歌トレーニング』(扶桑社)を刊行している。こちらはブログの「笹短歌ドットコム」に寄せられた念力短歌を笹師範がコメントし、模範作を提示する趣向になっている。編集担当は扶桑社に移った藤原龍一郎らしい。知らなかったがこのブログには急逝した笹井宏之や『5mほどの果てしなさ』の松木秀も投稿していたのだ。笹井は念力短歌でも透明感溢れる笹井ワールドであるところがさすがだ。
グリズリーに跳ねあげられた紅鮭の片方の眼に映る夕虹  笹井宏之
ひとしれず海の底へと落とされた大王烏賊のなみだを思う
鉄筋にリサイクルされるUFOという身も蓋もなさもSFとして  松木秀
『にぎやかな未来』の世界で一番に売れる「4分33秒」
 このブログに集められた短歌を見ても、枡野浩一のマスノ短歌教と並んで笹の念力短歌が、今の時代に短歌を作ろうという若い人たちの一部を確実に引き寄せていることがわかる。
 先日このコラムで取り上げた寺山修司の遺稿集『月蝕書簡』に次のような歌がある。これに笹の短歌を並べてみてもあまり違和感がない。
少年が目を洗いいるたそがれを鞍馬天狗が帰る蹄音  『月蝕書簡』
包帯を巻かれて消えしわが指が恋し小学校の吸血鬼かな
六本木の黒人の喧嘩止めにゆく 魔太郎風の薔薇のシャツ着て
                     『抒情の奇妙な冒険』
花子さんの手をふりほどき逃げてきた少女の髪は焚き火のにおい
 歌集あとがきで笹は、念力という看板を外したことで自分は歌人として新たな冒険の時代に入ったと書いている。抒情をめぐる冒険の今後が期待される。