暮れながらたたまれやまぬ都あり〈とびだすしかけえほん〉の中に
佐藤弓生『薄い街』
佐藤弓生『薄い街』
本書は昨年(2010年)末に刊行された佐藤弓生の第三歌集である。本コラムの前身「今週の短歌」で2004年8月に第一歌集『世界が海におおわれるまで』を、そして「橄欖追放」としてリニューアルした第一回目の2008年4月に第二歌集『眼鏡屋は夕ぐれのため』を取り上げているので、佐藤は今回で三度目となり、本コラム最多登場である。
歌集題名の『薄い街』とは不思議なタイトルだが、巻末近くで稲垣足穂の短編に由来することが明かされる。「この街は地球上に到る所にあります。ただ目下のところたいへん薄いだけです」という引用があり、次に「手ぶくろをはずすとはがき冷えていてどこかにあるはずの薄い街」という歌が、あたかも稲垣の引用にたいする反歌のごとくに置かれている。どうやらこの「反歌」が本歌集のコンセプトらしい。本歌集で引用されているのは泉鏡花、安西均、澁澤龍彦、吉田秀和、シュペルヴィエルなどで、このような構成によって一巻が言葉の交響曲のようにも感じられる。
さて、本歌集の内容だが、私は通読してこの歌集は〈声〉をめぐる主題と変奏ではないかと感じた。どこからか声がする。その声はこの世のどこからか聞こえて来るのかもしれないし、この世ならぬ場所から聞こえて来るのかもしれない。低く流れるその声に〈私〉はじっと耳をすます。そのような印象を受ける歌が多い。たとえば次の歌にははっきりと声が登場している。
これらの歌を見てもわかるように、誰の声なのかとか、どこから聞こえて来るのかなどと問うても無駄なのだ。それは世界に満ちている声なのである。作者はその声にそっと耳をすます。そのとき口から流れ出る歌には、悲しみとかすかな滅びの予感が刻印されている。
世界に満ちている声は、果てしない日常を生きる我ら凡夫の耳には聞こえない。そんなものに耳を傾けていたら仕事にならないからである。詩人の仕事は我ら凡夫に代わって秘やかな声を聴くことである。私たちが詩人にたいしていささかの無軌道や放埒を大目に見るのはこのためである。
佐藤の作風については過去二回のコラムで詳しく論じたので、ここで繰り返すことはしないが、本書を読んであらためて感じるのは佐藤の短歌における〈私〉の設定の自在さである。いやむしろ融通無碍と言うべきか。古典和歌の持つ普遍性・抽象性・集団性から、明治の短歌革新を経て個別性・具象性・個人性へと転轍して以来、近代短歌は〈私〉の一貫性を基軸としており、それは今でも変わらない。若手歌人においてもほとんどはそうである。例として若手の実力派・澤村斉美の歌を引いてみよう。
同じことは時間についても言える。佐藤の歌には未来を懐かしみ過去を前望するような転倒した時間がある。
佐藤はこのように時空を自在に遊弋する。佐藤が逍遙する街とは、どこにでもある街でありながら、同時にどこにもない街であり、それが「薄い街」ということなのではないかと思われる。それは詩精神がすくい取った世界であり、現実世界と似ていながら、現実世界と同一のものではない。誰もが日常目にしていながら、誰一人目に入っていない、そのような時空間かと思われる。佐藤が歌によってこのような世界を眼前に現出させるときに用いている手法は、すでに上でも述べたように意味の反転と時空の捻れといった手法である。このようにして出現する世界は、永田和宏がかつて『表現の吃水』(1981年)で美しい数学の比喩を用いて「虚数平面」と呼んだ世界とそれほど隔たっているとは思えない。佐藤の作風はリアリズムから遠く離れているにもかかわらず。
理屈はこれくらいにして、あらためて本歌集に収められた秀歌を鑑賞しよう。
歌集巻末に引用文献と音盤の書誌情報があるので、佐藤の手引きに従って引用された小説や詩を読んでみるのも一興だろう。私もそう言えばフィリップ・K・デイックの『流れよわが涙、と警官は言った』がダウランドのFlow my tearsからの引用だったことを久しぶりに思い出した。埃を被った文庫本を書架の奥から探し出してみようか。
歌集題名の『薄い街』とは不思議なタイトルだが、巻末近くで稲垣足穂の短編に由来することが明かされる。「この街は地球上に到る所にあります。ただ目下のところたいへん薄いだけです」という引用があり、次に「手ぶくろをはずすとはがき冷えていてどこかにあるはずの薄い街」という歌が、あたかも稲垣の引用にたいする反歌のごとくに置かれている。どうやらこの「反歌」が本歌集のコンセプトらしい。本歌集で引用されているのは泉鏡花、安西均、澁澤龍彦、吉田秀和、シュペルヴィエルなどで、このような構成によって一巻が言葉の交響曲のようにも感じられる。
