第82回 柳澤美晴『一匙の海』

影重く垂らしてきみに逢いにゆく花に牙ある夕暮れ時を
                       柳澤美晴『一匙の海』
 柳澤の名を初めて目にしたのは、雪舟えまと同じく、『短歌研究』創刊800号記念臨時増刊の特集「うたう」(2000)だった。当時は苗字の「柳」が異体字だったが、歌集刊行を機に「柳」に変えたという。「GIRLIE」と題された連作にこんな歌が載っていた。
青年がうねらせる腰に尾は伸びて海を映した銀鱗閃く
割れそうな硝子の目をした少女在り腿に吸い付く蜥蜴磨けば
 爬虫類へのファンタスムを窺わせる語彙には秘めた暴力性が感じられるが、その一方で、後年の「硝子のモビール」に連なる透明感への希求もすでに潜在する。しかし、想像力だけで紡ぎ出した荒削りな歌という印象を否めない。当時大学4年生で作歌を始めたばかりだから無理もない。
 柳澤は「うたう」の翌年に未来短歌会に入会する。始めは岡井隆の指導を受けていたようだが、やがて加藤治郎門下に入る。2006年に「モノローグ」で未来賞を受賞、同年「WATERFALL」で49回短歌研究新人賞次席入選。その年の受賞は「カシスドロップ」の野口あや子。2008年「硝子のモビール」で歌壇賞受賞と順調に駒を進めている。その柳澤が第一歌集『一匙の海』(本阿弥書店 2011年8月)を上梓した。満を持しての感がある。跋文は彗星集主宰の加藤治郎。表紙にジョゼフ・コーネル風の箱のオブジェを配した小体な造本である。収録歌は2006年からの編年体で、それ以前の短歌は若書きとして切り捨てたものと思われる。短歌研究新人賞次席の「WATERFALL」も16首しか収録されておらず、相当な選歌の跡が見られる。選歌もまた歌人の芸である。
 加藤率いる彗星集は多士済々の若手集団だが、ニューウェーブ短歌の後衛として位置づけられ、ゆるやかな定型意識と口語という共通性がある。加藤は『短歌ヴァーサス』終巻号に寄稿した「ポスト・ニューウェーブ世代、十五人」という文章のなかで、ニューウェーブが短歌史上エポックとなった理由を三つ挙げている。1)革新という近代原理から自由になった 2)口語の定着 3)大衆社会状況の受容 である。加藤によればこのうち1)は前衛短歌によって達成されたが、2)と3)は課題として積み残された。そしてニューウェーブが2)と3)をクリアしたとき、近代短歌の革新性は終焉したという。
 しかし、ニューウェーブのレトリック主義の余波を受けて、「いかに言葉を流通させるかという方向に作家意識が変化した」(山下雅人)ことも事実であり、これは上記3)と密接に関係している。この方向を極端に押し進めたのは、ニューウェーブ後に登場した枡野浩一だろう。枡野は1968年生まれで、柳澤はちょうど10年後の1978年生まれである。柳澤らの世代はポスト・ポスト・ニューウェーブ世代に当たる。「やり尽くされた後で短歌という詩型の可能性をその外部に求めざるを得なかった」(加藤, op.cit.)ポスト・ニューウェーブ世代の後に続く柳澤らの世代は、短歌という詩型の可能性をどこに求めればよいのだろうか。彼ら・彼女らの最大の課題はそこにあったし、今もそこにある。
 ひとつの方向は『ひとさらい』の笹井宏之のように、言葉の詩的純化の方向へと舵を切ることだろう。
歯神経ふるわせながら淡雪でできた兎をゆっくりと噛む
まばたきの終え方を忘れてしまった 鳥に静かに満ちてゆく潮
 定型の持つ韻律という軸にではなく、言葉の純化・透明化によって無重力的ポエジーを発生させる笹井の方向性は、短歌を限りなく自由詩の岸辺へと打ち寄せてゆく。 
 では柳澤の方向性はどうかというと、誤解を恐れずに言えば、ある意味で近代短歌への回帰という側面が見えるのではないかと感じたのである。たとえば次の歌はどうだろう。
古書店に軒を借りれば始祖鳥の羽音のような雨のしずけさ
前髪の触れあわぬ距離にきみはいて無菌操作のあやうさを言う
火にかけたゼライス透けてくるまでの会えぬ時間を守りていたり
さびしさの骨格のごとく積み上げるセブンスターの細い吸殻
尖端の欠けてしまったピペットの春のひかりを束ねて捨てる
 一首目は雨宿りの情景だが、軒を借りるのがコンビニやファストフード店ではなく古書店であり、雨音が始祖鳥に喩えられているところに、ニューウェーブの好んだ都会的アイテムからすでに遠くにいることが推察される。二首目は相聞で、「前髪の触れあわぬ距離」に見られるおずおずとした清新さは、現代のあっけらかんとした性愛表現から遠く、ひと昔、いや、ふた昔前の男女の仲のようだ。三首目ではゼライスが透けるまでの時間で時間の短さを表現し、恋人に会いたいというはやる気持ちを抑える自制を示している。また、四首目では灰皿に積もる煙草の吸い殻が、五首目ではピペットの束が、それぞれ歌の核をなす中心的アイテムとして働いており、それらを中核として短歌が紡ぎ出されてゆく様は、近代短歌そのものと言ってよい。
 また歌中の〈私〉の位相と視点の統一性という点においてもそのことは言える。加藤治郎が試みている、意識の重層的審級に言葉を与えるような実験的語法は、柳澤の短歌には見られない。
