第43回 王紅花『夏の終りの』

エル・グレコの〈ピエタ〉のイエスは晩年のプレスリーに似ると我に教えき
                   王紅花『夏の終りの』
 エル・グレコはスペインで活躍した16世紀~17世紀の画家で、その名はスペイン語で「ギリシア人」を意味する。現在ではマニエリスムを代表する画家として知られている。その巨匠の描くイエスが晩年肥満に悩んだロカビリーの帝王エルビス・プレスリーに似ているというのである。展覧会でのエピソードだろうか。確かに名画の人物が誰かに似ているということはある。イエスとプレスリーというかけ離れた連想が愉快ではあるが、それだけのことだ。王の短歌にはこのように「それだけのこと」を詠んだ作品が多い。まちがっても背後に深い意味が隠されているなどということはない。一般に短歌においては、喩を駆使して意味作用を重層的にしたり、掛詞・縁語などの修辞によって作品空間にブレと広がりを付与したりして、作品に31音以上の奥行きを持たせようとすることが多い。そんななかで王のようにあえて奥行きのない短歌を作る人は珍しいと言える。
 たとえば次のような作品を見てみよう。
ゆかに光るものあり しかし宝石など落ちてゐるやうな家にはあらず
マロニエと栃の違ひを書きやれど返事無し どうでもいいことならむ
丘の上の黄のクレーン車は放置され 五年は経つてしまつたかしら
とんかつ屋の壁に貼られた若き日のをぢさんとをばさんの並んだ写真
 見事に「読んだまんまの意味」しかない歌である。「床に光るものあり」と置けば、次は光るものに焦点を当てて残りを展開するのが常道である。ところが予想に反して「宝石など落ちているような家ではないのだが」と自分の想いへと軌道はそれてしまう。二首目でも前半ではマロニエと栃の違いを取り立てておきながら、後半ではあっさりと友への腹立ちに終えている。また三首目の放置されたクレーン車は、ふつうならば短歌的喩の絶好の対象なのだが、王は「五年は経つてしまつたかしら」という極めて日常的かつ散文的な感想へと収束させてしまう。四首目に至っては全体が〈連体修飾句+名詞〉で見たままを詠った歌となっている。
 ここには永田和宏の言う「問と答の合わせ鏡」という構造がない。「問と答の合わせ鏡」とは、永田が『短歌』昭和52年10月号(後に『表現の吃水』に所収)で提唱した概念である。志垣澄幸の「退くことももはやならざる風の中鳥ながされて森越えゆけり」を例に取った説明によれば、上句の「退くことももはやならざる」が作者の内的状態を表す「問」であり、下句の「鳥ながされて森越えゆけり」が「答」である。あるいはその逆の関係であってもよい。短歌定型において主体の〈私〉と対象とが、問と答の合わせ鏡のごとくにあい照らすことによって、一首のなかに緊張関係を構築する。この主体と対象との関係性を梃子として、「鳥ながされて森越えゆけり」が短歌的喩として成立するという説である。このように定義された「問と答の合わせ鏡」構造が王の短歌に不在であるということは、王の短歌における〈私〉と対象との関係性は、永田が想定する現代短歌のセオリーにおけるそれとはずいぶん異なったものだということになる。ではそれはいかなる性質のものか。次のような歌を見てみよう。
駅から青年会館まで老人の列続き何の会かとわれは訝る
海底はお花畑で AはBを食ひCはAを食ひDはCを食ふ
葬儀屋の薦めもありて松竹梅のうち竹コースで葬儀を頼む
読みかけの文庫本『斎藤茂吉歌集』にて百足を叩く 仕方なかりき
ベビー用品売り場に来たり犬のためやはらかき尻拭きテッシューを買ふ
グループ展「Cinco」は翌年「Cuatro」となり今年は「Tres」となりて、解散す
 これらの歌にあるのは乾いた諧謔である。老人が列を成して青年会館に参集するところにおかしみがある。海底はお花畑と聞けば、さぞかし美しい光景が広がっているだろうと思いきや、そこに展開するのは冷厳な食物連鎖だと言う。葬儀に値段によって松竹梅のコースがあるところがおかしい。歌聖茂吉の歌集でムカデを叩くとき、文庫本は単なる道具にすぎない。少子化をあざ笑うかのようにベビー用品売り場には物が溢れているが、赤ちゃん用の尻拭きテッシューを飼い犬のために買うのである。「Cinco」「Cuatro」「Tres」はスペイン語で5・4・3で、グループから一人抜け二人抜けしてゆく様を表している。ここにはブラック・ユーモアとまでは行かない諧謔と、シニカルにまでは傾斜しない批評精神が強く感じられる。外界の対象を〈私〉の位相の喩とするのではなく、外界に接した時に生じる軽い摩擦によるおかしみが、王の短歌の基層を成しているようだ。この諧謔と批評精神は大人のものである。若い人にはとっつきにくいかもしれない。
 では王の短歌に心情はないかといえば、そんなことはない。一巻を通読して私が嗅ぎ取ったのは通奏低音のように低く流れる死への想いである。
らつきようの皮剥きをればかたはらの人は『死後の世界』といふ本を読む
わかものが歌ふ鎮魂歌レクイエムわかものは死に遠ければ美しき声
訃報の回覧板持ちて夜更けの道行けばマンホールから水音響く
わたしの部屋へ行きわたしの飼犬は見ただらう 鳥獣の頭骨コレクション
墓場には派手な花こそ似合ふねと日照雨ふる日に来て我ら言ふ
 死は何十年かの彼方に遠いものとしてあるのではなく、日常の生とないまぜになってごく身近にある。王の短歌を読んでいると、現実と夢の境界や生と死の境界がだんだん曖昧になってゆくような不思議な感覚にふと襲われる。それは夕暮れの感覚に似ている。
この住宅地の流行はやりかあの家もこの家も黒き鶏頭を戸口や庭に咲かせて
夕暮れの町角に咲くコスモスの風にそよげるその白花不吉
自動車のフェンダーに孔雀蝶とまる この世の晩秋の夕暮れのとき
北窓に氷紋育ちゆき夜の更けてあの世の庭の入口となる
 黒い鶏頭や白いコスモスは、あたかも異界の一片がこの世に紛れ込んだかのようだ。フェンダーにとまる孔雀蝶もまた、私を異界へと誘うようである。氷紋の張る窓ははっきりとあの世への入り口と意識されている。このような異界感覚は、王が豊かな自然の残る青梅に暮らしていることと無縁ではあるまい。
 次のような歌を読むと、日々の塵埃にまみれて鈍磨した感覚が突然鋭くなり、腹の底に溜まったどす黒い感情も洗われてゆくように感じる。短歌の功徳である。
鰐のマークのポロシャツを着て本を読む少女 無臭のゆふまぐれなり
俎に載せられし鯉のまぶたなき目は寒の水滴らせをり
カーブ・ミラーがカーブの先を映しをり陽に輝る道は空へのぼりゆく
山葡萄飲みほして置くタンブラーの底に光のスペクトル見つ
反魂草の花咲く下にくちなはの抜け殻あり銀の棒のごとしも