第81回 小島なお『サリンジャーは死んでしまった』

なつのからだあきのからだへと移りつつ雨やみしのちのアスファルト踏む
             小島なお『サリンジャーは死んでしまった』
 確かに「夏の体」というのはあるかもしれない。汗をかきやすく、日に焼けていて、暑さに慣れて適応してはいるが、体の芯にだるさが残る。では「秋の体」とはどういうものだろうか。日差しかやわらいで日焼けが少し薄くなる。朝晩の涼しさに少し体がしゃんとする。新しい服が着たくなる。そんなところだろうか。
 初句から二句を平仮名書きにして読字時間を引き延ばし、二句目を増音することでさらに、夏から秋へのゆっくりとした時間の経過をイコン的に表現している。韻文である短歌ならではの表現手法である。下二句も「あめ・やみしのちの」「アスファルト・ふむ」と、2・6/5・2のほぼ対称なリズム配分が結句の終結感を支えていて、着地感が溢れている。日本では明治期に始まった道路のアスファルト舗装は、モダニズムの頃ならば都市詠の素材になったであろうが、平成の今日ではすっかり都市の風景の一部となり、短歌に詠まれても違和感がない。羨ましいほどの若さを感じさせる一首である。
 小島なおは1986年生まれで、コスモス短歌会所属。2004年に17歳で角川短歌賞を受賞していちやく脚光を浴びた。2007年に受賞作を含む第一歌集『乱反射』が出版され、取り上げようか迷っているうちに、第二歌集『サリンジャーは死んでしまった』が上梓された。おまけに『乱反射』が桐谷美玲主演で映画化されたという。歌集の映画化は中城ふみ子の『乳房喪失』以来らしい。おりしも角川『短歌』8月号でベテランの栗木京子が年少の小島にインタビューしている。いろいろ出そろったところで、小島の歌集を2冊まとめて見てみたい。
 17歳での角川短歌賞受賞はとにかく話題になった。それまで日経新聞の高野公彦の選歌欄に投稿していたようだが、歌歴半年程度での受賞は異例である。あらためてその年の角川短歌賞の選評を読み直してみると、審査員の小池光など、「かつてない才能が現れた」と手放しの褒めようである。今読み返してみても、若さを感じさせる清新な歌が多い。今回『乱反射』を通読して、次のような歌に注目した。
かたつむりとつぶやくときのやさしさは腋下にかすか汗滲むごとし
雨すぎて黒く濡れたる電柱は魚族のひかり帯びて立ちおり
水菜食みさらさらとわれは昇りゆく美しすぎる寒の銀河へ
パイナップル食べ終えた後のまぶしさよまあるい皿に五月のひかり
風見鶏日照雨に濡れてまわりおり少年の耳燃えている夏
平泳ぎのようにすべてがゆっくりと流れゆくのみ秋の浮力に
猫の眼にかすかな水の気配して冷蔵庫には梨二つある
過去のなき空間のごとく光りおり八月の朝のコンビニの中
まだ知らぬ世界があってただ今のわれのからだに夏満ち満ちる
 一首目は角川短歌賞応募作に含まれていた歌である。選評座談会では「17歳で腋下なんて言葉を知ってるものかね」と話題になった。この歌も最後の歌もそうだが、「世界に生きる〈私〉」の若い体感を感じさせる。ある時期にしか作れない「時分の花」だろう。二首目の電柱から魚へ、三首めの水菜から銀河への連想は、適度の詩的飛躍があり、また無理がない。なべて小島の短歌には、意味解釈に首をひねるような喩や飛躍がなく、言葉に無理な負荷をかけて、摩擦によって発光させようというような前衛的態度が見られない。よくも悪くも保守的なのである。このため言葉の使い方に素直すぎるところもあり、それが物足りなさを感じさせることもある。
 ここで四首目のパイナップルの歌を見てみよう。食卓に置かれた皿に盛られたパイナップルを家族みんなで食べ終えたあと、卓には空の白い皿だけが残る。白い丸皿には五月の光が輝いているという歌である。これを小池光の次の歌と比較してみよう。
夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿を残して 『廃駅』
 小池の歌の舞台は夏至だから、本来ならば明るい光が溢れているはずだが、この歌は逆に陰翳に満ちている。皿に残った魚の血は、生きるということへの慚愧の象徴である。翻って小島の歌をあらためて見ると、小島の歌にはそのようなマイナス感情がまったくない。世の中に対して斜に構えたところもない。この「マイナス感情の不在」が小島の歌を明るくのびやかなものにしている。夏を詠った歌が多いのも、このことと密接に関係していよう。
 『乱反射』を通読すると、「永遠の夏」という言葉が脳裏に浮かぶ。どこか時間が停滞したような高校生活のさまざまな場面が詠まれていて、いつまでもこの時間が続くのではと錯覚させる。そんなところがある。
 しかし17歳で角川短歌賞を受賞するというのは苛酷な経験である。「若年の栄光は災厄である」という言葉もあるくらいだ。受賞からしばらくして『和楽』という雑誌の「母と娘で旅する」のような特集で、母の小島ゆかりといっしょに出ていたことがあった。ところが掲載された写真はすべて遠景で、おまけに娘のなおは全部後ろ向きに写っていた。明らかに「私はこんなものに出たくないのよ」とブーたれていたのである。カメラマンは困ったにちがいない。私はそれを見て、正直「こりゃ大丈夫かな」と思った。男の子ならここで確実にグレているところだ。しかしなおはその後、青山大学を無事卒業して就職し、IT関係の会社員になっても短歌を止めなかったようだ。その成果が第二歌集『サリンジャーは死んでしまった』となって世に出たことは喜ばしい。
 集中では次のような歌に注目した。
祈るごと膝をつきたる象の眼は石の優しき重さをもてり
鳩がふと飛び立ってゆくこの瞬間ときをこの幸福をいつか忘れる
足首まで水に浸かればゆっくりと老いゆくわれらの影は美し
噴水の広場に影は満ちあふれひとの群、犬の群まじわらず
各々の臓器抱えてすれちがう曇天重く垂れいる街を
いままでの罪の数など数えつつプラム食べれば濡れている舌
楽器など何ひとつ弾けぬてのひらに集まりやすしゆうべの風は
 いささか意表を突く歌集題名は、巻頭の「春風のなかの鳩らが呟けりサリンジャーは死んでしまった」から取られている。サリンジャーは永遠の青春小説『ライ麦畑でつかまえて』の作者であり、その死去は青春の終了と同義と捉えられているからある。
 第一歌集に較べて明らかに上手くなっている。同時に第一歌集にはなかった陰翳や光と影の対比が生まれている。また第一歌集では停滞していた時間が流れ出している。これには大学を卒業して社会人になったこと、祖父が認知症になり介護が必要になって、死を身近に意識するようになったことが関係していよう。次のような歌がある。
いもうととどちらが先に死ぬだろう小さな哲学満ちる三月
老いてゆくいのちのありてひるがえる祖父のずぼんが夏空へ跳ぶ
死に向かう時間を強く意識せよ祖父はいつかの獅子座流星群
 先に引用した歌に戻ると、人間が影と表現されている点に視線の深まりが感じられる。実体ではなく影と把握するのは、そこに時間が組み込まれているからである。影はいずれは消え去るものだ。また五首目にように、人間を臓器の器と表現するところにも、物事をさまざまな角度から把握する多面的視点が見られる。
 『短歌』8月号の栗木京子のインタビューでおもしろかったのは、母の小島ゆかりから「中途半端な気持ちで私の世界に入ってきてほしくない」と言われたというエピソードだ。なおは「母から言われた言葉のなかではいちばん心に響いて、ショックでした」と述懐している。親子と言えども技芸アートの道は厳しいのである。その言葉を正しく受け止めたのならば、今後もその道を歩いてゆくことができるだろう。