第360回 濱松哲朗『翅ある人の音楽』

諦めたものから燃えて空色の地図を汚してゐるバツ印

濱松哲朗『翅ある人の音楽』

 本コラムを書くとき、まず冒頭の掲出歌をどれにしようかと考える。なるべくならば作者の個性をよく表す歌で好きなものを選びたい。付箋の付いた歌を読み返してすぐ決まる時もある。しかしあれこれ迷ってなかなか決まらないこともある。本歌集の場合はどうしようかと迷い、付箋の付かなかった歌を選んだ。それには後で説明する訳がある。

 巻末のプロフィールによれば、濱松は1988年生まれ。京都の立命館大学に在学中に「塔」に入会し、そののち「立命短歌」「穀物」に参加したという。2015年に「春の遠足」で現代短歌社賞の次席に選ばれているが、その歌は本歌集には収録されていない。『翅ある人の音楽』は今年(2023年)出版された第一歌集で、2014年から2021年までに制作された歌から420首を選び再構成したものだという。学友の小説家高瀬隼子、染野太朗、真中朋久が栞文を書いている。

 歌集を読み進んで私が付箋を付けたのは次のような歌だった。

耳鳴りに滲める声のとほくあれば黙秘のごとくゆふだちに入る

色彩の果てなる夜に鬼灯の実のうづきつつ照り深まらむ

氷とはみづとひかりの咎なるを鳥よこの世の冬を率いよ

遠近の窓に溶け合ふ明け方をひとふで書きの鴉つらぬく

砂に足さらして立てばくづれつつ定まる指と砂のかたちは

 一首目、耳鳴りという身体感覚にまず焦点が絞られ、次に遠くから響く音へと移ることにより空間が広がる。体の内部に耳を傾ける上句から一転して、下句では沛然と降る夕立の情景へと転じる。「黙秘のごとく」という喩が切り替わる世界の仲立ちをすると同時に、歌の中の〈私〉の心中にわだかまるものがあることを示す。上句から下句へと繋がる構成が優れている。

 二首目、昼間はさまざまな色の看板や幟旗がある町も、夜になると色は存在を潜め闇へと主権を譲る。人気のない路地の民家の玄関の乏しい照明に、赤く色づいた鬼灯が照らされている。「うづく」と「深まる」という動詞が、作者の心情を暗示している。

 三首目、上句にはかなりの詩的飛躍がある。氷が水からできているというのは常識の枠内である。しかし氷が光からできているというのは日常を超えた詩的把握だ。しかもそれが「咎」とは。一体何の罪を犯したというのだろう。読む人はそこに何らかの物語があることを予感し、かつそのように見立てる〈私〉の心情の機微に触れる気がする。下句は一転して、空高く飛翔する鳥への力強い呼びかけとなっている。

 四首目は通勤電車の風景だろうか。明け方の車窓からは、遠くの山並みと近くの街並みが溶け合うように見えている。「遠近の」は「遠近の風景」が圧縮されたものである。〈私〉は朝早いこともあり、眠くて意識が覚醒していない。そんなぼんやりとした視野の中を一羽のカラスが鋭く横切る。その飛ぶ様は文字を一筆書きしたようで、何かを知らせる予兆のようでもある。「ひとふで書きの」という暗喩が効果的だ。

 五首目、裸足で浜辺に立っている。寄せる波が足を洗う度に足下の砂が流されて、姿勢がぐらぐらして定まらない。しかし何度かそんなことを繰り返すうちに、足の指がしっかりと砂を掴んで立つ。子供時代に夏の海辺で誰もが経験したことのある情景ながら、歌全体が人生における何かの喩と取ることのできる高階の意味作用を感じてもよい。

 上に引いた歌は端正な文語定型で、叙景(物や場面)と叙情(作者の心情)とが適切な配分比率で詠まれている。言葉に無理な負荷がかかっておらず、韻律の流れも滑らかである。このような歌を引いて、そこに作者の歌風と個性を見てもよいのだが、読み進むうちにそれは少しちがうのではないかと思うようになった。集中には次のような歌も多く見られるからである。

茫然の流しにむかひ梅干しの種のみ残る弁当あらふ

わが裡に互ひちがひに組みかへすわれの気配の夜ごと深まる

わたしにも凍える声のあることを笑へば笑ふほどにくるしい

同じ目をしてゐるわれに怯えたるみづからを逃さずわが目は

ふくらめばみな泡となる強欲をあるいは日々の嵩増しとなす

 一首目、切り取られた情景としては、台所の流しで弁当箱を洗っているのだが、作者が言葉によって表現したいのは「茫然」である。何か茫然とするほどの出来事があったのだ。残りはそれを実景として支える素材にすぎない。二首目の歌意は今ひとつ判然としない。何かの選択を迫られているのか、あるいは相反する感情が湧き上がっているのか。いずれにせよ作者の目は葛藤する心の内側だけを見ている。三首目、「凍える声」とは、何かに驚いて凍えた声なのか、それとも人に発する冷たい声なのか。いずれにせよ歌の〈私〉は制御できない感情に囚われている。四首目は鏡で自分の顔を見たのだろうか。それとも自分と同じ目をしている人を見たのだろうか。〈私〉が見つめているのは自分である。五首目では、自らの内部を見つめる余り、歌に詠むべき具体的な物が形を失っている。

