第366回 川﨑あんな『triste』

透き至るものの綺麗さはなちつゝ立つ空き瓶のゆふぐれは あき

川﨑あんな『triste』

 川﨑あんなには、『あのにむ』(2007年)、『さらしなふみ』(2010年)、『エーテル』(2012年)、『あんなろいど』(2013年)、『ぴくにっく』(2015年)、『EXIT』(2017年)の六冊の歌集があるので、2023年に左右社から刊行された本歌集は第七歌集ということになる。二〜三年ごとに歌集を出版しており、スランプなどとは無縁の健筆ぶりである。前の歌集と同じく本歌集にもあとがきやプロフィールはなく、〈私〉の消去は徹底している。実は川﨑は歌人であると同時に彫刻家でもあり、『KAWASAKI Anna作品集』(美術出版社、2011年)でその作品を見ることができる。

 歌集題名のtristeはフランス語で「悲しい、侘しい」の意味。今までの歌集と異なる点は、一葉の写真が添えられていることである。地下室のような場所でガウンを纏った人形の白黒写真で、クレジットにはHans Bellmer, La Poupée, 1938とある。ハンス・ベルメールはドイツの美術家・写真家・人形作家で、等身大の関節人形を作ったことで知られている。

 このコラムで川﨑の歌集を論じるのは『エーテル』と『あんなろいど』に続き三度目になる。最初は作者についての情報がなく、川﨑の短歌に触れた文章も吉川宏志の青磁社のブログくらいしかなかった。しかし瀬戸夏子『はつなつみずうみ分光器』(左右社、2021年)でついに『あのにむ』が取り上げられた。こうして川﨑の短歌が多くの人に知られるのは喜ばしいことである。そのなかで瀬戸は、川﨑の短歌では音連続が重要で、意味が淡いことが歌集のムードを作りあげていると指摘している。それはその通りである。しかし第一歌集から16年を経て、川﨑の短歌は新たな独自の文体を志向しているように見える。それは次のような文体である。

チェスト、其のなかを薔薇いろのものあらざるは元より の

もはや替へどきとも残りすくななる石鹸 の薄さほどの

今世紀晩夏のころを醸せるはねぬなはのmonsieur むしぅゔぁるさん

ぶるうぐれいなるとーんに翳る木陰と山影とそのなかをはひれる のひと

みなとえをとはにゆくひとありとふは今もあなすたしあ・にこらえゔな・ろまのゔぁ

 以前から川﨑は文語(古語)・旧仮名遣で短歌を作っているのだが、ここへ来て新たに加わった文体の特徴の一つは平仮名の多用である。上に引いた歌でもわかるように、カタカナ語まで平仮名で綴っている。これはどういう効果をもたらすか。

 表意文字である漢字は、脳が行なうパターン認識によって、音の層を経ずに意味に到達する。このため読字時間が短い。一方、表音文字である仮名には意味がなく、音のみを表している。必ず音の層を経て意味に届く。一文字一音節(モーラ)であるため、漢字に較べて読字時間が長くかかる。おまけに漢字仮名混じり文だと「社長は / 午後には / 東京に / 居るだろう」のように、内容語は漢字で書き機能語は仮名で書くので、文節の区切りがはっきりわかる。ところが平仮名がずらっと並ぶと、どこで文節が切れるのかがわからず行きつ戻りつするために、勢い読字時間が長くなる。読者は音と意味の境界層をふらふらとさまよって、思いがけず歌の中に長く滞在するのである。この「音と意味を隔てる境界層の浮遊」が川﨑の狙いであることはほぼ間違いない。

 川﨑の新たな文体のふたつ目の特徴は「統辞の脱臼」である。「統辞」(syntax)とは、単語を適切な順序で並べて文を作ることを言う。たとえば上に引いた一首目を見てみよう。まず「櫃」で切って読点が打たれているのが普通ではない。川﨑は助詞の「に」を体系的に「を」に置き換えるので、「其のなかを」は普通ならば「其のなかに」となるべきところである。次に「薔薇いろのものあらざるは元より の」で一字空けて置かれている助詞「の」が宙吊りになり、連接する対象を奪われている。これは言いさしどころではなく、もはや意図的に統辞がずらされているのである。同じことは二首目の「の薄さほどの」や四首目の「のひと」にも言える。

