第362回 睦月都『Dance with the invisibles』

壺とわれ並びて佇てる回廊に西陽入りきてふたつ影伸ぶ

睦月都『Dance with the invisibles』

 待望のと言うべきか、睦月都の第一歌集『Dance with the invisibles』が出版された。版元はKADOKAWAで、装幀は花山周子、栞には水原紫苑、東直子、染野太朗が文を寄せている。およそ考えられる最強の組み合わせで、歌人睦月に寄せる期待の大きさが感じられる。中身に入る前にタイトルと造本に立ち止まりたい。

 歌集題名のDance with the invisiblesは、「目に見えないものたちとのダンス」という意味だろう。もし定冠詞がなくてDance with invisiblesだったら、何だかわからない不特定の目に見えぬものたちだが、定冠詞があるのでそれと特定されている不可視のものたちである。つまりそのものたちは作者に馴染のあるものたちなのだ。それが何かは詳らかにしないものの、ずっと作者の傍らにいたものと思われる。

 花山の装幀は基本的にモダンデザインだが、本書は異なるテイストの装幀である。表表紙のダンスをする三人の少女、周囲を取り巻く花柄、扉の見返しの博物誌の一葉のような図が、廃園の図書室に置き忘れられた古い写本のような雰囲気を本書に与えている。添えられた解説のラテン語を読み解くと『貝類誌』とあり、何かの貝の幼生を描いた図らしい(注)。

 睦月は2017年に「十七月の娘たち」で第63回角川短歌賞を受賞している。その年の次席にはカン・ハンナ、佳作には辻聡之や知花くららがいる。受賞から6年経っての第一歌集である。待望の、とはそういう意味だ。

 角川短歌賞の選考座談会を読み直してみると、睦月を推したのは小池光と東直子である。特に小池は二重丸を付けていて、「様式美がある」「歌の骨格、形に美しさがある点では、今回の応募作品の中では一番な気がする」「一言で言えば『詩』がある」と称賛している。東も「ポエジーという点では一番ある作品だと思いました」と評している。二人の選考委員の意見は一致して、睦月の短歌の「ポエジー」「詩」を評価しており、本歌集を通読した人もまた同じ感想を抱くに違いない。栞文で染野は、「この歌集の歌の韻律や質感にまず没入させられ、没入に気づいてあわてて距離を取り、でも気づけばまだ没入し、とくりかえしてなんとか読みおえ」たと述懐している。私も同じで、読み始めるや歌の世界に吸い込まれ、歌に導かれるままに広大な世界をあちこちと彷徨い、読み終えてこの国に別れを告げるのが惜しいほどだった。歌集を読んでそんな濃密な経験をすることはそう多くはない。

 睦月の短歌の美質は何と言っても詩想の豊かさと深さではないかと思う。それは集中のどの歌を取っても感じられる。

灯油売りの車のこゑは薄れゆく花の芽しづむ夕暮れ時を

昨日と今日がまちがひさがしの絵のやうにならぶ九月の朝の食パン

春の雨ぬがにそそぎゆるやかに教会通りをくだりゆきたり

われにある二十の鱗すなはち爪やはらかに研ぎゐるゆふべ

腕の傷さらして小径歩むとき傷より深く射せる木漏れ日

 一首目は巻頭歌で栞の裏にも印刷されている。歌の季節は冬だが、春はそう遠くはない春隣か。町にストーブ用の灯油を売る車がやって来る。たいていはお決まりの音楽を流している。やがて車は遠ざかり、売り声も薄れてゆく。ここまでが出来事の描写である。この歌の詩想の鍵は「花の芽しづむ」にある。冬の最中にあって木々は春の芽吹きを用意している。それを「しづむ」と表現したのである。わたしは思わず『短歌パラダイス』(岩波新書)屈指の名歌「家々に釘の芽しずみ神御衣かむみそのごとくひろがる桜花かな」という大滝和子の歌を思い出した。

 二首目は朝の食卓を詠んだ歌。食卓に毎日並ぶ食パンは、昨日のものと今日のものと見分けがつかない。それは日々の暮らしの単調さの象徴である。それはまちがい探しのようなのだが、その単調さを嘆くのではなくむしろ慈しむ眼差しが感じられる。秋冷の感じられる九月という時間設定もよい。

 三首目は春の雨の情景。「消ぬがに」は万葉でも使われた古語で、「消えてしまいそうになるほど」の意。この歌のポイントは「ゆるやかに」だろう。古い教会のある通りは坂道になっている。古くから人の住む閑静な住宅地なのだ。しめやかに降る春の雨がゆっくりと流れてゆく。無音の中で世界が微光を発しているようだ。

 四首目は生物の進化に思いを馳せた歌。私の祖先はかつて水に棲む魚だったとするならば、手足に20ある爪はさしずめ残った鱗だろうという想像を膨らませている。女性が身体を歌に詠むとき、そこには柔らかさとある情感が醸し出される。

 その一方で五首目は同じく身体を詠みながら、痛みを感じさせる歌である。「腕の傷」は階段で転んで擦りむいた傷かもしれないが、ひょっとしたらリストカットの痕かもしれない。その傷を隠さずに晒すのはある決意を感じさせる。木漏れ日が傷より深く射すというのは、その傷を負った痛みがまだ癒えていないからだろう。

