第57回 浦河奈々『マトリョーシカ』

ああマトリョーシカ開ければ無上なる怖さ 人より出でてまた人となる
                   浦河奈々『マトリョーシカ』
 マトリョーシカは素朴な表情の人形の中に人形が何重にも入れ子に入っているロシアの民芸品である。作者はそれを怖いと言う。下句「人より出でてまた人となる」は出産の喩と読むこともできるので、この歌を出産恐怖の歌と解することも可能である。本歌集には子がなく母になれないことへの屈折した心理を詠んだ歌も散見されるので、あながち間違った読みとも言えない。しかし本歌は出産という地平を超えて、表層の奥に隠されたものの開示への畏れの感覚を詠んだものと取りたい。作者は「白孔雀も月下美人も生きるとは展くことなり吾はくるしゑ」のように、自己を外へと開くことへの恐怖感を執拗に歌にしているが、それは表層の奥に隠されたものが露出することへの畏れでもある。この感覚が本歌集の底を流れる主調低音となっている。
 浦河奈々は「かりん」所属。2007年に短歌研究新人賞次席に選ばれ、本歌集により2009年に第10回現代短歌新人賞を受賞している。『マトリョーシカ』は2009年刊行の第一歌集で、翌年には二刷が出ているので多くの人に読まれたのだろう。跋文は米川千嘉子。
 女性歌人の歌集を読むと、「女の一生」のようにその人の人生の軌跡を辿ることができる場合が多い。本歌集も例外ではなく、次のように結婚・就職・夫の転職・転居など確かに人生の軌跡を示している歌がある。
貝のやうな家からわれを引き剥がし異性と暮らしてみたかつたのだ
虫食いの木の葉のやうなわたくしを覆ひ隠して履歴書を書く
隣には四人の子ゐて上階にみどりご産まれし社宅より出づ
教師へと転身したる君がゆく白ワイシャツにネクタイをして
 しかしこのような歌が本歌集の根幹をなすわけではなく、むしろ逆にこのような歌が途中に挿入されたエピソードであるかのごとく見えるところに、ネガとポジが逆転したような不思議な印象を受ける。では本歌集の根幹をなす歌はどのようなものかというと、それはずばり「生の苦しさ」を歌う歌である。
スマトラオホコンニャクの巨きな巨きなスカートよ怨恨すべて吐き出したまへ
咲くことが不安でたまらぬさくらのまへ何か銜えてとびゆく鴉
ふしくれ立つた胴ひとねぢりふたねぢり桜の大樹は生きてくるしゑ
 ちょうど先頃、小石川植物園でスマトラオオコンニャクが開花したことがTVニュースで流れていた。熱帯の花で強烈な腐臭がするという。この歌にも展開と開示への畏れが見られるが、スマトラオオコンニャクが内に抱えているものを怨恨と感じるところに作者の心理がある。腐臭は怨恨の発する臭いか。ちなみに告白への焦燥のなせる業か、特に初句字余りの歌が多いことにも気が付く。二首目と三首目は桜を詠んだ歌だが、ここまで桜に自己投影した歌も珍しかろう。客観写生からも花鳥諷詠からもほど遠いスタンスに作者はおり、歌に詠まれた桜はもはや桜の姿すらなしておらず、樹木のポーズを取った自己以外の何物でもない。この強烈な自己投影が浦河の歌の有り様を決定していると言ってよい。
 「生の苦しさ」の原因はいろいろある。母になれない嘆きを歌う歌がある。
母性とふ地下水脈のみつからぬ身体にまぼろしのリュート抱きしむ
社宅には濃密な母子のいぶき満ち立ち尽くしたる新妻われは
 また心理的不安感を詠んだ歌もあり、それはただちに心療内科や眠剤へと続く。
アイロンのランプ点滅してる間にすぐそこに来てゐる鬱の穴
まざまざと髑髏をつけた女神ゐる隣に立つて米研ぐわたし
わたくしに敵なんかゐないと言ひ聞かすカウンセラーは魔女に似てゐる
錠剤をちひさく割りて半月の白きを飲めば霧に沈める (注)
 この結果として次のような自己認識の歌が生まれる。
人間じんかんにおきてみつむる自我ひとつヱチゼンクラゲのやうに漂ふ
巨いなる遠景にして墨絵なる冬枯れの浦の住人われは
 このような歌は読んでいて息苦しくなるほどだが、浦河の歌がすべてこのようなトーンかと言えばそんなことはない。万象を自我で塗りつぶすような強烈な自己投影とは異なるスタンスから作られた歌があり、むしろこちらの方に作者の個性がよく表れているとも思えるのである。
三叉路のにんじん畑さみどりの繊き葉そよぎにんげんは居ず
にんげんのこころを統べる快楽を松浦亜弥は知つてゐるらむ
白衣纏ふアッシャー家のひと想ふとき烈しく湯気を噴く炊飯器
揖保乃糸ひたすら啜り上げてゐる夕べは暑く人間とおし
脳天の白髪のあたり見られつつ宅急便にシャチハタを押す
 一首目は人気のない人参畑を詠んだ歌だが、四句目まではほぼ完全な叙景で、結句に至って転調し主観判断となる。ぶっきらぼうな物言いが描かれた光景を際だたせ、どことなくおかしみのある静かな歌となっている。二首目、かつてアイドルの頂点を極めたアヤヤこと松浦亜弥は、ファンの心をわが手に掴む快楽を知っているにちがいないという歌だが、庶民的アイドルの松浦亜弥を引き合いに出したところがおもしろい。三首目の「白衣纏ふアッシャー家の女」は、ポーの短編「アッシャー家の崩壊」で、兄に生きながら棺桶に入れられる妹のマデリンである。アッシャー家の崩壊というゴシックロマンス物語と湯気を噴く炊飯器の取り合わせの妙がある。どことなく換骨奪胎の味のある歌である。四首目はそうめんを啜る夏の夕暮れの光景で、「夕べは暑く人間とおし」の納め方がうまい。五首目は解説不要でおかしみのある歌。
 なぜ上に引いたような歌をおもしろく感じ、作者の個性が表れていると感じるかというと、作者に余裕があり、歌と〈私〉の間に適切な距離が置かれているからである。必死に作った歌は怖い。切羽詰まって余裕がなくなっているからだ。うまく行けば確かにその必死さが読者の心に届くこともある。しかしその必死さが読者の首を絞めにかかることもある。浦河の目に世界と〈私〉は、ついに解明されることなく闇に沈むワンダーと映っている。そのことが歌を読んでいてよくわかる。それが浦河の抱えたテーマである。しかし一読者としては、世界がワンダーであることを詠んだ歌よりも、作り上げられた歌そのものがひとつのワンダーであるような、そんな歌を読んでみたいと切に願うのである。

(注)「飲む」はほんとうは異なる漢字なのだが、文字コードの関係で表示できないのでご容赦いただきたい。