第390回 太田二郎『季節の余熱』

生き延びることゆるされて耳寒し夜風に曲がる冬の噴水

太田二郎『季節の余熱』

 「ゆるす」にはふつう「許す」という字を使う。「許す」ならば「許可する」という意味で、やってよろしいとゴーサインを出すことである。「宥す」という字は、「まあよかろう」と大目に見ることを意味する。掲出歌の作者はどこかに生き難さを抱えている。しかしどういう成り行きか、まあ生き延びてもよかろうと寛恕を得て、いまだこの世に在るという思いを持っている。冬の夜の公園は無人である。ただ噴水だけが虚しく水を噴き上げていて、その水は吹きつける風に曲がっている。曲がる噴水が〈私〉の喩であることは言うまでもない。

 この歌集が私の目を引いたのは、塚本靑史が寄せた解題のせいである。それによると、太田が2016年に玲瓏に入会したとき、古株たちが「あの太田二郎」とどよめいたという。太田は1980年代に塚本邦雄が週刊誌で担当していた投稿欄の常連だったらしく、その筋では名高い存在だったようだ。巻末のプロフィールによれば、太田は1951年生まれ。塚本と寺山に影響されて29歳から作歌を始めたとある。投稿時代が長かったようだ。あとがきによると、短歌を始めたきっかけは塚本の言葉の魔術に衝撃を受けたからだという。歌歴は長いが『季節の余熱』は今年 (2024年)の夏に刊行された第一歌集である。歌集題名『季節の余熱』の季節は後に余熱を残すくらいだから、それは朱夏つまり青春にちがいない。

 塚本の影響下で作歌を始めた歌人ならば、その人はコトバ派にちがいないと思われるのだが、案に相違して本歌集に収録された歌には人生がぎっしり詰まっている。それは重くて生き難い人生である。

十五歳鬱が何かを知らねどもアッシャア家巻末の月光

鬱という重き字積みて吃水は深し乗り換えられぬわが船

秋の川あるいは鬱の置き場所はここかも知れず雲一つ浮く

生きるのがだんだん重くなる夕べ時は無傷で過ぎてはくれぬ

 一首目、十五の少年に鬱は無縁なるも、既にしてポーの世界に惹かれていたか。二首目、鬱という漢字は画数が多く、それを抱えた〈私〉という船は今にも沈みそうだ。三首目は希死念慮の歌で、この川の流れに〈私〉ごと鬱を捨てようかと思案している。四首目、黄昏が迫ると暗い思念か頭をもたげる。時は無傷ではないと感じるのは、過去に悔恨があるからだろう。

 その理由が奈辺にあるかは不明ながら、作者は人生に大いに生き難さを感じている。それは本歌集の章につけられた小題にも現れていて、「撤退」「難破船」「敗軍の兵」「傍観者」といった具合だ。

明日もかく生きよというか壁際に予定調和のごときワイシャツ

部屋の灯へ蕩児のごとく帰宅して脱いだ背広にぎっしりと闇

途中駅桜いっぽん咲きおればふと人生を降りる瞬間

地下街に紛れ込みたる蛾のごときわれか前後を死の挟み打ち

紺背広皮膚剥ぐように投ぐるとき溢れ出すわがうちのくらやみ

 作者は勤め人らしく背広とワイシャツを着用している。それは仕事に必要なものではあるが、〈私〉にとっては身の内にある言い知れぬ闇を包んで隠す第二の皮膚のようなものらしい。だから帰宅して背広を脱ぎ捨てると、包みこまれていた闇が溢れ出すのだろう。

 そのように日々を送る人にとって、ほんとうに恐ろしいのは過去ではなく未来である。「手帳」や「カレンダー」というアイテムが登場するのはそのためだ。

さしあたり死の予定なくまっさらの手帳一年分の未来が

死ぬ理由生くるよすがもともになく徹夜終えざらざらの舌先

日時計のごとく暮らしてその影のように消えむかこの地上より

ともかくも今日やり過ごしアリバイの外れ馬券は風に委ねる

生きているそれも何かの手違いで目覚め冷凍庫のごとき部屋

 二首目にあるように、作中の〈私〉には生きるよすががなく、生に意味を見出すことができない。かといって積極的に死ぬ理由もない。そんな〈私〉にとって、何の予定も書かれていないまっさらの手帳は恐怖である。作歌の技法としては、上に引いた「溢れ出すわが / うちのくらやみ」や、すぐ上の「徹夜終えざら / ざらの舌先」、 「目覚め冷凍 / 庫のごとき部屋」のような句割れ・句跨がりに前衛短歌の強い影響が見られる。しかし塚本が得意とした初句六音はあまり使わないようだ。

ママレード壜の底なる美しさ腐敗わが晩秋がはじまる

驟雨去る街路の凹み数ミリの水に沈みし空の深さよ

踏切の向こうもこの世 回送の列車は運ぶ空席のみを

つむじから踵へ至る弾劾のそれぞれ深く駅行くわれら

花瓶より百合引き抜けば生じたる花火が消えし後ほどの闇

ああどこにいても場違い珈琲のカップに充ちるたけなわの春

落ちてゆく夕日に向けばおのずから残照となるわれの西側

立つものはすべて祈りのかたちして鋭し雨の中の電柱

 特に注目した歌を引いた。巻末に初期作が掲載されていて、「野望破れたり初夏へ窓開き部屋に籠もれるバッハを放つ」のような清新な歌も捨てがたい。