 睦月の短歌の特質のひとつは、日常の風景と大きな世界とが不意に接続される詩想の飛躍である。

さみしさに座るキッチン ほろびゆく星ほろびゆく昼のかそけさ

春の夜によそふシチューのごろごろとこどもの顔沈みゐるごとく

アルカリの匂ひたちたる夜のスープ啜りつつ恋ふ土星の重力

黄昏のSpotifyより流れくる死者の音楽、死者未満の音楽

まぼろしが滅びてしまふまでの間の牡蠣にレモンを搾りゆくなり

 一首目では、赤色矮星が爆発して死を迎える何万光年も彼方の世界と台所とが、〈私〉の想いを梃子として繋がっている。二首目ではシチューの中のジャガイモやニンジンとどこか遠い世界で溺れる子供が、三首目ではスープの芳香と土星の重力が不思議な糸で結ばれる。四首目はなるほどと納得させられる歌。モーツアルトもスカルラッティもこの世にいない死者である。しかし現在存命の作曲家もまたいずれは死者となる宿命だ。五首目の幻が何かは定かではないが、ひょっとしたらこの世界というまぼろしかもしれない。想いを通して接続される世界がしばしば悲傷の色濃いことも注目される。

 レズビアンや女性への思慕を詠んだ歌も集中に散見される。

春の二階のダンスホールに集ひきて風をもてあますレズビアンたち

女の子は好きになつたのはいつ、と 水中でするお喋りの声

わたしの彼女になつてくれる? 穂すすきのゆれてささめく風の分譲地

香水をたがひに交換して秋の夜を抱く 耳のうしろがひかる

グラスの底に残る琥珀酒飲み干してあしたは女の子と踊る約束

 香水の貸借りは女性特有のことなので、どこか密やかで甘やかな雰囲気があり、歌に柔らかさを与えている。

 睦月の歌にはほとんど人物が登場しない。それは睦月にとって短歌が端的に〈私〉と〈世界〉を架橋するものだからだろう。例外的に母と妹が歌に詠まれているが、生きている人間の生々しさがなく、どこか童話の中の人物のようでもある。

娘われ病みて母きみ狂ひたまふ幾年まへの林檎樹の花

いもうとの靴借りてゆく晩春のもつたり白き空の街へと

お母さんわたし幸せなのと何度言つても聞こえぬ母よ 銀杏ふる日の

秋なれば光澄みつつある昼を妹の婚告げられてゐつ

 三首目の母は、結婚せず子も成さない娘を嘆く母である。そこに僅かに母子の関係性が見て取れる。付箋の付いた歌を見てみよう。

柄杓星そそぐ憂ひの満ちるまに猫をかかへて切る猫の爪

わが生まぬ少女薔薇園を駆けゆけりこの世の薔薇の棘からむに

ゆりの花すこし目で追ひ、はづしたり 外して戻る夏の会話に

鍵屋に鍵ひしめく夜よ 輪廻するたましひの待合室のごとくに

誰の記憶からも逃れたき夜明け前塩化コバルトの空滲みたり

糸通しにられし銀の横顔の婦人つめたし月面のごとくに

 一首目の柄杓星は北斗七星のことで、「柄杓星そそぐ」は「憂ひ」を導く詞書きである。二首目は角川短歌賞を受賞した「十七月の娘たち」の中の一首で、選考座談会ではこの「娘」は何かがひとしきり話題になった。しかしこうして見るとそれは明らかで、婚をなさず生むことのない幻想の娘である。三首目は、誰かが持って歩いている花束の百合をちらと見て、友達とのおしゃべりに戻ったというだけの歌なのだが、なぜそれがかくも魅力的なのだろう。それをうまく説明することができないのがもどかしい。「すこし目で追ひ、」に読点が打たれているのは、ここで少し間を取ってほしいという作者の意図である。この間が絶妙で歌を生きたものにしている。「はづしたり」の後の一字空けでさらにひと呼吸置くことになる。この呼吸のコントロールが歌の魅力の秘密ではなかろうか。四首目は鍵屋の夜の光景を詠んだファンタジー風の歌で、これを見て「眼鏡屋は夕ぐれのため千枚のレンズをみがく(わたしはここだ)」という佐藤弓生の歌を思い出した。「醫師は安樂死を語れども逆光の自轉車屋の宙吊りの自轉車」という塚本邦雄の歌もあり、「○○屋」を詠んだ歌を集めると面白いかもしれない。鍵屋を詠んだ歌は初めて見た。

 五首目、睦月の歌には時折理系の用語が混じる。この歌の問題は「塩化コバルト」の空が何色かである。『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、塩化コバルトの分子式はCoCl2。「淡靑色、葉片状の吸湿性結晶。湿った空気に触れると淡紅色に変る」とある。つまり通常は薄い青色なのだが、湿ると薄い紅色になるのだ。それを踏まえるとこの歌の空は夜明け前の靑色から朝焼けの紅色に変化したとも読める。

 六首目の糸通しとは、針の目に糸を通すための器具で、指でつまむ部分に婦人の顔のレリーフがあるのだ。糸通しと婦人と月とが女性性という共通の特徴によって並べられ、呼応する世界線を形作っている。

 2023年はまだ2ヶ月半ほど残っているので気が早いことは承知の上だが、少なくとも今年目にしたうちで最も内容充実した歌集であることは疑いない。

【追記】
 本歌集は第68回現代歌人協会賞を受賞した。(2024年6月2日追記)
【注】
「かばん」2024年6月号が『Dance with the invisibles』の特集を組んでいる。その中で装幀を手がけた花山周子へのメールインタビューが掲載されている。作者と相談しながら装幀を決めてゆくプロセスが明かされていて興味深い。花山によると見返しの博物画はナメクジの解剖図だということである。(2024年7月4日追記)