第50回 藤島秀憲『二丁目通信』

金柑は小鳥のために捥がずにおく ひよどり、君は遠慮せよ
                藤島秀憲『二丁目通信』
 この歌集でいちばん受けた歌がこれである。私はマンション住まいだが、幸いかなり広いテラスがあり、家人がプランターでいろいろな植物を育てている。冬になると食料の乏しくなった山からヒヨドリとメジロが餌を求めて飛来する。リンゴやミカンの切れ端を木に刺しておくと、目ざとく見つけて寄って来る。わが家では声も姿も愛らしいメジロが人気なのだが、メジロが食べていると決まって乱暴者のヒヨドリがやって来てメジロを追い散らす。ヒヨドリは食いが荒いので、立ち去った後には何も残らない。だからヒヨドリには少し遠慮してほしいのである。誰しも同じ思いなのだと感得した。
 藤島秀憲は「心の花」所属。2005年に「二丁目通信」で短歌研究新人賞候補になり(その年の受賞者は奥田亡羊)、2007年に第25回現代短歌評論賞を「日本語の変容と短歌 ─ オノマトペからの一考察」により受賞している。第一歌集『二丁目通信』は2009年の出版で、さいたま文芸賞短歌部門で準賞を受賞。藤島は「短歌研究」の時評欄も書いており、短歌実作と評論の両方ができる歌人である。
 本歌集を繙くと、例えば次のように母親の介護と死、認知症の父親の世話、自身の失業と離婚など、重いテーマの歌がずらりと並んでいる。
介護用トイレに母の残しいし尿を捨てたり葬儀の後を
風呂場にて裏返しして洗うなり父の下着という現実を
ロッカーとデスクの抽斗空にする作業をまたもしているわれは
ピータンの好きな女になっていた 前妻もいる赤い円卓
 ここから跋文を寄せた佐々木幸綱のように、この歌集は読みようによっては介護歌集とも読めるという感想が生まれる。確かにそのような読み方も可能であり、また年老いた親の介護という現実が厳しいものであるのは疑いない。しかしその一方で、この歌集を単純なリアリズムに基づいて人生の不如意を詠ったものと取るのは危険だろう。そのヒントはあとがきにある。あとがきで藤島は、自分は三丁目に住んでおり、二丁目に住んでいる〈われ〉は三丁目の私とそっくりであると書いている。そっくりではあるが同じではない。二丁目と三丁目のちがいが現実と虚構の間の虚実皮膜であり、藤島の文芸の核心はそこにある。また藤島はこの点について極めて意識的な歌人なのではないかと思うのである。
 この歌集には夥しい固有名が登場するのだが、藤島の文芸を理解する手かがりになる人名が二つある。
コーヒー代節約二ヶ月ついにわが開く『山崎方代全歌集』
一生を晩年として過ごしたる小中英之を読んでいる 秋
 山崎は先の大戦で負傷して右目はを失明、左目の視力もほとんどなくなり、復員してからも定職と家庭を持たず、無用者として生涯を過ごした。「手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る」などの山崎方代の歌と藤島の歌の親和性は明らかである。また小中英之は若い頃から宿痾を抱え、死神と同道するがごとき生を送った歌人である。「雨期の花舗『末期の眼』にて眺むれば赤道直下航く船の見ゆ」のように、自らの死を見据えた透徹した文体を持つ。小中にとって自分の生は常に晩年であり、「俗世から退いて身を持する者のもつ頑なさとはかなさを、鎧のように身にまとっていた」(『過客』の辺見じゅんによる追い書き)という。山崎も小中も自ら選んだものではない事情によって人生から降りた人である。藤島は山崎と小中の二人の境涯に親しいものを感じ、自分を同類の者に擬することによって歌の根拠を確かめようとしているのではないか。介護や失業などの厳しい現実を歌に詠みながら、過度に深刻に陥らない軽みを感じさせるのは、この藤島の立ち位置に理由があるものと思われる。
