111:2005年7月 第1週 下村光男
または、行為を封鎖された青春のロマンチシズム

暁(あけ) 死してねむるわが裡(うち)こうこつと
     霜ふれり霜ふりの牛肉(ビーフ)に

            下村光男『少年伝』
 下村光男の第一歌集『少年伝』は、 1976年に角川書店の「新鋭歌人叢書」の一巻として上梓された。短歌史において伝説的叢書である「新鋭歌人叢書」の残りの巻は、成瀬有『遊べ、櫻の園へ』、小野興二郎『てのひらの闇』、杜沢光一郎『黙唱』、小中英之『わがからんどりえ』、玉井清弘『久露』、辺見じゅん『雪の座』、高野公彦『汽水の光』である。この叢書はよく売れたらしい。今日の出版事情では考えにくいことである。また篠弘がこの叢書で世に出た歌人たちを、「微視的観念の小世界」と評したこともよく知られている。

 掲出歌は初句で「暁」一字二音で一字空けを入れ、「死してねむる」に句跨りを作り、四句目でも「霜ふれり」の力強い断定を句中に置くという、韻律的に工夫を凝らした作りになっている。歌意としては、青年が自己の内部を見つめる内向的視線と、睡眠と恍惚とが結合した一種ナルシシズムに溢れた世界を描いている。特におもしろいのは「霜ふりの牛肉に」という喩で、霜降り肉が眼前にちらちら揺曳することで、青年期の肉の哀しさを描く下村の短歌世界に、像的喩として肉感的手触りが与えられている。

 下村光男は1946年(昭和21年)生まれだから、戦後の団塊の世代である。父親は医師であったが、医学に進むことを拒んで、國學院大學に入学し古代史を学んでいる。高校時代から短歌に興味を持ち、特に釈迢空(折口信夫)の歌に魅せられたとあとがきにある。「少年伝」50首で1968年(昭和43年)に角川短歌賞次席に選ばれている。第一歌集はこの連作題名をそのまま歌集題としたものである。

 連作「少年伝」はそのまま歌集に収録されているが、例えば次のような歌が並んでいる。

 肩なめてことばすくなにあゆむ父医を継がざりしことにはふれで

 いたずきを知ってか誰も来ずひと日かつてこがれし虚空みていつ

 草原を駆けくるきみの胸が揺れただそれのみの思慕かもしれぬ

 ひたぶるの天のなみだか野のいっぽん杉にわが眼におつるあまつぶ

 この朝(あした)おのれ目醒めていくごとく 天 柑橘に充ちつつありたり

 われいつかことばボールに充たしめてこの黙(もだ)ふかき天へ打つべし

 父の期待に背いて医学の道に進まなかったことへの拘泥、幼いときに亡くなった母への思慕、結核を病んだことによる孤独、青春期の淡い性欲、詩歌の世界に関わることへの自負と矜持など、青年期の心の揺れと孤独が、文語律ながら平仮名を多用した文体を駆使して詠われている。多量の感傷と浪漫性を内包した青春の絶対的な輝きと翳りがここにある。1960年代はまだ青春が輝いていた時代であり、「青春歌」という表現が意味を持っていた。現代においてこのようなキラキラした青春歌を作るのはむずかしい。

 もう少し歌を引用してみよう。

 よみがえるなんの記憶や 虹 みいる青年ふかくにも滂沱たり

 おお なんの種子か無数に飛ぶからにあかね野われは馳せてきたるを

 わかく死ぬ相いくたびもいわれきてうつせみ茫といたり夜の淵

 孤立いま堕ちたるものにふさわしく地平うたれてわがゆくみぞれ 

 いしだたみ蜥蜴しゅしゅっとあらわれてやがてかくれてゆけり孤独に

 ゴッホ忌のかなた戦げる糸杉の おお その深き空間の〈あお〉こそ

 虹を見て泣く青年の感傷、夭折への怖れと憧れ、孤立感と裏腹の矜持などがこれらの歌の主題である。これは「独り遊びの青春」であり、病気のせいもあって「行為を封鎖された青春」の像である。下村がこのように篠に「微視的観念の小世界」と評されたほど自己の内面に沈潜するには、それなりの理由があったのである。このような内向性は同時代の歌人にも共有されていた。 

