第58回 短歌のなかの事物たち

 短歌を読む楽しみのひとつに、歌のなかに詠み込まれた事物との出会いがある。短歌のなかには純粋に想いだけを詠んだものもないではないが、たいていは何らかの事物が詠み込まれている。
君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ  北原白秋
観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生  栗木京子
 誰知らぬ者のない有名な歌を二首挙げたが、白秋の歌では林檎が、栗木の歌では観覧車が、歌の生命線として働く事物として詠み込まれている。これらの歌を一度読んでしまったら、もうそれ以後は自分の頭のなかに格納された語彙貯蔵庫において、林檎と観覧車とは切り離すことのできない意味として漂い続けることになる。言語の豊かさとはそういう目に見えない意味から構成されている。
 短歌を読み始めたとき、多くの歌人の歌に繰り返し現れる事物があることに気づいて、ノートにメモするようになった。「卵」「紫陽花」「自転車」「観覧車」「噴水」「音叉 」「便器」「ハルシオン」「冷蔵庫」「きりん」などがメモされている。千勝三喜男『現代短歌分類集成』や、先頃公刊された『角川現代短歌集成』全五巻もテーマ別のアンソロジーだが、なにせ分類項目が森羅万象にわたっているので、項目ごとの収録歌数は少ない。私の理想は小池光の『現代歌まくら』(五柳書院)で、小池らしいセンスで選ばれた事物や地名の歌のアンソロジーである。なかには「菜の花」や「みずうみ」など、いかにも短歌らしい事物もあるが、「ノバヤゼムリア」とか「遮断機」のように一風変わったものもあっておもしろい。なかには「蛇崩」のように佐藤佐太郎専用の歌まくらもある。
見えざる手がやさしく廻す観覧車秋冷に死者ばかり乗せて  松野志保
青年死して七月かがやけり軍靴のなかの汝が運動靴  安藤 正
 栗木の歌では青春期の恋のアイテムだった観覧車は、松野の歌ではその甘やかさを冷徹に剥ぎ取られて、死と生の境界に回転する不吉な装置となっている。また安藤の歌では運動靴が青年の早すぎる死を悼むアイテムとして、動かせない重みを持っていることは言うまでもない。いずれも観覧車と運動靴という事物の持つ意味、つまりは私たち自身が事物に付与する意味を十全に発揮した例と言えよう。このように詠まれてはじめて事物は、歌のなかで一回性の輝きを帯びるのである。
 今改めてこのようなわかりきったことを書くのは、現代短歌のなかで事物の意味が衰弱しているのではないかと感じるからだ。それは現代短歌が穂村弘の言う「ワンダー」から「シンパシー」へと大きく舵を切ったことと関係しているだろう。「ワンダー」においては事物は日常とは異なる意味性を帯びるが、「シンパシー」は〈私とあなたは同じ〉という水平感覚に立脚している以上、日常を超えるベクトルを持たないからである。
 今年度の短歌研究新人賞受賞者が先頃発表された。京大短歌OBの吉田竜宇「ロックン・エンド・ロール」と早稲田短歌会の山崎聡子「死と放埒な君の目と」である。選考座談会で佐佐木幸綱が「これで完全口語短歌の時代になった」と感想を述べたように、口語短歌を作る若い二人の受賞となった。受賞作品にたいする批評はいろいろあるだろうが、ここではそれらを一切捨象して、事物がどのように詠まれているかという一点に絞って見てみたい。
 吉田竜宇「ロックン・エンド・ロール」から事物が詠み込まれた歌を抜き出してみよう。
[噴水、靴]
戦争がしたい 広場の噴水に誰かが靴を落としていった
[水槽]
水槽を抱えて歩くぼくたちはきっとなにかを忘れたままで
[貯水タンク]
またひとりまっさかさまを見届けて貯水タンクがふくらむ真昼
[角砂糖]
夜更かしをしても叱られないキミに預けるたくさんの角砂糖
[極楽鳥花]
殖えすぎた極楽鳥花ストレリチアを半透明のふくろに詰めている夜明け前
[観覧車]
観覧車の楕円の影にかこまれてなんども同じことをしようよ
[ビニール傘]
ところにより運命論を伴ってビニール傘に降る冬の雨
