第46回 永田淳『1/125秒』

ブーストを立ち上がらせつつ走りゆく前にも後にも時間はなくて
                     永田淳『1/125秒』 
 掲出歌には「ターボタービンにてエンジンに過給することをブーストと呼ぶ」という詞書がある。自動車でもオートバイでもエンジンがあれば当てはまるが、ここは作者の愛するオートバイの話だろう。下句の「前にも後にも時間はなくて」は、空間的にも時間的にも解釈できる。空間的に解釈すれば、オートバイを駆る〈私〉の前方にも後方にも時間は存在せず、疾駆する〈私〉が実感している〈今〉だけが時間だ、という意味になる。また時間的に解釈すれば、〈私〉の前方にあるのは未来で、後方にあるのは過去だが、それらは〈私〉にとって時間と呼ぶにふさわしいものでなく、〈私〉の実感する〈今〉だけが時間だ、という意味になろう。前段の解釈は異なっても後段の解釈は同じである。歌が表現する疾走感を背景に浮かび上がるのは、強い〈今・ここ〉(hic et nunc)感覚である。この感覚が一巻の通奏低音のように響く歌集と読んだ。
 永田淳は1973年生まれ。永田和宏の子息で、「塔」編集委員。短歌関係の出版社青磁社社主である。『1/125秒』はずいぶん遅い第一歌集で、昨年度の第35回現代短歌集会賞を受賞している。自著の編集はしにくいせいか版元は自社ではなく、俳句出版のふらんす堂。栞文はコスモスの高野公彦、未来の大辻隆弘、塔の松村正直の三人が書いている。高野は優しさのなかに異能を秘めた作者だと評し、大辻は茫洋としたのびやかさを言い、松村は些細に見えることの奥にある何かを捉えていると述べている。確かに三人の指摘はもっともなのだが、私が一巻を通読して最も強く感じたのは「時間」の重みだった。このことは珍しい歌集題名にも現れている。たぶん「ひゃくにじゅうごぶんのいちびょう」と読むこの題名は、カメラのシャッター速度を表していて、「印画紙に残されし1/125秒ほどの過去を君は好めり」という歌から採られている。人生の長さから見れば須臾の瞬きに等しい1/125秒で定着された光景を愛おしむ歌である。それ自体は取り立てて目新しい感想ではないが、作者が自分をまず時間の流れにある存在と捉えていることがうかがえる。
 集中の時間に関係する歌を見てみよう。
横断歩道渡りて煙吐き出せば同時進行の前世もあるべし
またヤゴの憂鬱に戻りゆくのだろうアキツは巨き顎持ちて果つ
午後三時数多の手首にぶら下がる時間と時刻神田神保町
東シナ海を今し抜けゆく台風の針路の東の夜に佇ちおり
 一首目は不思議な歌である。前世とは自分がこの世に生まれる前の生で、過去に属するものである。しかし歌では同時進行の前世とされており、字義通り解釈すればSFのパラレル・ワールドのようになる。日常にふと時間の穴に落ち込んで、別の生を生きているような気になる瞬間を詠んだものだろう。二首目はトンボの死を詠んだ歌。トンボが死んで幼生のヤゴに戻ることは本来は起こらないことだが、ここには種として循環的に流れる時間意識がある。三首目は電車の吊革を握る手にはめられた腕時計の歌だが、「時間」と「時刻」のちがいに注目したい。「時刻」はたとえば「現在午後三時」と表現されるように、現在時点においてしか成立しない。一方、「時間」は「もう二時間待っている」のように幅のあるもので時刻とは独立で、腕時計の時針はこの両方を表しているのである。考えれば確かにそうなのだが、改めて指摘されるとハッとする。また時刻は万人に共通のものだが、時間はそれを抱える一人一人によって異なることにも留意すべきだろう。四首目に時間は明示的に表現されてはいないものの、海上を進む台風によって強く暗示されていることは明らかである。「夜」にかかる「東シナ海を今し抜けゆく台風の針路の東の」という長い連体修飾句が、啄木の「東海の小島の磯の白砂にわれ泣き濡れて蟹と戯むる」と同じようなズームイン効果を生んでおり、最終的に到達するのは「佇ちおり」の隠れた主語である〈私〉が位置する〈今・ここ〉なのである。