さて、本歌集の内容だが、私は通読してこの歌集は〈声〉をめぐる主題と変奏ではないかと感じた。どこからか声がする。その声はこの世のどこからか聞こえて来るのかもしれないし、この世ならぬ場所から聞こえて来るのかもしれない。低く流れるその声に〈私〉はじっと耳をすます。そのような印象を受ける歌が多い。たとえば次の歌にははっきりと声が登場している。
満天にいま噎せかえる沈黙の、死後の朝より呼ぶ声きこえ「死後の朝」とあるから一首目の声はこの世の外から聞こえる声だろう。二首目のドードーはもう絶滅した鳥なので、誰もその鳴き声を知らない。しかしその知らないはずのドードーの声で歌うという断言が世界の反転を生む。三首目では木の声が詠われているが、これは自然の人格化であり、逆方向の人間の自然化と並んで佐藤の歌にはよく見かける対象把握である。四首目は「こよなし」「こよい」「こよなく」の音連鎖がひとつの眼目である歌だが、「アジサシならぬ声」とは不思議な声である。このことは五首目の歌にも言えて、いったい誰の声なのかわからない。ちなみに「中陰」とは仏教用語で、死んで次の生に転生するまでの期間をいい、四十九日のことである。六首目は風の声で、「おれはことばといっしょに死ぬよ」は澁澤龍彦の『高丘親王航海記』からの引用。
ドードーの声はしらねどほろぶべき歌ドードーの声もてうたう
毛穴おしひらかるる春おしなべて木々はくるしき声もつものを
こよなし とアジサシならぬ声すれば今宵こよなく美しい鳥
おひさま、とつぶやく声に中陰を泳いでおいでわたしの睡魔
風かつて声帯をもてかく云えり──おれはことばといっしょに死ぬよ。
あとすこし、すこしで星に触れそうでこわくて放つ声──これが声
これらの歌を見てもわかるように、誰の声なのかとか、どこから聞こえて来るのかなどと問うても無駄なのだ。それは世界に満ちている声なのである。作者はその声にそっと耳をすます。そのとき口から流れ出る歌には、悲しみとかすかな滅びの予感が刻印されている。
世界に満ちている声は、果てしない日常を生きる我ら凡夫の耳には聞こえない。そんなものに耳を傾けていたら仕事にならないからである。詩人の仕事は我ら凡夫に代わって秘やかな声を聴くことである。私たちが詩人にたいしていささかの無軌道や放埒を大目に見るのはこのためである。
佐藤の作風については過去二回のコラムで詳しく論じたので、ここで繰り返すことはしないが、本書を読んであらためて感じるのは佐藤の短歌における〈私〉の設定の自在さである。いやむしろ融通無碍と言うべきか。古典和歌の持つ普遍性・抽象性・集団性から、明治の短歌革新を経て個別性・具象性・個人性へと転轍して以来、近代短歌は〈私〉の一貫性を基軸としており、それは今でも変わらない。若手歌人においてもほとんどはそうである。例として若手の実力派・澤村斉美の歌を引いてみよう。
グラウンド・ゼロの廻りをわが行けば乾びし飛蝗足を追い越すこれらの歌には明確な視点に支えられた一貫した〈私〉がある。言葉のすべてはたとえ遠くに飛ばされても、最終的には一人の〈私〉へと送り返されるという構造になっている。ところが佐藤の歌の〈私〉はときに風となり、ときに虫となり、あるいは他人になって、あらゆる時空に出現するのである。
澤村斉美「視界のアメリカ」『豊作』4号
かはきゆくみづのかたちを見てゐれば敷石の上ひかりうしなふ
絵はとほく言葉に隔てられてをりノートの中の冷たきひかり
まてんろう 海をわたってわたしたち殖えてゆくのよ胞子みたいに一首目の「わたしたち」はヨーロッパから大西洋を渡って新大陸に移民した人たちで、エリス島は入国管理事務所のある島だった。歌の中の〈私〉は移民のなかの一人かと思えば、二首目では日本に生まれたとなっている。三首目では『銀河鉄道の夜』の主人公に語りかけていて、四首目では女学園の生徒らしく、五首目の「ぼくら」が誰なのかはまったくわからない。ファンタジーと言ってしまえばそれまでなのだが、短歌を徹底して一人称の文学だと考える立場からは批判があるだろう。
エリス・アイランドの霊のひとつなるわたくしでした 日本に生まれて
新世界交響曲は耳に雪触れくるようでしたか、ジョバンニ
いっせいにミシンのペダル踏む学園あたしは赤い暗号を縫う
酢のような夕映えだからここにいるぼくらは卵生だった きっとね
同じことは時間についても言える。佐藤の歌には未来を懐かしみ過去を前望するような転倒した時間がある。
