103:2005年5月 第2週 音叉の歌
または、歌人は世界との共鳴を求めて

限りなく音よ狂えと朝凪の
     光に音叉投げる七月

            穂村 弘
 ひとりの歌人を取り上げて批評しようとすると、何冊も歌集を読まなくてはならず、書く文章にも勢い力が入りすぎて肩が凝り、息が詰まるような気分になることがある。そんなときは「お題」シリーズに逃げ込むことにしている。短歌を読む楽しみのひとつに、いろいろな事物がどのように歌に詠み込まれているかということがある。ここでも私のお手本は小池光『現代歌まくら』(五柳書院)なのだが、小池がリストアップした歌枕のなかには、地名や花・鳥の名前と並んで人工物もいくつかある。「鍵」「外套」「自転車」のように、いかにも短歌的連想を誘うものもあれば、「洗面器」という意外なものもある。しかし、今回取り上げる「音叉」は小池のリストにはなく、歌語を多数収録している『岩波現代短歌辞典』にも立項されていない。それほど多く短歌に詠まれたことがないということなのだろう。こういう場合、「音叉」を詠んだ歌を探そうとすると、歌集やアンソロジーをしらみつぶしにひっくり返すしかない。それでもなかなか見つからない。こんなとき、高柳蕗子の短歌・俳句データベース「闇鍋」が使えれば一発検索できるのだが、とつい考えてしまう。

 西洋での音叉の歴史は意外に古く、イングランド王ジョージ1世の軍楽隊でトランペットを吹いていたジョーン・ショアという人が1711年に発明したものだという。英語では pitch fork と呼ぶ。音叉は明治時代になって西洋音楽が日本に輸入されたときに、同時に渡来したものである。だから明治以降の近代短歌にしか登場しない。また音叉ほど日常生活とかけ離れた道具も少ないだろう。どこのご家庭にもひとつあるという物ではない。私たちが初めて音叉に触れたのは、小学校の音楽の時間か理科の実験の時間だったはずだ。小学校を卒業すると大部分の人にとって、音叉は無縁な物となったはずである。このように音叉は誰でも知っているものでありながら、どこか非日常的な存在物なのである。

 音叉はU字型の鋼に足をつけたシンプルな形状もさることながら、音を発するという点に最大の特徴がある。クラシック音楽の調律では、音叉の出す440HzのA音が基準とされる。また同じ固有振動数を持つふたつの音叉をすこし離して置き、一方を叩いて音を出すともう一方も振動し始める。これが共鳴現象で、誰でも昔理科の実験で見たことがあるはずだ。この共鳴という一事によって音叉は歌人の想像力を刺激するのである。

 卓上に置く夜の音叉共鳴すはるかなる椿事のどよめきに  江畑實

 音叉から音叉にわたすささやかな震えが今のぼくらのすべて  村上きわみ

 深々と春 額に音叉あてて識るわが内耳にも鈴一つあり  里見佳保

 江畑の歌では夜の卓上に置いた音叉がひとりでに音を発するのだが、それは遠く離れた事件と共鳴しているからである。卓上の音叉は孤独な詩人の喩であり、遠い事件と共鳴して鳴る音叉は詩心の震えであろう。孤立しながら他と共鳴現象によって繋がるという音叉の特性が、この歌の眼目であることはまちがいない。一方、村上の歌では音叉同士の共鳴のかすかさに焦点が当てられている。「今のぼくらのすべて」という結句に断念があり、世界との関係の希薄さとディタッチメントを音叉の共鳴のか弱さが象徴している。里見の歌では音叉と共鳴するのはもうひとつの音叉ではなく、ヒトの耳のなかにある槌骨・砧骨・鐙骨の耳小骨連鎖である。外部の音叉との共鳴によって内部の音叉の存在を知るという発見は、世界についての発見ではなく〈私〉の内部についての発見であるところが美しく、また単にその事実の確認に留まらず、〈私〉の内と外との関係性を象徴しているようにも読むことができよう。