ライオンズマンション脇の舗装路の止まれの〈まれ〉に雪凍てており
何百回夢に訪れくる母か納豆に醤油をかけすぎと言う
仏壇に苺六粒供えしが一時間後は三粒になりぬ
縁側の日差しの中に椎茸と父仰向けに乾きつつあり
あおむけの蝉のごとくにもがきおり今宵のわれはこむらがえりに
 藤島が好んで歌に詠むのは大事件ではなく、例えば一首目にある道路のペイントの止まれの〈まれ〉に雪が凍結しているというような、徹底して日常のどうでもよいような些事である。目線を低くし、日々のトリビアルな出来事に拡大鏡を当てるようにして、ペーソスとユーモアをまぶしながら詠むのが藤島の手法なのだ。だからこれらの歌の〈われ〉は等身大かそれよりやや小さめに描かれているが、決して現実の藤島ではない。
 藤島の短歌のもう一つの特徴は、歌の中に物語が塗り込められていることである。跋文で佐々木は啄木の手法を継承・発展させようとしていると指摘しているが、直近の手本は寺山修司だろう。
老婆ふたり暮らす家より泣き声と笑い声どっと起こる春宵
漢文の教師の家の日の丸がのたりと垂れてしずかな旗日
傘立てに三本の杖 おじいさん二人が「きょうの料理」見ている
首のない男女が金を受け渡すシャッター半分下ろされた店
 これらの歌に詠われている光景は妙に具体的で、まるで掌編小説のようなドラマを内包している。例えば一首目で老婆二人が暮らす隣家から泣き声と笑い声が起きるとは、一体いかなる事件が起きたのかと考えてしまう。また三首目では、老人二人に杖が三本と数が合わないところがミソで、残りの一本の持ち主はどこへ行ったのか。見ている番組が「きょうの料理」というところに不穏な気配がある。四首目でシャッターを半分下ろした店で金を受け渡ししている男女はただならぬ関係だろう。いくらでも想像が膨らむのである。歌に物語を織り込むのは、例えば福島泰樹や笹公人のように、ふつう浪漫の回復を目的とするのだが、藤島の場合はちょっと違っていて、虚実皮膜の異空間である非在の二丁目を立ち上げるためではないかと思われる。このことは固有名を詠み込んだ歌にも言えることである。
ああ行ってしまったバスに揺られていんマルヤマ人形店の広告
綱吉は出るか出ないか話し合うカーブ・ミラーの下の女生徒
お祭りの日だけ近所の人になる二軒となりの大泉さん
肩こりを叩くにちょうど手ごろなり かどや純正ごま油の壜
 ラッセルの指示理論によれば固有名は記述の束であり、背後に大量の意味を内包している。固有名には意味がずるずると付いて来る。「マルヤマ人形店」や「かどや」がどんな店か読者にはわからなくても、そこには意味を含んだ空間が形成され、物語が誘因されるのである。
 藤島が好んで数字を詠み込むのも他の理由からではない。
駐車場まで四十七歩なり五十二キロの父を背負えば
二本立て映画に二回斬られたる浪人は二度「おのれ」と言えり
伊右衛門のペットボトルとともに浮く鴨の三羽と白鷺の二羽
白鳥はあまり遠くを見ずに飛び年金手帳の厚みは二ミリ
銀行の二十五日の列の中十秒ごとに二歩ずつ進む
 数字は具体性を帯び、地を這うようなリアリティーを生む。しかしながら偏執的とも思える具体性への嗜好は、アララギ的生活即歌のリアリズムをめざしたものではない。現代絵画のハイパーリアリズムがかえって魔術的夢幻性を実現するのと同様に、これらの数字もまた虚実皮膜の異空間である非在の二丁目を作り上げているのである。
 一読してすっと意味の通じる平易な口語短歌の見かけの裏に、周到に仕掛けられた文芸装置がある。見かけに騙されてはいけないのである。