第42回 正木ゆう子『夏至』

月はいま地球の真裏ふたつ蝶
        正木ゆう子『夏至』
 朝日新聞の毎週月曜の朝刊に歌壇・俳壇のページがある。中にコラムがあり、俳句時評と短歌時評が交互に掲載される。書き手は様々だが、まだ知らない歌人・俳人を紹介してくれるのが楽しい。2009年12月7日のコラムでは、加藤英彦が「押入をあけて眠れば藻の花の咲きゐるさむきみづうみへゆく」という松平修文の歌を引いて、この歌には微かに死の匂いが感じられるという趣旨のよい文章を書いていた。2009年11月30日には、俳人の五島高資が、「死界からの詩境」と題したコラムで高岡修の話題の詩集『火曲』に触れて、俳人でもある高岡の俳句を紹介している。私は浅学にして高岡修という俳人を知らなかったので、さっそく句集を買い求めようとしたが、版元のジャプランから品切れを詫びる手紙が届いた。それが何と高岡本人の直筆である。ジャプランは高岡の個人出版社らしい。私は歌人や俳人の方々からいただいた手紙や、寄贈された本に添えられた一筆箋などは、断簡零墨に至るまで保存しているので、高岡肉筆の手紙もありがたくファイルした。それにしても句集を読めないのが口惜しい。インターネットの古本サイトでも見つからない。現代詩人の城戸朱理がブログで紹介しているので、数句引いてみよう。
虚無の世に舌入れている縄の端 『蝶の髪』
雉一羽、暗喩の森を踏みまよう
猟銃の美しい思想である紅葉
死者の眼に朝の湖底となる葡萄
転生は北半球の花あやめ
たれもみな未完のさくら死にゆかむ
水のそら蝶生れるまで蝶を書く
 城戸がメタ・ポエム的傾向が強いと評する高岡の俳句世界には非常に惹かれるが、句集が読めないことにはいたしかたない。というわけで今回は、東大の沼野充義も今年の収穫として挙げていた正木ゆう子の第四句集『夏至』である。正木は1952年生まれ。句集『水晶体』『悠 HARUKA』『静かな水』で数々の賞を受賞した句界の中堅を担う逸材である。「しづかなる水は沈みて夏の暮」「やや甘き土になるべく落つる桃」「海鞘切れば海ほとばしる刃先かな」など、日頃から私の愛唱する句が多い。『静かな水』のテーマは月と水だったが、今回のテーマは太陽だという。句の配列は編年体を採らず、編集により巡る季節と座に配置されている。表紙には「俳句は世界とつながる装置」という言葉と、「半年後、私たちは太陽の向こう側にいる」という言葉が印刷されている。後者は安野光雅が「私たちは太陽は遠いと思っているけれど、半年後には太陽の向こう側にいるんですよ」と言ったのを受けている。もともと正木の俳句は対象にやわらかに入っていく感覚に優れているが、本句集ではそれに宇宙的感覚が加味されている。それが発揮されている句から引いてみよう。
つかのまの人類に星老いけらし
仰ぐほかなければ仰ぐ天の川
北辰のずれとことはに星月夜
月はいま地球の真裏ふたつ蝶
うすずみの洞なす雲へ鷹柱
   ヒトが地上に出現してたかだか数百万年なのにたいして、星々は数十億年の星霜を重ねているという対比が一句目の眼目で、スケール感が大きい。短歌でこのスケール感に匹敵するのは井辻朱美くらいではないか。二句目では「仰ぐほかなければ」が天の川の圧倒的な存在感を表現している。語句の斡旋が対象の存在をまざまざと感じさせるところに句の力がある。北極星は地球の自転軸を北方向に延ばした所に位置しているため、天球上で不動に見えるが、実は自転軸から一度ずれている。三句目の「北辰のずれ」はこの一度のずれのこと。一度という宇宙的尺度から見ればわずかな差異と、永遠を意味する「とことはに」の取り合わせにより、一句の中に天文学的空間と時間を閉じこめているところがすごい。四句目の「ふたつ蝶」は虚空を高速で移動する地球と月の喩と読んでもよいし、前二句とは切れていると読んでもよかろう。鷹柱とは、小型の鷹の一種であるサシバが南方へ渡る際に、上昇気流を利用して上空へと集団で昇る様を言い、秋の季語。天に駆け上る柱は壮大であり、またその陰にこれから渡る南方も揺曳する。