階段にうすくち醤油香る朝わたしがいなくなる未来から一首目では未来から醤油の香りが匂って来るのだが、その未来には私はもういない。存在と非在とが捻れた時空間のなかで共存しているかのような奇妙な感じか残る。また二首目の「星動くことなき夜」というのは地球が自転を止める遙かな未来だが、それが「なつかしい」というのも転倒した時間意識である。同じように三首目でも未来がなつかしいと断定されている。「バナナフィッシュ」はサリンジャーの小説『バナナフィッシュにうってつけの日』に登場する架空の魚だから、ここにも反転された非在の世界がある。バナナフィッシュの名前を多くの人は吉田秋生の名作コミックで知った。四首目に登場する喪服の群れは葬儀を連想させ、「生はなつかし」は死後からこの世を眺める目線だろう。
星動くことなき夜のくることもなつかし薄き下着干しつつ
ぜったいに来ない未来のなつかしさバナナフィッシュの群れのまにまに
ほがらかに喪服の群れがくだりくる朝のメトロに 生はなつかし
佐藤はこのように時空を自在に遊弋する。佐藤が逍遙する街とは、どこにでもある街でありながら、同時にどこにもない街であり、それが「薄い街」ということなのではないかと思われる。それは詩精神がすくい取った世界であり、現実世界と似ていながら、現実世界と同一のものではない。誰もが日常目にしていながら、誰一人目に入っていない、そのような時空間かと思われる。佐藤が歌によってこのような世界を眼前に現出させるときに用いている手法は、すでに上でも述べたように意味の反転と時空の捻れといった手法である。このようにして出現する世界は、永田和宏がかつて『表現の吃水』(1981年)で美しい数学の比喩を用いて「虚数平面」と呼んだ世界とそれほど隔たっているとは思えない。佐藤の作風はリアリズムから遠く離れているにもかかわらず。
理屈はこれくらいにして、あらためて本歌集に収められた秀歌を鑑賞しよう。
老いやすき少年のごと春昼はおのずとたわむ背骨をもてり一首目の「春昼」は俳句の季語で、のんびりと時間の流れる春の午後のこと。少年が老いやすいのはもちろん時間が早く流れるからであり、時間の経過を骨の変形によって描いている。時間が主題の一首である。二首目は幻想的な風景を描いているが、「あかりが呑まれ / ゆくあたり / ほら、ほんとうの」の句割れがささやくような肉声を感じさせ魅力的だ。なべて歌においては破調やリズムの破れが息遣いを感じさせるのはおもしろいことである。三首目で誰かが歌っているのはドイツ語の歌曲だろう。下句の「しずみるいるいしずみ」の平仮名の連続が、どこで切れるのか一瞬とまどうところがこの歌の魅力となっている。海に無数のピアノが沈んでゆくというイメージも鮮烈。四首目はほとんど言葉だけでできているような歌で、このような歌の魅力を説明するのは難しい。『俳句という遊び』(岩波新書)で藤田湘子が「よそながら音なき日あり龍の玉」という三橋敏雄の句を評して、「意味もクソもないすべての言葉が龍の玉という季語に奉仕していて、それだけの句だが、それでいながら読み終わった後に龍の玉が見えてくるんだ」と言い放ったのを思い出す。佐藤の歌ではもちろん「塩」「海」「船」の縁語と、「匙のむらさき」と「腐蝕」の共鳴関係が意味のネットワークを巧妙に作っていて、そこから立ち上がるイメージが歌のすべてだろう。五首目では上句のハンカチのイメージと、下句の鳥への呼びかけとの対比が寓話的世界を作っている。佐藤の文体はほぼ100%文語から文語と口語の混合まで幅広いが、六首目はほぼ口語の歌。英語でfoolと発音するとき、唇が丸まって前に突き出される身体感覚も、歌の意味に寄与しているだろう。七首目は現代短歌のフィクサーだった中井英夫へのオマージュ。詩人の営為のすべてを語っているような言葉である。八首目は永井陽子の秀歌「あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡に花びらながれ」と遠く響き合う歌。上句の平仮名の連なりが読字時間を引き延ばして、春の駘蕩とした雰囲気を生み出し、「はなびら」「春」「日」「橋」のh音が心地よいリズムを作り出している。こういう歌を読むと、日々の塵埃で脳にできてしまったシワが伸びるような気がする。
ふなべりのあかりが呑まれゆくあたりほら、ほんとうの夜があそこに
春、と歌うみどりのわたつみにピアノはしずみるいるいしずみ
塩壺の匙のむらさき深海に腐蝕されゆく船のたよりに
ハンカチをひらけばうすくひるがえり横切る夜を墜ちないで、鳥
舌先を愚者みたいにつきだせば冬のおわりのあおぞらにがい
虚空からつかみとりては虚空へとはなつ詩人の手つき花火は
はなびらはよこにながれる春の日の橋わたりゆくわが傍らを
歌集巻末に引用文献と音盤の書誌情報があるので、佐藤の手引きに従って引用された小説や詩を読んでみるのも一興だろう。私もそう言えばフィリップ・K・デイックの『流れよわが涙、と警官は言った』がダウランドのFlow my tearsからの引用だったことを久しぶりに思い出した。埃を被った文庫本を書架の奥から探し出してみようか。