貝殻骨あらはに夏のひかり浴びホルンを運びゆく海辺まで
黒木三千代『貴妃の脂』
貝殻骨とは肩甲骨の異称。肩甲骨が露出しているのだから、タンクトップのような真夏の服を着ているのだろう。ホルンという選択がまたいい。きらきらと陽光を反射する金管楽器である。海辺にホルンを運ぶのが何のためかは明かされていない。しかし、肩甲骨、真夏の陽光、ホルンと海岸という言葉の組み合わせによって、一首はきらめく光に包まれる。下句が大胆な句跨がりになっているところに前衛短歌の影響が垣間見られる、
ついに『貴妃の脂』を読むことができた。ずいぶん前のことになるが、「『貴妃の脂』を読みたいのだが、どこかで見つからないだろうか」と黒瀬珂瀾君にたずねたら、「あの歌集はほぼ幻です」という答が返ってきた。「幻」とは、誰もがその存在は知っているのだが、現物を見た人がほとんどいないという意味である。現代短歌文庫の『黒木三千代集』が刊行され、やっとこの幻を読むことができた。望外の幸せである。『黒木三千代集』には、『貴妃の脂』、『クウェート』、『草の譜』の全篇が収録されている。黒木の歌集はこの三冊ですべてである。
いまさら紹介することもなかろうが、黒木は1942年(昭和17年)生まれだから、誕生は太平洋戦争のただ中である。作歌を始めたのは夫の転勤により金沢に居を移した40代からだというからずいぶん遅い。新聞投稿などで歌を発表していたら、縁あって未来短歌会に入会。岡井隆を師とする。1987年に「貴妃の脂」で第30回短歌研究新人賞を受賞。第一歌集『貴妃の脂』を1989年に刊行する。第二歌集『クウェート』(1994年)によりながらみ現代短歌賞、第三歌集『草の譜』(2024年)により読売文学賞、日本歌人クラブ賞、小野市詩歌文学賞を受賞。『貴妃の脂』というユニークな歌集題名は、「叛心のなきならねどもバスタブに貴妃の脂の浮くべくもなく」という歌から採られている。「主婦の座に飽き足らず謀叛を起こす気持ちもないではないが、かといって誰もがひれ伏すような美姫でもない私」という意味である。慚愧と断念の歌と読んだ。不思議な歌集題名の謎がようやく解けた。
黒木の短歌の世界は、黒木が2歳の時に28歳という若さで亡くなった父親の影が色濃く見られる。集中に「父よ」という連作がある。
部屋隅に薔薇逆さ吊り為すなくて死にたりしわかきちちよ父よ
遠霞む歳月の端潤めれど父は吾の吾は父の悔しみ
体臭を知らざることを悲しみの根幹として歳月ゆるる
『草の譜』にも次のような歌が見られる。
薬包紙赤かりし不意に胸に来て 二十八で死にし父を覚えず
「命名書」父が書きたる墨色の掠れしところ風が渡れり
父親の書斎には日本の古典文学の本がたくさん残されており、黒木はそれを読み耽って育ったという。黒木の歌に古語法が多く用いられているのはそのためだろう。塚本邦雄や岡井隆らの前衛短歌から作歌法を学び、古語を駆使する黒木の短歌はしばしば難解と評されている。
さて本歌集を流れる主情は何かと言えば、それは慚愧と憤怒ではないかと思う。
ファム・ファタールには成れざるわれが練り上ぐる葛 透きとほるだけ透きとほらしめ
影のごとま鯉集まり紛れざる緋鯉一尾は恥のごとしも
きらら桜、ほたりと椿 立ち枯るるほかなき女われはなにせむ
家中にわが髪の毛の落ちてゐて死にたるのちも誰も気づかぬ
レモン切れば尖る鋭きかなしみや昔むかしも美姫たらざりき
一首目のファム・ファタールはフランス語のfemme fatale。直訳すれば「宿命の女」で、男を魅了して破滅させる女性をいう。自分はしょせんファム・ファタールにはなれないと考えながら台所で葛を練る手には力が籠もっている。二首目、池を泳ぐ真鯉の群れに一尾だけ緋鯉が混じっているのがまるで恥のようだという。緋鯉が男に混じる女の私であることは言を待たない。三首目、咲き誇る桜や落ちてなお美しい椿に較べ、自分は立ち枯れるばかりだと嘆いている。四首目、主婦として家にいる私の髪の毛がそこらじゅうに落ちているはずだが、私が死んでも誰もそのことに気づかないだろうという歌。自分の存在感のなさが髪の毛に託されている。五首目、漂う檸檬の香りが美姫ではなかったという慚愧を誘い出す。