 この時間意識はどこから来たものか。青春を過ぎて30代に入った作者が、「もう俺もジーンズの似合わないオジさんになったか」と感じて生まれたものではないようだ。集中には確かに次のようにやや甘さを含む過去への惜別の歌がある。
ただ海を見に行きたかりし夏として記憶のうちに留めておかな
永遠とは十代の修辞 名も知らぬ少女にあくがれいたる文月
数時間走らば海のあることをそこで逝かしむる時のあることを
 しかしこの気分は一巻の主調音ではなく、他の歌に見られる時間意識を説明するものでもない。作者の時間意識はむしろ次のような歌によく現れている。
驟雨きて驟雨は去りてまだ浅き春の夕暮れ暮れ残りたり
いつ知らず静かな春の雨となるずっと昔も同じ匂いに
潰れずに死にたる秋蚊を掌に載せて流しに捨つるまでの数歩
遮断機の撓りの先の触れ合わず揺れ止む前に上がり始めき
 最初の二首は時間の流れを抱えた歌で、たまたま両方とも雨の歌である。驟雨が来て止むまでの間、また雨の降り出しに気づくまでの間という比較的短い時間が含まれており、その動的変化に歌の眼目があると読んでもよい。しかしこれらの歌から否応なく浮かび上がるのは、流れる時間のなかにある人間である。それはつまるところ、人間が時間的存在であることに由来するのかもしれない。三首目と四首目は時間の流れではなく、〈今・ここ〉感覚の突出した歌である。晩秋の蚊は哀れ蚊と呼び季語ともなっているが、潰すまでもなく死んでしまった蚊を捨てる短い時間に〈今・ここ〉感覚が溢れている。四首目では降りた遮断機の左右の棒が揺れているために、触れ合うことなくまたすぐ上がり始めるまでの短い時の間が詠まれており、やはり〈今・ここ〉感覚の歌と言える。
 近代短歌は明治期の短歌革新を経て〈私〉を表現する詩型となったが、永田の歌にある〈私〉とは、特別な思想を持ったり特殊な経験をした〈私〉や、修辞に工夫を凝らして言語空間に楼閣を築こうとする〈私〉でもなく、「今ここにいる」という感覚に根ざした〈私〉なのだろう。「今ここにいる」ということは誰にでも当てはまる普通のことである。したがって永田が詠むのも、たとえば「アオリイカの目玉の大きなることを子らと言いおり鮮魚売り場に」のように、家族を中心とする普通のことになる。
 そんな集中でやや異色なのが、「誰も言わぬ」と題された三首のみの連作である。
金雀児の葉末を半月過ぎりゆく隣家の鳩が二度鳴きし時
一様の暗がりならず石階の手摺の根元に開く夕顔
誰も言わぬ日照雨が降りぬ京都北郵便局の隣りの路地に
 永田の歌に難解・難読語句は少ないのだが、珍しく金雀児エニシダ石階いしばしは辞書を引くはめになった。日照雨そばえは歌人好みの語なので、知らない人はいないだろう。この三首は永田の普通の歌の詠み方からすると、ずいぶん修辞を凝らした歌となっている。「難読語を用いる題詠」にでも出詠したのだろうか。そんななかでも一首目と三首目には特に〈今・ここ〉感覚を強く感じる。
 最後に私が特に好きな歌を一首挙げておこう。
今朝われら羽を持たざるもののごと清々しただ水溜まりを越ゆ
 私は「われら」に弱いので、ついこういう歌に丸を付けてしまう。この歌のおもしろさは、「羽を持たざるもののごと」と敢えて表現する矛盾にある。人間にはもちろん鳥や天使のような羽はないので、空を飛ぶことができない。天空の高みを目指して飛翔することができないのである。そのような人間の境涯を「羽を持たざるもののごと」と逆説的に表現し、続けて「清々し」と断じるところに作者の矜恃がある。永田は「ただ水溜まりを越える」という日常的行為と〈今・ここ〉に大きな価値を置いているのだろう。