 こういったスケール感の大きな句の傍らで、逆に細やかな観察に基づく句が本来正木の得意とするところである。
蝉すでに老いて出でたる蝉の穴
あさがほの蘂さし出づるところ白
稲雀散るご破算をくりかへす
先ず土に固定をいそぐどんぐりぞ
暮れてゆくどの水底も蜷の道
 蝉は地中で10年にも及ぶ幼虫期間を過ごし、成虫期間はわずか二週間にすぎない。確かに地上に出た時にはすでに老いているとも言える。そう表現するとき微かに哀れさが漂う。朝顔は江戸時代から都市住民に好まれ、品種改良が進んで色も形も様々である。しかし萼が外から支え内側に蘂のある部分だけは白い。俳句はおもしろい形式で、当然の事実を改めて表現するところに発見があり、朝顔の姿が読者の脳裏にくっきり浮かぶ。朝顔は秋の季語。稲が実る田に群がる雀は、ささいなことに驚いて飛び立つ。その様を算盤のご破算に見立てている。どんぐりは地上に落ちて次代の生命を引き継ぐのだが、別に固定を急いでいるわけではない。しかし作者の目にそう見えるところがおもしろい。五句目は観察の句ではない。作者には川底は見えないからである。どの川底にも川になが棲息し、ゆっくり移動しているだろうというのは作者の想像である。いずれの句にも正木の対象を見るやわらかな眼差しが感じられる。
 次ははっとさせられる句。
進化してさびしき体泳ぐなり
地続きに狼の息きつとある
甲種合格てふ骨片や忘れ雪
鮠の子の水より淡く生まれけり
潜水の間際しづかな鯨の尾
ちょうど今たった今綿虫と居る
 一句目で作者はおそらくプールで水泳をしており、ヒトの祖先が太古に魚だった時代に思いを馳せている。「進化」は本来プラス方向への変化を意味するが、作者にはそうは思えないのだ。水中を自在に泳ぐ魚と比較して、ヒトはほんとうに幸福かという思いがある。この思いを軸に一句の中で現在と太古が交差する。二句目では、自分のいる場所と北方の狼の棲息する大地とは地続きなのだから、今私の頬を撫でている風の中にもきっと狼の息が混じっているにちがいないという。想像力を梃子に広大な空間を一挙に超えるところは、大滝和子の秀歌「観音の指の反りとひびき合いはるか東に魚選るわれは」と通じるものがある。しかし、俳句は短歌より少ない十七音でこの飛躍を実現するのだから、驚くべきことだ。このような句に出会うと、言葉の持つ潜在力が十二分に発揮されている奇跡に立ち会うような気がして、他に得られない深い喜びを感じる。三句目は父親の死を詠んだもの。この句の前にある「死もどこか寒き抽象男とは」と並んで慄然とさせられる句である。四句目も正木らしい句で、はやはウグイ・カワムツ・モツゴなどのコイ科の川魚の総称で、小型で細身の魚のこと。卵から孵ったばかりの透き通る稚魚を水より淡いと表現するところに、正木が対象に触れるやわらかさがある。五句目は鯨が身を翻して潜水する様を詠んだ句で、尾鰭が一瞬静止する瞬間を捉えるところに俳句の持つ瞬発力がある。六句目は私が特に好きな句。晩秋に空中を浮遊する綿虫が目の前に来た瞬間を詠んだもの。何でもない瞬間が、実は二度と反復されることのないかけがえのない瞬間であるという一期一会感覚が、一句の中から溢れだしている。俳句は小さな対象を捉えるに適した形式だが、対象自体は小さくとも、その対象が引き連れて来る世界は広大無辺である。こういう句を読むと、日々の塵埃にまみれて凝り固まった脳のシワが伸びる心地がする。
 最後にこれは参ったという句を。
さざなみはさざなみのまま夏の暮
 夏の夕暮れは凪で風が止み、海は一面夕日に煌めく漣である。しかしこう解説してもこの句の不思議な魅力は説明できない。二度繰り返される「さざなみ」に、対象を静かに肯定し、鎮魂のごとく魂を慰撫する眼差しすら感じられる。句の前に言葉が消え、清浄な感覚だけが残るのである。