第97回 本田一弘『眉月集』

真青なる空とびてゆくしろたへのはくてうの羽の暗き内がは
                   本田一弘『眉月集』
 空を飛ぶ鳥は幾度となく歌に詠まれている。人口に膾炙した牧水の歌は青春の悲哀と矜恃の歌であった。しかし掲出歌が目を注ぐのは空を行く白鳥の雄姿ではなく、その暗い内部である。短歌を乱暴に分類すると、「見えるものを詠む歌」と「見えないものを詠む歌」に二分できる。前者の代表は言うまでもなく写生を旨とする写実派だ。現代にあっても短歌の主流を占めている。しかし見えないものを詠むことに注力する作風の歌人もまた少なくない。その代表は塚本邦雄や、「幻視の女王」と呼ばれた葛原妙子だろう。しかしこの方法を意図的に進めた前衛歌人に限らず、叙景を本領とする歌でも、実は見えていないものを詠むことのほうが主眼だったのではないかと思うことがある。掲出歌は空を飛ぶ白鳥の描写に始まり、結句に至って読者を目には見えない内部へと誘う。白鳥は死者の魂をあの世へ運ぶという。他に「うたびとは歌うたふべし言の葉の間にひそむ闇を抱きつつ」という歌のあるこの作者も、いやおうなく不可視の領野に心が向かうようだ。
 本田一弘は1969年生まれで、佐佐木幸綱の竹柏会所属。2000年「ダイビングトライ」で短歌現代新人賞を、第一歌集『銀の鶴』で日本歌人クラブ新人賞を受賞している。『眉月集』は第二歌集にあたり、寺山修司短歌賞の栄誉に輝いた。「衣打つ音きこえくる推定の助動詞『なり』を子らに説くとき」などという歌があるので、高校の国語の先生をしているようだ。作風の基本は文語定型で、あとがきまでも擬古文で書かれている。帯文で師の佐佐木幸綱が、「新しさを追い求めて、前のめりの歌人が蔓延する現代歌壇に、古さを恐れない新しさをひっさげて、『抒情の更新』に果敢に挑戦する一冊である」と紹介している。
 本田は福島県は会津若松の在であり、本書を読む上で作者が会津人であり東北人であることを避けて通ることはできない。奇しくも福島第一原発事故で、東北地方の辿って来た歴史と置かれた来た状況に国民の耳目が集まったが、アテルイの昔から戊辰戦争に至るまで、陸奥は中央に弓引く地であり、中央から冷遇されてきた土地でもある。東北地方がどのように歌枕となり和歌の想像力を刺激してきたかは、『岩波現代短歌辞典』の「陸奥」の項目で小池光がていねいに解説している。本田の基本は郷土愛にあり、本歌集には会津地方の風土と人への愛着を感じさせる歌が多く見られる。
磐梯の雪解水の身に滲みて田は一斉に笑ひ初めたり
雪ふれる猪苗代湖の底ふかくひそみてゐむか魚族いろくづたちは
ああこれを茂吉好みき納豆にからまるもちひ食へばうましも
みちのくの訛を濃ゆく享けつぎて死ぬまで吾は訛りいゆかむ
 郷土愛は反転すれば中央への反発と憎悪に転じる。次の歌は戊辰戦争・会津戦争の死者に思いを馳せ、死者の魂に寄り添う歌である。最後の「滅べ東京」という呪詛に作者の強い思いが感じられる。
敬しんでまうしあげます この街が少年の血でぬれてゐること
西軍の戦死者慰霊するために東京招魂社は創られたりき
招かれしたましひ三千五百八十八 招かれざるたましひ数しれず
首都移転など議論されわが街が候補地だった──滅べ東京
 近代化とともに短歌の舞台が都市に移った現代にあって、地方性と風土に根ざした作風は今や貴重と言えるかもしれない。佐佐木幸綱の帯文に言う「古さを恐れない」という形容はこの点を指したものだろう。しかし一読して私が注目したのは、むしろ作者の眼差しの向けられる先である。本田の眼は自然よりも多く人に向かい、そして生者よりも死者に多く向かう。
