第44回 短歌における読みについて

 現代短歌の元気印・石川美南が主宰するホームページ「山羊の木」の期間限定企画「ゴニンデイッシュ」の第4回に依頼を受けて参加した。石川があらかじめ選んだ歌について、5人がそれぞれ一首評を書くという企画である。なお5人には自分以外の誰が選ばれたかは知らされていない。公開された時点で初めて知ることになる。
 「ゴニンデイッシュ」のカタカナ表記がまずおもしろい。「ゴニン」は「誤認」に通じ、「デイッシュ」は「ディッシュ」(dish)に通じるので、5人の人間がそれぞれ誤認に基づく読みを展開する、あるいは5人が同じテーブルで料理を囲んでいるなどと、あらぬ空想が膨らむ。
 与えられた歌は馬場あき子の『桜花伝承』に収録された「罪得てぞ月は見るべし犯さざる非力の腕に闇よせている」である。参加者は、『旧制度アンシャン・レジーム 』などの歌集のある実力派歌人高島裕、『ドームの骨の隙間の空に』で注目された新鋭歌人谷村はるか、「天体の凝視」で昨年度の短歌研究新人賞候補作に選ばれた早稲田短歌会の俊英服部真理子、笹ドットコムなどに投稿している虫武一俊、それに不肖私の5人である。
 高島は馬場の歌の背景となる古典和歌の主題に言及し、下句の口語にあふれ出す現代に生きる強い意志を指摘した。谷村は「犯さざる非力の腕」を、罪を犯すこともできない善人の私と単純に解釈すべきではないとした上で、下句の口語に罪に憧れる気弱さを嗅ぎ取っている。服部は月を見上げる無垢な少女が闇からの誘いに肯うときに、月を仰ぐにふさわしい女性となるという物語を一首から紡ぎ出している。虫武は「腕」が私の腕かそれとも月の腕かがこの歌のポイントだとして、「腕」は月のものだとするユニークな読みを展開している。私は「闇よせている」の「寄せる」が自動詞か他動詞かに若干こだわり、評では自動詞と取る見方を示したが、実は今でも自信がない。石川は他動詞と取り、「私が闇をよせている」という解釈のようで、その方がいいかも知れないとも今では思う。いずれにせよこの歌では、文語基調の馬場には珍しい下句の口語部分の解釈が難物だ。5人5様の読みが出たと言えるだろう。
 さて、この経験を機会に今回考えてみたいのは、短歌における読みの問題である。俳句や短歌などの短詩型文学の場合、作る人イコール読む人で、もっぱら読むだけの純粋読者はいない、もしくは非常に少ないとされている。桑原武夫の「第二芸術論」が、この点を俳句や短歌が近代文学たりえない理由のひとつとしているのは周知のことである。桑原が考える近代文学は、一人の天才の作品を読者大衆が読むというものなのだ。俳句や短歌に携わる人たちはもっぱら作ることに興味があるので、読むとしてもそれは作るという行為の原資としてという意味合いが強い。私もときどき「短歌を読んで批評を書くだけでおもしろいのですか」と不思議がられることがある。歌会で詠草に対する批評が行われるのは、もっとよい歌を作るという目的があるからである。だからほんとうの意味での短歌の読者論は存在しない。
 またここには近代短歌の歩んで来た道が影を落としていることにも注意しておきたい。永田和宏の『喩と読者』は、作る側ではなく読む側に比重を置いた数少ない評論だが、永田はこの中で概略次のようなことを述べている。近代短歌の歴史は〈個〉をいかに屹立させるかという歴史であり、私だけが感じたこと、私だけが経験したことを普遍化することに表現行為の基礎を置いている。このような自己肯定の果てに、作品は読者を歌から締め出すようになり、現代短歌はもはや真の意味での読者を必要としていない。永田がこう述べたのは昭和57年だが、それから30年近くの年月が経過する間に、永田が指摘した傾向は一段と進行したように見える。それは近代短歌が屹立をめざした〈個〉が、大衆消費社会のスーパーフラットの中に溶解してしまったからである。〈個〉なんて一人で屹立することは無理な相談で、明治以来の近代文学のめざした〈個〉は、当時の身分制度・家制度・富国強兵主義などが押しつけてくる抑圧への反抗として生まれたものである。〈個〉が溶解したかに見える現代にあって、短歌はほんとうに読者を必要としているか。これは考えてみるべき問題である。
 短歌が読者を締め出すことは、短歌にとって決して健全なこととは言えない。なぜなら愛誦歌は言うに及ばず、名歌は読みによって生まれるからである。愛誦歌とは多くの人に口ずさまれる歌であり、広汎な読者を必要とすることは当然である。また名歌は生まれた時から名歌なのではなく、優れた読みによって初めて名歌となり歴史に残る。他の芸術分野においても似たようなことは起きることがある。例えばバッハの無伴奏チェロ組曲は長い間忘れられていたが、20世紀になってパブロ・カザルスによってその価値が発見され、自身の名演奏によってチェロ曲の聖典となった。一般に楽曲は優れた解釈を施して演奏されることによって、初めて名曲として受容されるようになる。ところが短歌においては作歌は楽曲の作曲に当たるが、楽曲の演奏に相当する過程がない。短歌は一人一人の読者が読むことによって、自分の中で「演奏」するしかないのである。したがって優れた解釈による名演奏になるかどうかは、読者一人一人の読みにかかっている。読みが衰弱した時代に名歌は生まれない。
 私自身はどうかと言うと、私は桑原武夫がその存在を否定した純粋読者たらんとしているのだが、短歌の読みについては歌人が編んだアンソロジーに多くを学んだ。なかでも塚本邦雄の『現代百歌園』(花曜社、1990年刊)は何度も読み返した。古今東西の文学や芸術を引きながら作品の本質に肉薄する塚本の読みの鋭さには、他の追随を許さないものがある。塚本には俳句のアンソロジーに『百句燦燦』(講談社文芸文庫)があるが、こちらとなるともはや俳句の読みを超えて、塚本の解説自体が一編の掌編小説のごとき独立した生を獲得している。いずれも塚本という強烈な個性と美学が生み出した読みの極北と言えよう。他の歌人のアンソロジーは無難な読みを教えてくれるが、やや物足りないのはいたしかたない。
 今の若い歌人たちはどのようにして短歌の読みを学んでいるのだろうか。アンソロジーは貴重な手引きだが、たいていは明治・大正時代の近代短歌に多くのページを割いており、戦後の前衛短歌に始まる現代短歌に限ったアンソロジーは少ない。小池光・今野寿美・山田富士郎編『現代短歌100人20首』(邑書林)は確かに現代短歌の詞華集ではあるが、残念なことに一首ごとに読みを示した解説がない。若い歌人たちにとって明治・大正期の近代短歌は遠いものだ。今の大学生には「寄宿舎」も「お仕着せ」も「水屋」も「半ドン」も理解できない死語である。現代短歌の名歌を集めて読みを示した詞華集があってもよいのではないだろうか。