 やりどなき心にとほく街の空かがやく塔を残し暮れたり  成瀬有

 ひとり聴く潮騒さみし春の湯に泡たてあらふせいねんの髪  小池光

 平仮名で「せいねん」と書くところに時代特有の甘さが感じられる。少し先輩にあたる村木道彦も「せいねん」と書いて世の人を魅了した。しかし1960年代後半は政治の季節でもあった。政治にコミットした歌人たちは一方で次のように詠っていたのである。 

  機動隊去りたるのちになお握るこの石凍てし路面をたたく  
        福島泰樹『バリケード・一九六六年二月』1969年

  スクラムの思想もろともかかえたる腕ひえびえと若き精悍 
        三枝昂之『やさしき志士たちの世界へ』1973年

 世界の変革を夢見て権力と対峙する青春のすぐかたわらで、下村のように「独り遊びの青春」を詠う歌が作られていたことは興味深いことである。しかし両者に共通するのはロマンチズムであることに異論はなかろう。このようなロマンチズムもまた、現代の若い人が持ちにくくなったもののひとつである。

 下村の作歌上の特徴としては、文語律定型に対するさまざまな試みがあげられよう。1960年代に短歌を作るということは、戦後の第二芸術論とそれに対抗するように編み出された前衛短歌の斬新な語法をすでに既知のものとして出発するということである。「自分はそれに何を付け加えることができるか」という問いはなかなか重いものであるはずだ。それはとりあえず次のような韻律から遠く逃れる不断の努力でなくてはなるまい。

 ともしびをうかべてよるの隅田川ふと大正のろまんこおしも

 『少年伝』のなかでは珍しい例である。これは塚本邦雄が「オリーブ油の河にマカロニを流したような」と表現した韻律に属する。下村はこのような韻律から逃れる工夫をいろいろ試みていて、特に歌集後半にその例が多数散見される。

 Oよ懺悔のいま詮もなきこころにて垂るるいくすじわれのなみだは

 ゆうべ 牛蒡を煮しむるにおいながれつつ飢えはしずかにきざすかなしも

 やしろ炎上しゆき 火の夜半 恍惚と翁いちにんみはりいたりき

 さなり世智などあらぬされども裡ふかくほのぼのとわが感性はあれ

 1首目では初句「Oよ懺悔の」が7音であり上句にかなり破調感がある。2首目では初句6音の「ゆうべ牛蒡を」を意味を優先して「ゆうべ」で区切っているために、意味と韻律にずれがありそれがかえって一首の存在感を増している。3首目はもっと破調感が強く、7・7・5・7・7に加えて句跨りがある。4首目も同じである。このような韻律上の試みにも注目しておくべきだろう。それは余りになめらかな短歌の韻律を堰き止めて、そこに生まれる抵抗感を手掛かりとして、リズムと意味の一回限りの新しい拮抗関係を創り出すという試みである。

 下村は1987年に第二歌集『歌峠』を出版しているが、その歌作はそれほど多くはない。現在の歌壇であまり話題になることもない。しかし『少年伝』後半に収録された次のような歌を読むと、記憶されもっと読まれるべき歌人だという感を深くするのである。

 食(お)すと焼くしおじゃけ塩を噴きながら垂りくる茫とわれのなみだは

 こんめいのきみもひとりのモーゼにてゆく詩歌この杳き死地をさし

 くちなわの目見やさびしくなに瞠る 彼方 エデンのごとく昏れつつ

 みはるかす穢土のゆうぐれふとしもよわれもかえりてゆきたし永劫(とわ)へ