第96回 桜木由香『連祷』

咲きみちて一枝の花も散らざれば手触れむほどに過ぎてゆく時
                     桜木由香『連祷』 
 今年の冬は異常な低温傾向が続いていたが、ようやく暖かくなり近所の白木蓮の花が咲き始めた。桜の開花も近い。花の開花は季節の移り変わりを最も身近に感じさせてくれるものだろう。
 掲出歌も花を詠んだ歌で、名指しはされておらずとも桜の花だと知れる。満開を迎え散る直前の瞬間を捉えたものである。コップに水を注いで行くと、満杯になって溢れ出す瞬間に水は最大容積となる。コップに満ちるのは水だが、では桜に満ちるのは何か、それは時間だと作者は考えている。手で触れることができるほどに実体化され満ちた時間。それがこの歌の眼目にちがいない。あとがきで作者は、「私は光陰と同じ存在である」と書いており、この歌に限らず、集中に収められた歌に通底する主題は時間だと見てもよい。
 2011年に出版された『連祷』は、桜木由香の第一歌集。桜木は「未来」所属で、作歌歴は10年余りだという。2009年に未来年間賞を受賞。本歌集には「未来」で選歌欄を担当する桜井登世子が跋文を寄せている。跋文とあとがきから知れるのはこのくらいなのだが、実は作者は『無限』という歌集を残した故・市原克敏氏の御夫人である。
 『無限』は私が今まで読んだ中で、最も戦慄を覚えた歌集だろう。キリスト者である市原の作風は形而上的かつ宇宙的で、神を求めつつ懐疑に煩悶する歌からは血が滴るかのようだ。
十字架の雨を切る音ひりひりと下ゆく人ら夢裂かれつつ
師よ弟子に神への祈りを祈らせよ祈りを祈る意味の無意味を
なんぜんの神過ぎゆくも愚かなる神を問う神いまだ渉らず
 なかでも慄然とするのは連作「われはショアーなり」に並ぶ歌だ。「殲滅せよ」と叫ぶ神とは何者かと問う作者の声が痛切に響く。無意味な数字の羅列が空恐ろしい。これほど恐ろしい数字の歌は絶無である。
9841237ヘテ人を焼きわれは数うるかくのごとくに
9152348アモリ人を撃ちわれは数うるかくのごとくに
9263451カナン人を追いわれは数うるかくのごとくに
 形而上的な夫の作風とは大きく異なり、桜木由香の短歌は理知的な感性を働かせて、自然の風景の中に硬質の情感を滲ませるものが多い。
子どもらの去りたる広場ゆうぐれは水位のごとく蝉のこえ湧く
誰もいない部屋にひかりは差してきて唇のようにあく白きドア
さかのぼり遡りゆく魚らの影の記憶をそよぐ篠懸
見いだしし折紙の青きひとひらに驟雨のごとく思慕は奔れり
地上ふと海底と入れかわるとき白き腹みせ飛行船ゆく
 一首目、昼間は子供が遊ぶ都会の小公園も、日の落ちる頃になると人気がなくなる。夕影がきざす様を「水位のごとく」と表現した点がポイント。二首目はちょっと不思議な歌だ。「誰もいない部屋」とあるので、無人だとするといったい誰がこの光景を目撃しているのだろう。ひとりでに開くドアも不思議だが、ここでも「唇のように」という比喩が効果的だ。三首目、「さかのぼり遡りゆく」の繰り返しが長い時の経過を感じさせる。篠懸はプラタナスで、街中でよく見られる街路樹だ。そこに魚は唐突だが、何万年にも亘る進化の時間に思いを馳せているのだろう。四首目では珍しく感情が露わに表現されている。折紙がアイテムなので少女時代の記憶か。「青き」「驟雨」「奔れり」のゆるやかな縁語関係が歌の結構を支えている。五首目は見立ての歌で、表現の順番とは異なり、空を行く飛行船を見て、あれがもし本当の船だったら、自分のいる地面は海底のはずだというのが本当の発想の順番だろう。それを逆転して表現するところに技巧があり、技巧のあるところにのみポエジーが生まれる。
 夫君の市原と同じく作者もキリスト者らしく、信仰や聖書に材を採った歌も少なくないが、市原のような形而上的煩悶は不在だ。
白き葉は純白の皿の舌平目 否神の朝の鶏鳴遠く
与えかつ奪いゆくものこのゆうべ高架電車にヨブゆれてゆく
会堂へ漂着したるうつし身へ溶けなんとして白きオスチア
アベル殺す赤き無惨を記憶してひと茫々たり 創世記閉ず
開けエッファタと触るる手待てば半月はひかり増しきぬ紺青の空に
一首目はキリストが「鶏が鳴く前にあなたは三度私を知らないと言うだろう」と弟子に告げた挿話による。三首目の「オスチア」はミサで信徒に与える聖体。「エッファタ」は耳の聞こえない人が聞こえるようになったというキリストの奇跡の言葉で、ギリシア語らしい。キリストはヘブライ語を話していたと思われがちだが、実際はギリシア語やアラム語で語りかけていたようだ。
 本歌集で最も作者の個性が際立つのは次のような歌ではないかと思われる。
絶望をそらへ放てばぬばたまのつばさ搏ちゆくこだま聞こゆる
割礼をわがくちびるに享けしごと夕べ歌わな薔薇のことばを
水無月の草木は道に匂いたちいつしか思惟のたわみゆくなり
かぎりなく傘の円周にとざされて降りしぶく雨に出で来てあゆむ
ましぐらに鳥影は発ち見ゆるもの見えざるものへ深みゆくそら
 硬質の思惟の言葉と感性の言葉とが、互いの位相の違いに軋みつつも一首の中で緊密に繋がりあって発光し、ひとつの精神世界を構築している。特に五首目は陰翳と余韻に富み本歌集の白眉かとも思う。文語定型でややテンション高く、日常語彙から離れたこういった語法は、緩んだ定型と口語短歌・ライトヴァースに親しんだ若い歌人には抵抗があるかもしれない。しかしこの文体と言語の位相は、古くは「アララギ」に発して「未来」系統を引く近代短歌の文体のひとつの到達点ではないだろうか。
 歌集巻末に他の歌から離れて特別に配されている一首がある。
星ぞらに慟哭は充ち抛られし一ヶの骨のかく晒されて
 この歌は市原の歌集『無限』に収録された「抛られたる一ヶはわれの骨となり一ヶはとおく砂上をあそぶ」への返歌なのだ。市原は自分を骨に喩えるのを好んだので、「一ヶの骨」は泉下の人となった市原自身だろう。巻末まで辿り着いて本歌集が市原への鎮魂の書であることを読者は知る。それと同時に、歌に対して歌い返すという歌の本質が鮮やかに示されていることに改めて感じ入るのである。