第59回 光森裕樹『鈴を産むひばり』

おたがいの母語に訳して聴いてみるおのまとぺいあミュンヘンは雨
                 光森裕樹『鈴を産むひばり』
 作者は旅行中にミュンヘンにいて、おそらくドイツ人と英語で会話をしている。話の中で擬音語が話題になり、英語でまず言われた擬音語を日本語とドイツ語にそれぞれ言い換えて自分の耳で聴いているという場面だろう。擬音語は動物の鳴き声を表す「ワンワン」や、事物のたてる音を表す「バタン」など自然界の音を模したものなので、どの言語でも共通だと思われるかもしれないが、実はそうではない。その言語の音韻体系というフィルターを通して濾過されるため、かなり異なっている。だからこの歌ではおたがいの母語に訳しているのだが、擬音語を「訳す」という発想に一瞬虚を突かれる思いがする。音と言葉に敏感な歌人ならではの発見だろう。それまでの二人の会話が止んで、それぞれ自国語の擬音語に内省的に耳を傾けている静止的な場面と、それに反比例して前景化される窓の外に降るミュンヘンの雨との対比も美しい。「おのまとぺいあ」の日本語表記が歌の意味に貢献しつつ、韻律を内部から支えている点にも注目すべきだろう。平仮名表記は読字速度を遅くする効果があるからである。
 光森裕樹は1979年生まれ。京大短歌OBで、「新首都の会」や「さまよえる歌人の会」などに参加しているが、所属結社はなし。2005年に「鈴を産むひばり」で第16回歌壇賞候補、同年「水と付箋紙」で第51回角川短歌賞次席、2008年「空の壁紙」で第54回角川短歌賞を受賞している。『鈴を産むひばり』はこれらの候補作や受賞作を収録した第一歌集なのだが、誰しも驚くのはその造本の簡素さである。カバーなし、帯なし、帯文なし、栞なし、跋文なしのないない尽くしで、巻末の経歴はたったの2行しかない。しかも版元は「港の人」という無名の出版社で、歌集を出すのは初めてだという。ふつう角川短歌賞受賞クラスの歌人なら、歌集専門の出版社から美麗な装幀で出版し、名のある歌人に依頼した栞文を添え、結社に所属していれば主宰の跋文を拝領するのが普通のやり方だろう。光森はその一切を実に軽やかに拒否してみせたわけだ。これには二つのことを感じる。まず若い現代歌人の多くは、結社のような前世紀的組織体への帰属と、その中での〈雑巾掛けから始める〉的人間関係のしがらみを嫌うということである。それはよくわかる。しかしそれと同時に感じるのは、歌人として生きる以上、人間関係的しがらみは避けようもなく、またしがらみは逆説的ながら歌を生み出すエネルギーともなるということである。爽やかにスタイリッシュに生きたい人はドロドロを嫌う。そのことは光森の歌の質に如実に反映されているように思う。
 若い歌人の短歌をひと言のキーワードで言い表すのは難しいのだが、あえて光森の短歌を形容すると、「あらかじめ傷ついていた〈私〉的気分の完全な不在」という、我ながらいささか「長すぎる」ルナール的形容になるだろう。光森が成人した頃にはバブル経済が崩壊して「失われた20年」に突入していた世代なのだが、この世代の男性歌人には珍しく「不景気な感じ」(by荻原裕幸)がない。近代短歌の王道を行く清新な抒情詩である。これが最も感じられるのが、連作「水と付箋紙」だろう。「水と付箋紙」という題名は水泳と遺稿歌集を表しており、この二つのテーマが光と影のように交錯する構成になっている。
泳ぐとき影と離れるからだかなバサロキックでめざす大空
しろがねの洗眼蛇口を全開にして夏の空あらふ少年
いちにちの読点としてめぐすりをさすとき吾をうつ蝉時雨
どのように挿れるフォークもこぼすだらうベリータルトにベリーはあふれ
 バサロキックは背泳ぎのスタート時の泳法で、仰向けになり腕を伸ばして壁をキックする。バタフライのドルフィンキックと並んで力動的な泳法である。よりポピュラーなドルフィンキックを選ばなかった点に作者の工夫がある。二首目はバリバリの青春歌。三首目は特に私が好きな歌で、朝日新聞の短歌時評で田中槐もこの歌を引いていた。青春の明るさだけでなく、ふと過ぎる暗さを感じさせる。四首目に若者の不全感が若干感じられはするが、全体の基調とはならない。