[指輪]
カーマイン・レッドを搾り出すほどの力を込めて抜かれた指輪
 一首目に詠まれている事物は「噴水」と「靴」である。噴水の歌といえば次のようなものがある。
噴水は疾風にたふれ噴きゐたり凛々たりきらめける冬の浪費よ
                      葛原妙子
水は水に触れてさざめく噴水のみづのあそびを見つつ過ぎゆく
                      古谷智子
 葛原の歌も古谷の歌も噴水の姿を独自の眼差しで捉えている。こうして吉田の歌と並べてみると、歌の作り方が決定的に変化していることに改めて気づく。葛原や古谷の歌には事物に注ぐ眼差しがある。確かに事物の向こう側に何かを見ようとする意思はあるものの、事物はその眼差しの橋頭堡として歌のなかで確かな存在感を与えられている。一方、吉田の歌で事物の存在感は、まるで書き割りのように極めて薄い。何か伝えたい想い、表現したい空気がまず最初にあり、事物はその単なる口実のように置かれている感じが拭えない。吉田の歌では噴水も靴も小道具にすぎず、そこからどのような噴水の姿も伝わってこない。短歌に詠まれた事物好きとしては、これは何とも物足りないのである。
 二首目の「水槽」はおそらく熱帯魚などを飼育する水槽だろう。「水槽を抱えて歩く」という非日常的イメージには興味を引かれるが、これも下句が表す気分に奉仕するためにある。このような事物の捉え方が今の若い人たちの歌によく見られる。
 三首目の「貯水タンク」はビルの屋上などにある給水用のタンクである。「またひとりまっさかさま」は飛び降り自殺のことだが、貯水タンクは密閉されているのでタンクに飛び込んだわけではなかろう。ならなぜ貯水タンクが膨らむのかは謎だが、都会の不気味さはよく出ているのは確かである。
 一方、四首目の「角砂糖」はかなり疑問だ。角砂糖のどのような特性が歌の意味に寄与しているのか不明であり、角砂糖を別のものに変えてもなんら変わらないように思える。
 五首目の「極楽鳥花」は一連のなかで最も非日常的なアイテムであり、また最も成功している事物の例である。極楽鳥花は鳥の頭部を思わせる特異な形状の花であり、花を袋に入れることはあるだろうが、連想からまるで鳥を袋詰めにしているイメージが湧く。「殖えすぎた」とあるので捨てるためだとすると、華麗な花の姿との対比が際だつ。どことなく、「輸出用の蘭花の束を空港へ空港へ乞食夫妻がはこび」という塚本邦雄の歌を連想されるものがある。
 六首目の「観覧車」に必然性が弱いのにたいして、七首目の「ビニール傘」はアイテムとして生きていると言えるだろう。若い人の短歌によく登場するアイテムではあるが。
 八首目の「指輪」は呪的要素(ex. トールキンの指輪物語)と婚約・結婚の象徴(その反面としての隷属)としての意味を伝統的に帯びているアイテムだが、吉田の歌は状況がはっきりしないため、指輪に付与された意味づけがわからない。一首から伝わるのはただ盲目的な熱情もしくは暴力である。事物としての指輪の結像力はここでも低い。
 次は山崎聡子「死と放埒な君の目と」から抜き出してみよう。
[マルボロ]
夕闇のきみ、指先にて湿りゆくマルボロあれを花火と呼ぼう
[ソーダー]
ソーダーのにおい仄かに立ちのぼる手首を君に押し当てている
[黒角砂糖]
「四谷っていつでも風が強く吹く」黒角砂糖たたき割る姉は
[バスタブ]
真夜中に義兄あにの背中で満たされたバスタブのその硬さを思う
[サンダル]
ペディキュアを塗っては十の足指をひたむきにサンダルに沈める
[助手席]
助手席のクーラーからは八月の土のにおいが漏れて 遠雷
[カローラ]
罪深いおしゃべりばかり溢れだす、カローラ、義兄(あに)のカローラ
[ブラウス]
八月は耳鳴り あの日校庭の日陰に埋めた白いブラウス
 書き写してみて初めて気がついたが、山崎の歌に登場する事物はカタカナものが多い。作者が女性なので当然と言えば当然である。もうひとつ気づいたのは、漢字と仮名の配合がワープロ変換通りである。ふつう漢字で書くところを平仮名で書いたり、その逆をしたりする表記上の工夫を山崎はほとんど行なっていない。
