第98回 『本郷短歌』創刊号

ひとはなお天花を待てり果てのある塔を昇降機に運ばれて
                     屋良健一郎
 2006年に発足した東京大学の本郷短歌会が機関誌「本郷短歌」を創刊した。まずはおめでとうを申し上げたい。白い表紙に黒活字のみというシンプルな造本だが、編集後記によると、会員が組版ソフトのLaTeXを使って自前で組版をしているようだ。編集作業をした経験のある人なら誰でも知っていることだが、本・雑誌作りでいちばん費用がかかるのは、紙代でも印刷代でも製本代でもなく組版代だ。自前で組版を行えば、おおいに経費の節約になる。自前といっても印刷屋に頼んだものに引けを取らない立派な出来映えだ。
 顧問格の大野道夫が「本郷短歌会の歴史」という文章で、本郷短歌会発足までの経緯を披露している。それによれば、東大本郷に非常勤講師として出講していた大野が、東大に短歌会がないことを残念に思い、東大俳句会の二次会で設立を呼びかけて始まったとある。俳句会で短歌会の設立を呼びかけるというのもおもしろい話だが、どちらも短詩型文学ということで、意外に抵抗は少なかったようだ。このような経緯なので、初期の歌会はほとんど俳人ばかりだったらしい。東大から飯田哲弘、藤田哲史、山口優夢、早稲田から谷雄介、お茶の水から神野紗季らが参集したとある。賑やかそうな顔ぶれでうらやましい。歌会の悩みは会場の確保だが、初期は本郷のルノアールで開いていたらしい。その後、1・2年生が学ぶ駒場キャンパスからも会員を迎えたため、現在は主に駒場で開いているようだ。だから会名は「本郷短歌会」(略称「ほんたん」)だが、実質的には本郷と駒場の両方にまたがる東大短歌会ということになる。
 大野が「学生短歌という存在」という文章で、戦後の学生短歌には今までに二つのピークがあったと書いている。第一のピークは佐佐木幸綱、岸上大作、三枝昂之らを輩出した1960年代で、第二のピークは吉川宏志、梅内美華子らの1990年代だという。そして現在は第三のピークを迎えているという。確かに2006年の本郷短歌会を皮切りに、2009年には卒業生の石川美南の肝いりで東京外国語大学の「外大短歌会」が、2010年には大阪大学の「阪大短歌会」が発足している。また老舗の早稲田短歌会には数年前に新規会員がどっと入会し、大人数の会員を擁するまでになっていると聞く。学生短歌会所属の大学生による短歌賞の受賞も相次いでいる。記憶に新しいところでは、2010年に吉田竜宇(京大短歌会)が短歌研究新人賞を、同じく2010年に大森静佳(京大短歌会)が角川短歌賞を、2011年には平岡直子(早稲田短歌会)が歌壇賞を受賞している。
 学生短歌会の隆盛には何か理由があるのだろうか。同じ文章の中で大野は社会学者らしくその理由を分析し、インターネットの利用による短歌の発表と交流の利便化や、俳句甲子園出身者による若手俳人の輩出などを挙げているが、これは短歌を取り巻く外的状況であって現象を説明できるものではないだろう。正確な理由はわからないが、ひとつ確かなこととしては、小池光が言う「自分たちの若い頃は、短歌を作っているというのは恥ずかしいことだった」(『現代短歌の全景』の座談会)という意識は今の若い短歌の作り手にはまったく感じられないということである。その背景には1987年の俵万智『サラダ記念日』の爆発的なヒットによって、短歌にまとわりつく古くさい文芸というイメージが払拭されたことがあるだろう。
 さて「本郷短歌」創刊号の中身だが、会員による出詠をざっと見ると、口語短歌全盛の現代にあって、意外にも文語定型短歌が主流である。目についた歌を挙げてみよう。
見下ろせば海ばかりなり虚空にて地磁気を受くる器官はありや 
                        近藤健一
思ひつつ冷えたる卓を拭きゆけばある違和として塩こぼれゐつ

時計台に登りてみたし朝な夕な宇宙をかずく旋毛つむじ見つけに
                        羽鳥潤
巡り逢わんたった二人を揺らすため静かな意志は地球をまわせり 

現し身が空蝉となるまでの間をいのちと呼びていとほしむのみ
                       安田百合絵
雨降らば透くるたましひ いきものは色それぞれに淡くかがよふ

指をふれあえば光のあふれ出す奇跡のようにかわす手花火
                     川野芽生
にわか雨告ぐるラジオは鳥めきて花季(はなどき)いなむ夜の木々に降る

水切りの石見えずして水紋の広ごりの見ゆ 君に離れて 
                     屋良健一郎
洗い物する背の磁力 抱くことは世界に少し前のめること

盲(めしひ)なる魚へフラッシュを焚く人の白き悪意をなれももちゐむ 
                       七戸雅人
海原のほつれしごときくれなゐを夾竹桃と祖父は教へき

オセロ弱き君に染まりて夏往きぬ 時計跡から広がりし違和  
                       千葉崇弘
透明な廊下に佇む紙毬に音は凍りて濁点の我
 会員の中でいちばん名が知れているのは屋良で、さすがに手堅い作りだ。相聞が少ない出詠の中で珍しく相聞歌を出しており、静かな抒情を漂わせている。まだ自分のスタイルを掴んでいない人が多いのは若いから当然のことだが、なかでは安田の柔らかく無理のない語法が光る。上に挙げたもの以外にも別の連作には、「熟れみちて円かなるきいひそやかに病めるは昼の月のみなるや」「をさな子に鶴の折り方示しをり あはれ飛べざるものばかり生む」などよい歌がある。期待したい。
 残念なのは多忙のためか、2010年に角川短歌賞次席に選ばれた小原奈実が出詠していないことだ。角川短歌賞次席作品には次のような歌があり注目された。
カーテンに鳥の影はやし速かりしのちつくづくと白きカーテン
てのひらのくぼみに沿いしガラス器を落とせるわが手かたちうしなう
切り終えて包丁の刃の水平を見る目の薄き水なみだちぬ
 創刊号巻末の夏合宿歌合記録に小原の近詠がいくつか紹介されているので、挙げておこう。次号では近作を読んでみたいものだ。
ストローに口紅つきしまま捨てつ 悔いありて悔いに沿ひゆく思考 
                          題詠「色」
三四郎の訛りのごとき凹凸に影こくうすく暮れゆく煉瓦  題詠「東大」
あさがほのしをれしは色濃くなりてけふの沈黙をおもひかへせり
                         題詠「あさがお」
 この他にも創刊号には会員による「作歌の原点、現在地」というざっくばらんな座談会が収録されている。読んでみると、最初に短歌に出会ったのは学校の国語の授業だったという人が多い。やはり国語教育は大切なのだ。それから短歌や文学に向かう動機として、周囲に対する違和を挙げている人も多くいて、改めて文学は青春のものだとの感を深くする。
 発表の場を得て漕ぎだした「本郷短歌」である。雑誌を創刊するのにはたいへんなエネルギーが必要だが、続けるのにも同じくらいエネルギーがいる。エールを送りたい。