第45回 短歌における読みについて Part 2

 大学ではこの時期、学部の卒業論文と大学院の修士論文の提出時期を迎えて、大変なことになっている。なかなか論文を書いてくれない学生の尻を叩かねばならず、年末から論文指導の面談を重ねる日々が続く。なかには思い余って「私はどうすればいいんですか」と叫び、泣きながら研究室を飛び出して行く女子学生がいたりする。先日も研究室で面談していたら、様子がおかしくなり、「トイレに行っていいですか」と言って出て行ったきり、1時間も戻って来ない学生がいた。寝不足と緊張から昏倒して、トイレで気を失っていたのだという。私が学生を失神させるほど苛烈な批判をしたわけではないので、念のため断っておく。
 こんな日々なので、とても落ち着いて歌集など読んでいられない。というわけで、前回に続いて「短歌における読みについて」のPart 2である。決して手抜きと思わないでいただきたい。というのもおもしろい本を読んだからである。月本洋『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ 2008年)である。著者は東京電機大学工学部の教授で、人工知能の専門家だという。専門外の脳科学と言語学に乗り出して本書を書いた動機は、英語やフランス語では I love you. / Je t’aime.のように、私 (I, je)や君 (you, te)などの人称代名詞が必須であるのに、日本語では「好きだ」のように代名詞を用いないのがふつうなのはなぜかという疑問に答えるためである。著者の主張を手短かにまとめると次のようになる。
 日本語話者と英語話者とでは、母音の脳内処理に半球差がある。日本語話者は母音を左脳で処理するが、英語話者は右脳で処理する。一方、自他の区別を司る部位は右脳にあり、英語話者が母音を処理する部位に近い。このため英語話者は母音を処理する際に、自他の区別を司る部位が活性化する。これが人称代名詞の義務的使用の理由である。
 母音の脳内処理に関する部分は実験に基づいているが、それを言語に結びつける論理には内挿法 (interpolation)や外挿法 (extrapolation) が駆使されていて、この結論をにわかに信じることはできない。しかし本書前半で紹介されている脳生理学的実験によって得られた結果は、とても興味深いものなのである。
 しかしこれが短歌における読みとどう結びつくのか。それは「私たちはなぜ短歌を読めるのか」という疑問につながるからである。ここで首を傾げる人がいるかもしれない。日本語ができて文法と語彙を理解している以上、短歌が読めるのは当たり前ではないかと思うのがふつうだからである。しかしちょっと待ってほしい。「短歌が読める」とは、単に語の個々の意味を文法規則に従って統合し、文意を理解するということではない。一例を挙げる。
沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ  斎藤茂吉
 よく知られた有名な歌で、歌意に難解な所はない。〈私〉が黙ってブドウの房に降る雨を見ている情景が詠われている。ブドウが実っているのだから季節は秋である。表面の字面だけを解釈すればそうなる。だがこの歌は、先の大戦の敗戦時に山形に疎開していた茂吉が、祖国の敗北に言葉を失った様を詠んだものであり、降り注ぐ冷たい秋の雨とブドウの黒い色とが、茂吉の悲愁と孤独を表現しているのである。そこまで読まなくてはこの歌を読んだことにはならない。しかしなぜそう読めるのか。それが問題である。この問に明確に答えた論考を私は知らない。
 月本が手際よくまとめているように、言語の意味理論には今までにおおきく分けて3つの考え方がある。第一は、「言葉の意味とはその言葉が指示する対象である」という理論である。たとえば、指さしながら「この犬」というとき、その意味は指された犬だというものである。これは言葉はモノの代用だとする古くからある考え方に基づいている。スウィフトの『ガリバー旅行記』には、言葉を使うかわりに、相手に伝えるのに必要な物を大きな袋に詰め込んでよろよろ歩く人が描かれている。現代の代表的な意味理論である真理条件意味論はこの部類に入る。第二は、「言葉の意味とはそのイメージである」という考え方である。たとえば、「犬」という語の意味は、それを聞いたときに私たちの脳裏に浮かぶイメージだというものである。この意味=イメージ説は、20世紀になって分析哲学に激しく批判されたが、いまだに根強く残っていて、最近の認知意味論はこの新ヴァージョンと言えるだろう。第三は「言葉の意味とはその用法である」とする理論で、代表選手はウィットゲンシュタインである。この理論は「おはよう」とか「こんにちは」などの意味を理解するには便利である。たとえば「おはよう」の意味とは、午前中にその日初めて人と会ったりすれ違ったりする状況の集合と定義できるからだ。