 柳澤は同じく北海道に住む北辻千展や山田航らとともに「アーク・レポート」という同人誌を出している。第3号では「ゼロ年代を問い直す」という意欲的な特集を組んでいるが、そこに見られるのは短歌の過去に学ぼうという姿勢である。
 このことは歌集に収録された次のような歌からも窺うことができる。
塚本邦雄の訃報を告げる青年よシャツの格子のなかの棒立ち
数知れぬ針を詩史へと突き刺した評論家死す 北の果てにて
近代の目には涼しい青き火よ 茂吉─赤彦往復書簡
城戸朱理のブログの中で遠方に住む恋人と目が合う、まれに
紫外線ランプ点りぬ 永田和宏の半生を照らし続けしランプ
 一首目と二首目は塚本邦雄と菱川善夫へのオマージュ。四首目の城戸は評論集『戦後詩を滅ぼすために』で注目を浴びた詩人。五首目は理系の研究者である恋人のラボでの姿を詠んだものだが、細胞生物学者でもある永田が登場している。ニューウェーブ短歌やポスト・ニューウェーブ短歌には固有名が少ない。固有名はすでにある意味をまとっており、またそれだけで歴史への投錨点として機能する。ニューウェーブ短歌の「革新という近代原理からの解放」路線は、必然的に固有名の減少を招いた。短歌に固有名を入れるということは、肯定にせよ否定にせよ、歴史にたいしてあるスタンスを取ることを意味する。柳澤は近代に学び直そうとしているように感じられるのである。
 歌集の第III部には職場詠が多く見られるようになる。
常連の生徒数名 帰巣するように保健室に来るなり
青あざに湿布を当ててすり傷の消毒をして悩みを問えり
口つぐむ少女と向かいあう時を保健室への水圧強し
 どうやら作者は保健室の先生をしているらしい。「来るなり」の語法はいただけないが、保健室の先生にはふつうの教員とはちがった生徒との関係と役割があるのだろう。
 また父母も歌に登場する。
十字貼りされている箱に青年の父がもとめた思惟の葉がある
父に父のわたしにわたしの孤独棲むレモンの果肉をつつむ薄皮
夏の水やわらかし冬の水硬し白とうきびが母より届く
 作者は新しい職を得て、改めて家族を思い、北海道という風土に根ざして生きてゆこうとしているように見える。そのときに取られるスタンスは意外に古典的なのである。
 いかにも作者らしいと思えるのは、次のように短歌定型に賭ける決意を述べた述志の歌である。
定型は無人島かな 生き残りたくばみずから森を拓けと
光つつわれにつらなる詩語あれどうっすらひとの指紋をのこす
虚数いくつ連ねて書き継がれる史実 扉に釘の跡深くあり
一滴のまだしたたらぬ詩のために傷口はきよく保たれてあれ
 一首目は加藤も跋文で引用しているが、「定型は無人島かな」と言い放つ志はよしとすべきだろう。二首目は、まだ誰の手にも汚されていない詩語を求める決意表明。どことなく「真砂なす数なき星の其の中に吾に向ひて光る星あり」という子規の歌を連想させる。三首目は短歌の歌ではないが、歴史の虚偽を見つめる目が確かである。
 いろいろ書いてきたが、本歌集の収録歌のなかで特に美しいと思えたものを挙げてみよう。
SUBWAYのサンドイッチの幾重もの霧にまかれてロンドンは炎ゆ
日々とは循環小数にしてうみにふるあわゆきのごとくきみとであわず
運命さだめにも模写はあるかなひる過ぎのカフェテリアにて待たされている
サイダーの泡のあおさのひとときを分かちあう冷えたからだかさねて
手首つかまれくちづけられている夜を蓮のようにひらくてのひら
札幌にふかく食い込む川ありて溶け出す刃物のようなかがやき
 一首目はロンドンの地下鉄テロを詠んだ歌らしい。相当手のこんだ修辞を用いている。SUBWAYはもちろん地下鉄のことで(地元の人は俗にtubeと呼ぶ)、それと同時にサンドイッチのチェーン店の名称でもあるので掛詞である。そして「SUBWAYのサンドイッチの」までが「幾重もの」を導く序詞になっている。「修辞ルネサンス」を標榜したニューウェーブ短歌の面目躍如というところか。二首目の循環少数とは、ある特定の数字列が無限に繰り返される少数のこと。循環小数の限りない反復と海に降る淡雪のイメージが重なって美しい。三首目、「運命」を「さだめ」と読ませるのは古風だが、「模写はあるかな」はたぶん既視感のことを言っているのだろう。いつものように恋人に待たされている情景。四首目、「サイダー」と「泡」と「冷えた」が縁語になっていて、一首の空気感を作っている。五首目、音数から言って「蓮」は「はちす」と読みたい。すると「蓮のようにひらくてのひら」は仏像を連想させ、弥勒菩薩のイメージが重なって美しい。六首目は故郷の風土を詠んだ歌だが、「溶け出す刃物」という喩に危ういムードが漂う。
 こうして見ると柳澤は、師である加藤治郎からニューウェーブ短歌の思想と手法を学び取り、自家薬籠中のものにして、そこから自分の歌を詠むべく近代短歌に学び直しているのではないかと思われる。そう考えると第一歌集『一匙の海』は何かの達成というよりも、何かへの出発と捉えた方がよいのかもしれない。