 聞くところによると、油絵を志す画家の卵はまず自画像を描くという。画家は鏡に映る自分を描くことで、「見る」ことを学ぶのである。それにならって言うならば、ここに挙げた歌はすべて作者の自画像であると言ってよい。どうやら濱松は、「自分がどのような人間なのか」という問にいちばん関心があるようなのだ。もしそうだとすると、濱松にとっては名歌を作ることが目標なのではなく、自分を発見することが作歌の目標だということになるように思われる。付箋の付かなかった歌を冒頭の掲出歌に選んだのにはこのような経緯がある。

 歌集の題名ともなった「翅ある人の音楽」という連作は物語性に富む不思議な一連である。まず一首だけ別に置かれた次の歌が作品世界の扉を開く。

水鉄砲持ちゐし頃に出逢ひたるうすき翅ある人のまぼろし

 子供時代に翅のある人、つまり妖精と出逢ったというのだ。妖精と言えば、コティングリー妖精事件が名高いが、濱松はこの一連でひとつの物語の扉を開こうとしているようだ。

地図のうへに道は途絶えて逃げ水の角を曲がれといふナビの声

ひるがほの蔓に埋もるるバス停のわづかに西へ傾ぎたる音

をとこみなをとこのこゑになりゆくをかつてめたる鶏の爪痕

近づいて来ると判つてゐたものを、炭坑節にカンテラ揺れて

カセットテープの爪折られたる日のありてカストラートの晩年を聴く

アカペラの歌詞に息づく狩人かりびとは父亡きのちを森に棲むとふ

 地図にない道をナビに導かれて異界へと足を踏み入れる。そこには人がおらず、無数の湧水が溢れているという。随所に翅のイメージが揺曳しつつ、音楽堂で催される音楽と炭鉱のイメージが重なるという不思議な構成である。その合間に次のようなカタカナ書きの台詞が挟み込まれている。

 

男ノクセニ、女ミタイナ声を出シヤガツテ。

オマヘノ歌ハツマラナイ。女ノ歌ノ悪イトコロバカリ吸収シテヰル。

オマヘノ書イタモノヲ「名文」ダナンテ、ヨク言ヘタモノダ。

 

 非常に手の込んだ重層的な世界が構築されている。ひとつの手がかりは上に引いた三首目「をとこみな」にあるようだ。少年期を脱する時に起きる声変わりである。そして五首目の「カストラート」は、その昔、欧州で行われていた去勢によって高い声を保った歌手である。そこから推察するに、翅ある人のいる異界とは失ってしまった少年期のことではないだろうか。カタカナ書きの台詞はそのような夢の世界を壊そうとする外部からの声か。とても演劇的な連作となっている。

 濱松の歌の世界の重要な要素に音楽がある。

耳で聴く風景ならば雪原は最弱音のシンバルだらう

オルガンに灯る偽終止、頑張れば楽になるとふ属音ドミナントあはれ

単音は波のみなもと わたくしのいづみに足を晒すものたち

何度でも鳴りかへすから 色彩を一度うしなふための五線紙

フェルマータ 泣いてゐるのはわたしではなくてかつての庭の思ひ出

 濱松はよほど音楽に造詣が深いと見える。二首目の「偽終止」は、終わるとみせかけて解決以外のコードに移る手法をいう。「偽終止」「属音」「単音」「五線紙」「フェルマータ」などの音楽用語を、人生の様々な紆余曲折について語る喩として用いているが、基本的に音楽の世界は作者にとって良き世界である。そういう世界をひとつ持つことは大事なことだ。本歌集にはままならない人生に寄せた歌も多くあるが、そんなときに支えになるのが良き世界だろう。

またひとりここからゐなくになる春の通用口にならぶ置き傘

非正規で生きのびながら窓といふ窓を時をり磨いたりする

三か月単位にてわが就業はいのち拾ひをくりかへしたり

 最後に付箋の付いた歌の残りを引いておこう。

ああこれも真水の比喩か、透きとほるグラスに冷ゆるレモンの輪切り

暗殺をのちに忌日と呼び替へて年譜にくらく梔子ひらく

まばたきは記憶のふるへ 崩ゆるものみな灰白くわいはくの影をともなふ

お気に入りだつた絵本の鳥の名を呼ぶとき喉はもう燃えてゐて

滲みくる汗をぬぐへばわれになほ宿痾のごとく生よこたはる

水ぎはを裸足で逃げる 蹴散らした飛沫を掬ふための五線譜

たましひの速度に朽ちてあぢさゐの花曇天に錘のごとし

押し花の栞にはなの声のこり折をりに泥のおもてをなぞる