このような慚愧と憤怒は家庭婦人であったという境遇に由来するものだろう。次のようにそのことを直接的に詠った歌もある。
初期ローマ皇帝秘書は奴隷なり或いは妻も似たやうなものか
ひとの妻・子の母として知らさるる死亡記事なるをんなのなまへ
二十年妻たる不思議オレンジを食べ終るときわらひ捨てたり
花茗荷鍋に放ちて何者にありしかわれはここにはたとせ
二首目に詠われているように、新聞の訃報記事に女性は「〇〇議員の妻」とか「〇〇会社社長の母」などと書かれることが多い。要するに付属品扱いだ。読売文学章受賞のインタビューで黒木は、大阪の夫の実家近くに暮らしていた頃は、自分はまるで家具のようだったと述懐している。本歌集に解説を寄せた岡井隆は、「これでもかこれでもかと迫ってくる怨念のようなもの」と表現している。
このような慚愧と憤怒が高じると、次のような復讐と殺意の歌になる。
ありつたけのガラス器にひとつづつ虹飼ふとまひる復讐のごと思ふなり
金の鎖のみどに辷り礼を為すせつな殺意のごとくきらめく
しかし黒木の短歌の世界はこのように慚愧と憤怒を詠んだ歌に尽きるものではない。「きそのゆふがほ」と題された連作では、古典の素養に基づいた王朝風の言葉の饗宴が縦横無尽に繰り広げられる。
〈草深野〉この露けくてあえかなることばを忍ぶる恋のあしたに
かき上ぐる額髪しろきおもかげに添ふわたくしのきそのゆふがほ
そののちの松浦の浦の恨みじを臥す切岸の夢のただ中
秋風になりてむ何もはかなくてうち見るほどに昏む桔梗よ
恋ひわたるとはいかやうにわたるなる夜深きをゆく鳥の鋭声よ
この連作の最初には「結露するマンションの窓 時代などは見えぬ見えねば 虚辞をここだく」という詞書が置かれている。「ここだく」とは「こんなにたくさん」の意。要するにこれは言葉に過ぎないと言っているのだ。「きそのゆふがほ」は「昨日の夕顔の花」の意。三首目の「松浦の浦」は佐賀県にある歌枕。「そののちの松浦の浦の」までは「恨み」を導く序詞。「恨みじ」の「じ」は形容詞を作る接尾辞かと思われる。このように言葉の贅を尽くした王朝風の歌には、コトバ派の雄の塚本邦雄の影響が色濃く感じられる。
そうかと思えば次のようにむくつけなまでにストレートな歌もある。
うつたうしき景物としていついかなる行動にも鴨は番なるべし
油そそがれしもの〈メシア〉なら漆黒のミシンあやつる母おそるべし
眠剤をひとり使ひて入水せし津島修治の人非人
老いほけなば色情狂になりてやらむもはや素直に生きてやらむ
人間の息深ぶかと吹き込みて成るガラス器よ浄きはずなし
三首目の津島修治は太宰治の本名。これらの歌にはもしかしたらユーモアも含まれているのかも知れないが、思いが直截に表現されていておもしろい。上に引いた王朝風の歌と並べてみると、振り幅の大きさに驚かされる。ひと言で括ることのできる歌人ではないということだ。
てのひらにすくひては零す花びらはひかり いくたびもわれは失ふ
逆光に灰色の翅すきとほり過ぎにしミカエルの裔の鳩らよ
跳ね上がる鯉いつしゆんの肉締まりすなはち顕はなり 死後硬直
ここ過ぎて死者行きたらむ地下街の水底にしてひかるアルミ貨
降る雪のソルティー・ドッグわたくしのけぶりてぞゆく群肝のため
朝を割る卵のひとつ腐れればつひにここよりは死に場所なけむ
膚寒き天変の夏ダリ展に聖麒麟燃ゆ佇ちてしづかに
特に心に残った歌を挙げた。私の個人的な好みも混じっているだろうが、前衛短歌の血脈を継ぐ歌が目立つ。『貴妃の脂』が出版された1989年の時代背景を見てみよう。1987年には俵万智の『サラダ記念日』が刊行され、一大ベストセラーになった。小池光は「俵によって短歌はそれまでのウラミの世界から解放された」とどこかで述べていた。ウラミを基調とする『貴妃の脂』は明るい世界へと進む短歌の世界に真っ向から逆行している。同年には加藤治郎の『サニー・サイド・アップ』が出て、1991年には荻原裕幸が新聞に「現代短歌のニューウェーヴ」という文章を発表し、時代は一気にライト・ヴァースの方向へと舵を切る。岡井隆や塚本邦雄らが推進した前衛短歌の時代はこのあたりで終わりを告げたのである。このように時代の流れに置いてみると、『貴妃の脂』は前衛短歌の掉尾を飾る歌集とも見えるのである。