 三首目には珍しい「ねぬなはの」という枕詞が使われている。「ジュンサイを繰って採る」という意味から、「来る」「苦し」にかかるとされている。ところがこの歌では次にフランス語のmonsieurという語が置かれている。このような珍しい枕詞を挟むと、文節の切れ目がさらにわかりにくくなり、読者の行きつ戻りつが増える。またここにはmonsieur「ムッシュー」と「無臭ヴァルサン」の音遊びがある。殺虫剤の「バルサン」はふつうは「バ」と表記されているが、Varsanと綴るのでご丁寧に原音を復元して用いている。

 五首目のアナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノーヴァは、ロシア革命でニコライ2世とともに銃殺された皇女アナスタシアである。「私こそアナスタシア」と称する偽物が多く出たことでも知られている。この歌ではもっぱら音連続のおもしろさから置かれているように思われる。

冬瓜とままンのあはひをある風邪さういへば咳二つ三つして

いつもする音とはちがふ〈ふりうす〉のえんじん音にまぎるゝおとの

ぱあぷるのRody来たるは何時の日のときかともふも宅配便に

あぶら抜き決まつてするは油揚のいまをながれてゆくなる油分

見つゝあり夜の裡に雪は降りしやうと起きいでて窓をあければ

には早すぎるからもう少しねむりたいと潜る蒲団のなかのすいみん

 いずれも川﨑の作歌の自由さと軽みとユーモアがよく出ている歌である。一首目の「ままン」とは何だろう。冬瓜とままンの間にある風邪とは。二首目はたぶん愛車のプリウスのことを詠んでいる。三首目のRodyは馬の形をした子供用のバランスボールのこと。五首目と六首目は並んで置かれていて、おそらく首は繋がっているのである。六首目は口語体になっている。

 いつもとは違うエンジン音とか油揚の油抜きとかまだ眠いとか、歌に詠まれているのはどうでもよいような些事ばかりである。肉親の死も海の向こうの戦争も安保関連法案もない。これは川﨑の短歌が意味という軛から逃れようとしているからである。

 言語は意味(シニフィエ)と形式(シニフィアン)とからなる。形式はふつう音か文字だが、韻文の場合はこれに韻律が加わる。明治以来の近代短歌は自我の詩たらんとしてきたために意味の比重が高い。比較のために新聞歌壇の投稿歌を引く。

麻酔なくスマホのライトにメス握る医師の腕には包帯まかれ

         瀬口美子(朝日歌壇 2023年12月17日)

もやし一つ一つ異なる向きに寄りあへるものの集積の白皿のうへ

                  川﨑あんな『triste』

 瀬口の歌は今まさに地上戦が行われているイスラエルのガザ地区の病院の様子を詠んだものである。ニュース映像を見て作った歌と思われる。ほぼ定型の短歌だが、一首の伝える意味が形式よりも勝っている。一方、川﨑の厨歌は、皿に盛ったもやしが一本一本異なる方向を向いていることに注目している。言われてみればそのとおりだが、殊更に言うほどのことでもない。意味は極めて薄く量が少ない。意味の含有量が少ないと、それに反比例して形式の重みが増す。意味の軛から解き放たれた短歌形式は、中ががらんどうの梵鐘のように形式の持つ音を響かせることになる。

 このような選択がもたらす帰結のひとつは名歌主義との離別である。意味と形式とが緊密に絡み合って一首として屹立するのが名歌だとすると、川﨑の短歌のように中身を空洞する作風は名歌とは無縁である。読者はそれに替わって、短歌という形式を纏った言葉が〈私〉を離れて虚空に反響する美しい音を聴くことになる。それはたとえば次のような歌から響いている。

夕髪ははなちたりけるいろあひの淡きを蒐め為るまとめがみ

あといくひ幾日とかぎりあるもののしらゆりのいく束をおもひやるは眞夜 の

手にするまではふあんの未知をある春のサイズのはるはさんぐわつ

なだらかなる道はくだれり灰白の縞合ひは為すぱらそるまでを