春雷の幽けく鳴りぬ薄暮にプリーモ・レーヴィの自死を思ふも
少年の守谷茂吉をかなしみし金瓶村にわれ佇ちにけり
一鳩兵石田哲大の翔ばしたる白鳩の裔いまいづく航く
雨さむき開運橋をわたりくる飲んだくれたる啄木に遭ふ
心平が坐りし場所はどこだらうと思ひつつ囲炉裏端にすわりぬ
円谷の遺書にありしは三日とろろ、干柿、ぶだう、食物くひものばかり
 一首目のプリーモ・レーヴィ (Primo Levi) はイタリアの作家。ユダヤ系でアウシュヴィッツ収容所から生還した体験を綴った著書で名高い。墓碑には囚人番号が刻まれているという。遠くに聞こえる春雷に危機の予感を感じ、それがレーヴィを想起させたか。二首目の守谷茂吉は言うまでもなく後の斎藤茂吉。石田哲大てつおは石田波郷の本名である。戦時中石田が軍用の伝書鳩担当兵だとは知らなかった。五首目に登場する草野心平は福島県いわき市出身であり、本田とは同郷である。六首目の円谷幸吉は1968年に自殺したマラソン選手で、その遺書は名文としてしばしば取り上げられる。円谷もまた福島県の生まれである。愛媛県出身の石田波郷を除けば、全員が福島県か東北地方出身者であることがわかる。本田は自身が茂吉や啄木や心平の血を受け継ぐ者だと強く意識しているのである。なお寺山修司短歌賞を受賞したにもかかわらず、本歌集に寺山の名が登場しないのは、作者の嗜好によるものと思われる。
 このように東北出身の文学者を歌に織り込むのは単なる先輩へのオマージュではない。本田はその名を呼び事績を想起することで、死者と交流し時間を遡行しているのである。本田が最も好むのは、想像上でこの世とあの世の境を越えて死者と交感することなのだ。その根底には生は死と別ものではなく、死もまた生と別物ではないという思いが横たわっている。その証拠に次のような歌がある。
シノニムとしてのアントニム 生としての死 死としての生
 シノニム (synonym)は同義語、アントニム (antonym) は反義語の意。生と死は反義語であると同時に同義語だというのである。本歌集には会津の自然を詠んだ叙景歌や相聞歌も収録されているが、それらはすべてこのような死生観に基づいていることに留意すべきだろう。
 それにしてもこの歌集にはおびただしく死者が登場する。その様は次のようである。
蝉声がきこえてきたり犬死にと呼ばれて死にし人のこゑたり
うつしよと彼の世の岸を繋ぐもの死者も見てゐむふる雨のいろ
極月の死びとがひとり増えてゆくあをきペンキを塗りにけるかも
ゼロ年代の最後の空ゆふりてくる六花よすべて死者のふみなれ
大根の煮えてゆく音ふつふつと人死にてゆくふゆのゆふぐれ
 このように会津の風土に根差しつつ、生と死の境界を越えて眼に見えないもの・失われたものに思いを馳せるとき、本田の歌は最も輝くようである。そんな立ち位置から歌を作る本田にとって、「現代短歌における新しさ」など笑止の沙汰であり、「短歌のフラット化」などどこの国の話だということになろう。特に印象に残った次のような歌を読めば、作者が新しさなど微塵も求めていないことは明白であり、むしろ古代から続く言の葉の木のささやかな一葉たらんと願っていることがわかるのである。
近代のか黒きそびららんまんとさくらのはなをりつつ立てり
どこからかたれかの飢うるたましひがひびきくるなり ぎたる弾くひと
もろもろの霊蔵はれてにんげんの発明したる電気もて冷ゆ
おほははのなづきにしろき花ふれりことのはなべて喪はしめて
うつせみの時間流れてものいはぬたましひとあふくまの川なれ
氏の名前あなぐらむして遊び居りたましひやけろたましひやけろ