だとしてもきみが五月と呼ぶものが果たしてぼくにあったかどうか
「きみ」が『われに五月を』の寺山修司であることは明らかだが、「髪の毛をしきりにいじり空を見る 生まれたらもう傷ついていた」(嵯峨直樹)のような不全感全開の方向には光森は行かないのである。
 本歌集で素材的に新しさを感じさせるのは次のような歌群だろう。
ハーケンのごとく打たれし註釈を頼りにソースコードを辿りぬ
あかねさすGoogle Earthに一切の夜なき世界を巡りて飽かず
行方不明の少女を捜すこゑに似てVirus.MSWord.Melissa
つひに巴里さへ燃えあがる夜も冷えびえと検索窓は開いているか
 作者は生き馬の目を抜くIT業界で働いている。近代小説と並んで近代短歌はこの世のあらゆる物事をテーマとしうる術を開発したが、コンピュータ・ネットワークの形成するサイバースペースも短歌で詠われるようになったのである。一首目、「ソースコード」とはコンピュータのプログラム開発の最初の状態で、コンパイルされる前の状態を言う。原作者のコメントが書き込まれており、それを頼りにプログラムを解読しようとしているのである。他人が作ったプログラムはわかりにくいのだ。原作者のコメントをハーケンに喩える喩は、おそらく短歌では初めてだろう。Google Earthはグーグル社の提供する衛星写真で、原理的に地球の昼の世界のみが写されており夜の映像はない。当然と言えば当然なのだが、改めて指摘されると夜のない地球に愕然とする。三首目のMelissaはミレニアム前後に世界的に流行したコンピュータ・ウィルスの名前。パソコンのどこかにウィルスが潜んでいないか捜索しているのである。メリッサが女性の名前であることからの連想から生まれた歌。ちなみにメリッサとは、後に逮捕された作者が贔屓にしていたストリッパーの名前だったらしい。四首目にはBrennt Paris?と詞書がある。ヒットラーの「パリは燃えているか」だが、それをウェブ・ブラウザの「検索窓は開いているか」へとずらしている。これらの歌ではコンピュータという素材の新しさに寄りかかることなく、作者の目指す知的な抒情へとうまく組み込まれていると言えるだろう。
 光森の作風は時に「クール」と評されることがあるが、確かに身を捩るような詠嘆はあまり見られない。すべての歌に知的な世界把握が勝っている。そのような世界への向き合い方は、次のような歌によく現れている。
ていねいに図を描くのみの答案に流水算の舟すれちがふ
フィラメント繋げる如く綴りゆき立ちかへりては打つウムラウト
国匡匡圧土十一くにほろぶさま一十圧匡匡国くにおこるさまけふも王が王座を吾にゆづらぬ
ほほゑみを示す顔文字とどきゐつ鼻のあたりで改行されて
指示をだすケネディ国際空港JFKを”Jack-Fox-King”と呼び替へ
 流水算は算数の問題のひとつで、「ある川のA地点からB地点に川を遡るときはa時間、下るときはb時間かかる。水の流れる速度と舟の速度は一定だとすると、それらはいくらか」というのが典型的な出題形式である。掲出歌の答案には川を遡る舟と下る舟とが描かれているが、計算と解答がないのである。学習塾の光景だろうか。答のない二艘の舟だけが答案用紙の上ですれ違うところに詩的抒情が漂う。次の二首は言葉そのものを素材にした歌。二首目のウムラウトとはドイツ語で発音を表す記号のこと。ドイツ語を筆記体で綴っているので「フィラメント繋げる如く」なのである。三首目の2文字目はほんとうは「はこがまえ」に「玉」なのだが、文字コードの制約で表示できないのでご勘弁いただきたい。「一十圧匡匡国」の5文字目も同様。「国滅ぶ様」とルビの打たれた「国匡匡圧土十一」は、漢字の画数が少しずつ減っていて、国が滅ぶ有様を視覚的に表現した一種の漢字遊びなのである。四首目は電子メールなどで使う顔文字を素材にした歌。