 そのことは措くとして、山崎の歌に詠まれた事物たちは吉田のそれらとは表情がちがうことにすぐ気づかされる。一首目の「きみ」は男性なので、「マルボロ」は男性性の象徴としてのアイテムである。アメリカ煙草のなかでもとりわけ男性性が強いので、意図して選ばれたアイテムであり、その意味作用は歌の読みに寄与している。
 二首目の「ソーダー」が炭酸水だとすると匂いはないはずなのだが、何かの炭酸飲料なのだろうか。手首を君に押し当てている「私」は女性だから、ふつうなら香水やオードトワレが匂うところで、そこに敢えて「ソーダー」を持って来るのは意図的なものだろう。喚起される意味は「未熟」と「夏」である。
 三首目の「黒角砂糖」は聞き慣れない単語だが、沖縄名産の黒糖の角砂糖か。ならば正六面体ではなくごつごつした不揃いな形状だろう。しかし「四谷の風」との意味的関連がよくわからない。黒糖をたたき割る姉というのは、なかなかダイナミックなイメージではあるが。
 四首目はこれだけ取り出すとわからないが、一連は作中の〈私〉が義兄に寄せる思慕がテーマになっており、この歌はけっこうアブナイ歌なのである。義兄とは三首目で黒糖をたたき割っていた姉の夫のことだ。バスタブの妄想はもちろん性的なもので、ここではステンレスなどではなく、昔風の白い陶製のバスタブであってほしい。バスタブの事物としての意味は言うまでもない。
 五首目のペディキュアをした指はもちろん義兄に見てほしいのである。「ひたむきに」と「沈める」に〈私〉の想いがよく表れていて、「サンダル」は夏のアイテムとしてありふれてはいるが必然性がある。
 六首目で〈私〉は助手席に乗っており、運転席には義兄がいる。古内陶子の名作にずばり「助手席」(Dark Ocean収録)という歌があるが、助手席は優れて女性的なアイテムである。クーラーから漏れる土の匂いと遠雷が、差し迫った危険な空気を演出している。この歌では「助手席」の持つ意味性が効果的に用いられていると言えるだろう。
 七首目の「カローラ」はポルシェやベンツではまずい。ここはカローラでなくてはならない。それは義兄がふつうの市民だからである。カローラが象徴するふつうの市民性が、一連で顔の見えない義兄にあるポジションを付与している。一首目の「マルボロ」と並んで固有名ではあるが両方とも商品名であるところに、消費社会における現代短歌ならではの軽みが感じられる。
 八首目は「校庭」とあるので高校時代の回想かと思われるが、白いブラウスを埋めるというのはあまりすることではないので、象徴もしくは暗喩と理解する。「白いブラウス」イコール「何も知らなかった純潔な私」と取るといささか陳腐で、永田和宏の言う「能動的喩」にまで至っていない。
 以上、吉田と山崎両氏の歌における事物の相貌を観察してきたが、山崎の歌の方がより事物が生きていると言えるだろう。別に紅白歌合戦をしている訳ではないので優劣をつける必要はないが、総合的な判断としてはそのように言える。
 しかし問題はそんなことではない。上にも書いたように、現代短歌ではどうも事物の意味が衰弱しているのではないかということが心配だ。それは程度の差はあれ吉田の歌にも山崎の歌にも認められるところである。
火の奥に牡丹崩るるさまを見つ  加藤楸邨
眼球のごとく濡れたる花氷  山口優夢
鵞肝羹フォワグラのかをりの膜にわが舌はひ ゆめかよふみちさへ絶えぬ                         塚本邦雄
子の口腔くちにウエハス溶かれあは雪は父の黒き帽子うすらよごしぬ
                             小池光
 楸邨の牡丹、優夢の花氷、塚本のフォワグラ、小池の帽子とウエハースは、それぞれ句や歌のなかで意味性を帯びつつも、意味へと解消されることなく、確かな存在感を持ってくっきりと結像している。牡丹の花を見、フォワグラを口にするとき、楸邨の句や塚本の歌を脳裏に浮かべずにはいられない。そんな風に思える事物との出会いを、句や歌に期待したいものだ。