 しかしいずれの理論に拠っても、上に引いた氷雨の降り注ぐブドウを理解するには難点があることに注意したい。「百房の黒き葡萄」は私たちの目の前にないのだから、「百房の黒き葡萄」の意味とはこれだと指し示すことができない。また1945年に戻って山形の金瓶村にほんとうにブドウがあったかどうかを確かめるすべもない。だから第一の理論で短歌の読みは説明できない。第二のイメージ説の問題点は、どうして見たこともない情景をイメージできるのかがうまく説明できないという点にある。私は百房の黒いブドウに氷雨が降り注ぐ情景を一度も見たことがない。しかしその意味はよく理解できる。これはどうしたことか。第三の用法説の問題点は、「おはよう」とか「ありがとう」などの語用論的語句はうまく説明できても、「犬」のような実体語の説明に難があることである。「犬」の意味とは「犬」という語が用いられる状況の集合であるという定義は、納得しがたいだろう。また日常の実用を離れた文芸の場合、「百房の黒き葡萄」の用法と言われても、そんなものはないとしか答えようがない。私は自分では一度も用いたことがないからである。
 では私たちはなぜ表面的な字面を越えて歌の意味を理解できるのか。そのヒントが月本の本に書かれている「仮想的身体運動」という現象に隠れているように思う。私たちは指や腕などの身体器官を動かすとき、まず脳の運動野の対応する部位が活動し、次に指や腕に神経パルスを送る。指や腕の筋肉は神経パルスを受け取って伸縮して目的の動きをする。ところが近年の脳研究によれば、実際に指を動かさなくても、指を動かす動作をイメージしただけで、指を司る運動野が活動することが明らかになったという。このことは運動以外の活動でも起きているらしい。たとえば「猫」という単語を聴いて猫を頭の中でイメージするときは視覚野が活動し、眼球を仮想的に動かしている。想像上で視ているのだ。数字を頭の中で読み上げるときには、運動野と聴覚野が活動し、舌と耳を仮想的に動かしているという。想像上で発音し聴いているのである。月本はここから、言語の意味とは脳内イメージであり、それは仮想的身体運動であると結論づけている。
 もしこれが正しければどういうことになるか。意味の理解とは感覚・刺激のように何かを受け取るという受動的なものではなく、脳内の仮想的身体運動を伴う能動的なものだということになる。赤ん坊の身体運動の発達は、環境からの刺激に対する反応として組織化される。泳いだことがない人は、水に落ちても泳ぐという身体運動をうまく実現できない。泳ぐ練習を繰り返すことで、必要な身体運動を組織化する。いったん組織化が完成すると、泳ぐ動作をイメージしただけで、脳内の泳ぎに関係する運動野が活性化する。ミラーニューロンの発見により、泳いでいる人を見ただけでも同じことが起きることはほぼ確かだと考えられている。
 このことが「共感」と「共有」に通じると考えてもおかしくはない。私たちが短歌を読むとき、単なる字面の意味の理解を越えて、描かれた情景をまざまざと視る思いがするとき、ほんとうにその情景を「視ている」のである。ただし、その情景は現実に目の前にあるのではなく、脳内に起きた仮想的眼球運動として実現する。しかし、情景が目の前になくとも実際に視た時と同じ脳活動が起きるのならば、実際に視ているのと同じことになるではないか。ここからさらに大胆に一歩踏み出して、短歌に描かれた情景によって触発された感情を作者が感じているとき、その歌を読む読者もまた、その感情に関わる脳の部位を活性化していると考えてもおかしくはない。これが「共感」であり、「感情移入」として知られている心理の基盤であると考えられる。
 月本の仮想的身体運動意味論でも説明できないことはまだまだ多く残っているが、もしこれがなぜ私たちは字面の意味の理解を越えて短歌を読むことができるかを解明してくれるとしたら、それはとてもおもしろいことではないだろうか。