顔文字は既存の記号を組み合わせて作るので、鼻のあたりで行末になってしまい、顔の残りが次の行に行っている。微笑みが分断されているところが哀れを誘う。五首目は、航空機のパイロットの交信で空港を表す略号JFKを伝達する際に、聞き間違いが起きないようにJをJack、FをFox、KをKingと発音して伝えている場面。悲劇の大統領ケネディが「キツネの王ジャック」になっているところにおかしみがある。いずれの歌も人生の重大な場面での喜怒哀楽を詠った歌ではなく、ふつうならば気づかれずに過ぎてゆく日常のささいな場面に静かな詩情が漂う歌になっている。これが光森の持ち味であり、そのように歌を組み上げて行く手つきは非常にうまい。
 しかし少しやり過ぎると、読んだだけではわからない考え落ちになることもある。次の歌などそうだろう。
ものの影増しゆく厚みにつまづけば八月が持つ二度のヴェイユ忌
日本語にVersionありや紅玉の名を持つ言語にゆふべ戯る
 よく知られているのは哲学者のシモーヌ・ヴェイユで、1943年8月24日に亡くなっている。戦争に反対しての自発的餓死である。その兄アンドレ・ヴェイユは有名な数学者で、1998年8月6日に死亡している。だから8月には2度のヴェイユ忌があるのだが、ふつうの人は兄の数学者を知らないので理解できないだろう。二首目には「Ruby 1.8.7」という詞書がある。Rubyは日本で開発されたコンピュータ言語の一種で、宝石のルビーの和名は「紅玉」という。これを知らないと歌の意味はわからない。詞書の「Ruby 1.8.7」はこの言語のバージョンを表しているので、「日本語にVersionありや」なのである。かなり凝った造りで、少しやり過ぎの感もないではない。
 しかしこれらの歌を見ても光森の基本的スタンスが、世界の情的把握ではなく知的把握に傾いていることがわかる。読者はその痕跡をなぞるように歌の世界に導かれ、軽い驚きと静かな抒情を味わうことになる。若手の男性歌人でこのような歌の世界を作り上げている人は少ない。その意味でもこれからますます期待される歌人と言えるだろう。本書は待望の第一歌集であり、本書を繙く人は決して期待を裏切られることはあるまい。
 最後に特によいと思った歌を挙げておこう。
ポケットに銀貨があれば海を買ふつもりで歩く祭りのゆふべ
売るほどに霞みゆきたり縁日を少し離れて立つ蛍売り
今日、星の遠心力はおだやかにして径のに揚羽蝶あり
廃線になる日は銀杏のふるさとを囲ふ踏切すべてあがる日
火にかざすべくうらがへすてぶくろの内側となる冬のゆふやけ
ビル壁面を抜けて鴉にかはりたり羽ばたく影とみてゐしものが
ドアの鍵強くさしこむこの深さならば死に至るふかさか
致死量に達する予感みちてなほ吸ひこむほどにあまきはるかぜ
 長くなるので一首ごとの読みは書かないが、二首目の蛍売りは夜の闇の中で売り物の蛍の明かりに照らされているので、蛍が減ると闇に霞んでゆくという仕組みである。ほんとうにあった光景とはとても思えないが、幻想的で美しい。三首目は前衛俳句のような味わいの歌。東経・西経を表す経線はほんとうに地球上に描かれているわけではないが、ちょうど経線上に蝶がいるという把握である。地球という極大と蝶という極小の取り合わせが前衛俳句的で歌柄の大きな歌だ。このような味わいの歌がもう少しあってもよいか。六首目は影と見えたものが実際には鴉だったという発見の歌で、これもおもしろい発想。五首目や八首目の歌の感触は、どこか村木道彦を思わせるものがある。
 最後にもう一度造本に触れておくと、活版印刷なのがよい。紙に触れたとき文字に凸凹が感じられ、活字に表情がある。コンピュータ製版のオフセット印刷の文字は平板で表情がない。ここにも作者のこだわりが感じられる。糸かがり綴じ製本も近頃はあまり見ないやり方だ。作りたいように作った歌集である。何を幸福と感じるかは人によってちがうが、やりたいようにできたというのは幸福の一つの形かもしれない。ならば作者は幸福な歌人と言えるだろう。