第36回 尾崎朗子『蝉観音』

カフェの壁あまりに白しエンダイヴこの苦さこそわれを在らしむ
                   尾崎朗子『蝉観音』
 短歌を読むときの理想的な形は、私の前に一冊の歌集があり他には何もないという状態である。とりわけ目の前の歌集と表紙に印刷された著者名以外に、予備知識が一切ないことが望ましい。私は何の予備知識も持たず、裸の心で歌に出会う。これが理想である。嗚呼しかし、なかなかこうはいかない。要りもせぬ知識や雑多な情報を知らぬ間に身につけてしまっている。しかし今回取り上げる尾崎朗子については、幸い何の予備知識もない。白紙の心で歌の世界に踏み入る喜びを味わうことができた。
 米川千嘉子の解説によれば、尾崎は1999年に「かりん」に入会し、2001年には結社内の「かりん賞」を受賞している。2008年に上梓された『蝉観音』は第一歌集である。掲出歌のエンダイヴはときにチコリとも呼ばれる外国野菜で、白菜をうんと小型にしたような紡錘形の形状をしている。ほぼ純白で葉先がほんのり黄色い。欧州ではサラダかグラタンにして食する。生のままざく切りにし、干しぶどうを混ぜてドレッシングで和えると美味しい。その特徴は苦みであり、歌でもその味覚に焦点が当てられている。カフェの壁の白さとエンダイヴの白さが照応しているのだが、「あまりに白し」とあるから〈私〉はその白さを受け止め切れない心理状態にあるのだろう。口に感じるエンダイヴの苦みだけが〈私〉の存在の証だという実存的な歌である。「この苦さ」という近称の指示表現が強さを生んでいる。叙景よりは叙情、なかんずく〈私〉に執した立ち位置であり、それは収録されたほぼすべての歌に共通する特徴でもある。
円満はあきらめに似てリビングにはつか漂ふ熟柿のかをり
ぎざぎざの微妙に異なる鍵七つ持ちゐるあなたが持たぬわたしく
薄目して月見れば月ふたつありあなたに一つわれにも一つ
うららかな春に戸籍を作りたり筆頭者われに続くものなし
生ぬるき水道水を火にかけて中途半端をくつくつ沸かす
画材屋で槐多のガランス求めたり逃げごしなこの恋に塗らむと
 最初の四首は離婚の歌で、気持ちのすれ違いから離婚に至るまでの心の動きがかなり率直に詠まれている。表面的には円満に見えても実は心が通わない夫婦の状態を象徴する熟柿の退廃的な香りや、すれ違う心を象徴する鍵のぎざぎざなどに一応短歌的な工夫は施されてはいるのだが、作者のねらいはそこにはないだろう。これは芸術的完成をめざす歌ではなく、自己を確認し鼓舞するための歌だからである。芸術至上主義者は芸術の無用性をおのれの勲章とするが、尾崎の歌の向かうベクトルは逆方向である。風邪薬のごとくに有用な歌なのだ。たとえば上にあげた五首目や六首目の歌を見るとそのことはよくわかる。水道水の生ぬるさは自己の優柔不断の喩であり、作者はそれを何とかしようと鼓舞している。六首目のガランス (garance)はフランス語で植物のアカネまたは茜色の染料のこと。茜色の絵の具を塗ることで村山槐多の絵の激しさを自分の恋に与えようとしている。このように歌の中に〈私〉のすべてを投げ込もうとするのは、女性の歌のひとつの特徴かもしれない。
顔知らぬ父の記憶を燻らせむ十五歳じふごのわれのいとなむ煙草忌
われ産みし人のうはさを聞くゆふべ肉じやが煮すぎてじやが崩れたり
祖母の家祖母逝きたれば消え去りぬ更地売地のわが本籍地
産まぬこと決めてをりしが初夏の軒のつばめの子ひとつ盗ろか
モルヒネのポジ借りられず「骨転移」特集記事の余白埋まらず
 両親の離婚か父親の早世によって作者には父親の記憶がなく、また訳あって祖母のもとで育てられたことが歌から透けて見える。このため最初の三首のような血縁をめぐる歌があり、それはかなり重い。二首目は秀歌で、「肉じやが煮すぎてじやが崩れたり」の下句は、小笠原和幸の「ただ二人この家に住む日が来たら継母よ蜆が煮え立っている」の下句と遠く呼び交わす趣がある。作者は働く女性であり、歌から察するに雑誌か新聞に関わる仕事に就いているようだ。次に引くのはそんな働く女性の日常を描いた歌である。
闘牛の角あはせのごと乗り込める朝の車輌にひとの声なし
駅前のストアは終電まで開いて今夜の豆腐は木綿と決めぬ
蜻蛉をつきしたがへてわたくしを奪還しにゆく日曜の朝
東京タワーには東京タワーの疲れあるらしく踏ん張つてゐて経絡凝る
多摩川にその身さらして都鳥きつつなれにしもの脱ぎすてよ
 労働はときに心を磨り減らすが、三首目以下のように女子の覚悟を詠う歌が多い。「蜻蛉をつきしたがへて」はそのかみの女王のごとき風格である。四首目は東京タワーの疲労に自己を託した歌。東京タワーにも経絡があるという見立てがおもしろい。五首目は業平の歌に心情を託した決意の歌である。近年、男性の歌より女性の歌にいさぎよい歌が見られるのも時代の流れか。
 「アポトーシス」「細胞年齢」などおそらく仕事で接したと覚しき単語が歌にうまく取り入れられている点も見逃すべきではないが、食へのこだわりを感じさせる歌に特に目が行く。掲出歌もそうだが食材を詠んだ歌がかなりある。飲食は人間の基本的行為だが、歌の中では食べ物にも心情がからまっているのであり、その心情の多くは恋である。
底冷えのする夜もづく酢すすりたりひとつの沼を飲み込む心地
黄金なすカルボナーラのしつこくて右肩さがりに暮れてゆく秋
別れても冷奴など食むならむめうがきりりと食みて泣くらむ
奈落には奈落の息抜きありぬべし 石焼ビビンバぐちやぐちや混ぜる
 最後に特に注目した歌を引いておく。
瑪瑙玉みがきみがけり雨月の夜わが掌中に木星はあり
むらさきの胡桃の雌花ひらきたりつつましくわれら交感せしのち
鶏卵を割ればひとすぢの血のありぬ満ちることなき月を抱へて
みづからの泪に渇き癒すとふ砂漠のとかげのその泪はや
酢にひたし蓮のカルマをぬぐひたり ああ今生では添えぬのだらう
腐蝕せしのちにあらはる線勁し銅版画の鳥われより発てよ
 最後の歌は巻末に置かれた歌で、腐蝕した後の線こそ勁いという言挙げに作者の決意を見るべきだろう。作者の歌の力が十分に発揮された第一歌集である。