 触れられて哀しむように鳴る音叉 風が明るいこの秋の野に  永井陽子

 ふつう音叉は触れただけでは鳴らない。触れただけで鳴る音叉は、それだけ感受性が過敏なのである。またそれは「哀しむように」鳴る。この音叉は永井の自己像とも、より広く詩人の肖像とも解釈することができるだろう。その音叉を風が明るい秋の野に放つのは、永井のせめてもの慰藉である。

 音叉は本来、固有振動数に対応する正確な音を発する。だからこそ音叉が狂うということが、とりわけ特筆に値する異常な事態と感じられる。この点に焦点を当てた歌がある。

 なほ青き音叉の狂ふ音のせり細き鎖骨に指触れしとき  風亜祐宇

 極洋の藍のふかまる水底にくるった音叉の奥つ城はある  氏橋奈津子

 風亜祐宇の歌では鎖骨はおそらく異性の鎖骨だろう。「細き」だから女性で、「なほ青き」とあるので若い女性だろう。すると音叉の狂いは〈私〉が男だとすれば、恋人の裡に芽生えた狂気の喩か、または〈私〉と恋人の関係の破綻の喩ということになる。いずれにしても深刻な事態であり、音叉の狂いは世界の同期の狂いとして把握されている。氏橋の歌は題詠マラソンに出詠されたもので、「くるった音叉」はどうやら海底に沈んだ戦艦のことらしい。くの字に折れ曲がって沈没する船と譬えだろうか。文字どおり受け取っても、海底に狂った音叉が沈んでいるという場面には、私たちの想像力を刺激する衝撃力がある。冒頭に挙げた穂村の歌では少しちがっていて、自分から音叉が狂うことを激しく希求している。このように「世界の予定調和的同期」の狂いを希求するのは、言うまでもなく革命的情念であり、穂村の歌は若い歌なのである。

 ガスタンク溺るるごとく雪に澄み発熱をする音叉しずめる 江田浩司

 近づけばわれの殺意に共鳴す詩人ハ音叉モテ殺ムベシ  江畑實

 肌着干す母に手紙(ふみ)書く「逆光のなかにふるへる音叉がある」と 同

 軽羅もてつつむはるけき春雷にふひに共鳴せしその音叉  同

 音叉が発熱するとは尋常ではない。振動して波動を伝播するのみならず、熱をも放射するのはひとえに詩人の想像力のなかにおいてである。またそれが引火の危険のあるガスタンクの近くであるところが、さらに潜在的危機感を増している。江田の歌では、音叉は激しく振動して放熱する詩心の喩のようであり、詩人はこのような危機感を詩の生まれる条件として求めているのだろう。江畑はよほど音叉が好きらしく、歌集『檸檬列島』のなかに4首も音叉の歌がある。江田の歌においても、音叉は殺意や雷鳴に共鳴したり、逆光のなかに吊されたりしていて、単なる道具の域を超えた象徴性を付与されている。静かに振動し共鳴するという音叉の姿は、詩心の喩として歌人の共感を呼ぶのだろう。

 篠懸の揺れやまぬ日は街をゆく人々あまねく音叉を持てり  松野志保

 篠懸はプラタナスのこと。勧進帳の「旅の衣は篠懸の」とか、 阿部牧郎の小説「篠懸の遠い道」をつい連想してしまうが、日本でも街路樹としてありふれた樹である。「篠懸の揺れやまぬ日」とは単に風の強い日というわけではなく、何が事件が起きて人々の心が騒いでならない日ということだろう。そんな日にはどの人の内にも外部と共鳴してやまない音叉が見えるようだと松野は詠っている。ひとりひとりの内部に音叉があるという見立ては、人間同士の潜在的なつながりを象徴しているようでなかなか美しい。

 あるときは震える詩心の喩となり、あるときは世界との同期を象徴し、またあるときは人と人とのコミュニケーション可能性の暗喩となる。音叉は短歌のなかではこのように、とりわけ象徴性の豊かな事物なのである。